ある夏の光景、記憶(って、日付があるじゃん‥‥)
雪にうもれた庭を見ていると、花が恋しくなる。
でも温室のバラはいらない。
オートマチックのカメラで撮ると、日付を入れることができる。デジカメでなくとも
バカチョンと呼ばれたカメラにもその機能はついていたと思う。
ある友人がデジカメはプリントしないですむから使わない、と言った。
友人は年配者であるが、さほど年配というほどでもないとわたしの感覚では思えるが
一眼レフのアナログしか使わないのである。理由はさきにいった通りで。
それで長く使わずにしまいこんでいた一眼レフをあげることにしたのだった。
彼はとても喜んでくれたが、デジカメの方が楽でいいよというのは頑として否定した。
たしかにプリントしないことが多い。しなくても確認できるからである。
PCに取り込んでディスプレイで見る、あるいはCDやDVDにコピーして見る。
見るためだけなら必ずしもプリントする必要はなく、これらは保存方法である。
フィルムで撮ったものはネガのままだと傷むのでプリントしたりポジにしたり
して保存してきたものである。
そのファイルを取り出してみると、日付がないものが多いことに気づいた。
日付がないと、思い出せないものもある。
あれ、こんなのいつ撮ったっけ? となる。
目で、目の先っぽのほうで、見たものは記憶しない。
記憶するには、もっと奥の方へしまいこまなければ、消えてしまうのだ。
政治家の答弁、「記憶にございません」はあながち嘘ばっか、とも言えない
かもしれない。
出来事に対して上っ面でしかつきあわず、他人事であれば覚えてなどいない。
さっさか片付けてどんどん先送りしていけば、頭にも、腹にも、入らない。
事実について深く見つめたり考えたりしないで、金勘定だけは気にする。
それも額面だけ。
預かった血税を証券化して運用すれば、かならず増えるなどという話を
耳元でささやかれたら、「増える」のところだけが耳に残る類いである。
歳をとるにつれ、ふとしたときに思いがけない記憶がよみがえり、
それが自分のものだったか、はたまた妄想なのか、夢なのか、唖然とし
しばしわからなかったりする。わたしだけか‥‥
しかし、一度蘇った記憶はそれからひんぱんに出て来るようになる。
理科の理。ことわりとも訓むが、り である。
縁 生 極 易 定
この五つのながれを総称して 理 という。
理に沿って 定 じょう 定まるのところまで行かないと、記憶の
装置にとどまって、それは夢のようにふいうちに再現される。
わたしは幼いころの記憶に中年にさしかかったある日突然さいなまされる
ようになった。話には聞いたことがあるが、これはトラとウマなのかと。
それをどのように解決したか。
理にそって、考えつきつめ、定のところへ運んだのである。
それで、記憶は消え、おだやかである。
正確にいうと、記憶がきえたわけではないが受けたストレスによって
動揺したりしなくなった。
記憶の入れ替えとでもいうべきか。
いや、人は目の前にある事実を整理しておかなければ、脳は未整理のものを
はい、これ、と提案してくるということだろう。
数十年前のことを提案され、ビビっている場合かよ、とわたしは思った。
数年前のこと、数ヶ月前のことでも同じだ。
眼前にあらわれたものを、右へと流さない。
流していいものとそうでないものとある。
流したと思っていても、消したと思っていても
日付の入った写真をみれば、蘇ってくるのだから、消えたりはしないのである。
ならば、定め のところで落ち着かせておいたほうが後々の平穏のためでは
ないか。うさこはそう自分に言い聞かせている。
注:理=五鎮(神、心、理、気、境)のひとつ。
五鎮は神のハタラキ。
この神とは拝む対象の神様ではないよ、拝んでも届かぬぜよ。