想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

歴史の泡ではなく、生きている

2009-01-10 09:24:23 | Weblog
    

    みぞれまじりの雪、ときどきぼた雪、昨日は一日中雪だった。
    そして昨夜は上空の雲が厚かったらしく、電波障害。
    年に何度かこういう夜がある。
    うってかわって今朝は大風、雲は流れたようで電波障害も回復したが、
    降り積もった雪が風に煽られ、吹きつけ、今度は地吹雪である。

    「秋田名物の地吹雪」で観光客を呼び町おこしという記事を読んだことが
    ある。地吹雪が珍しくて遊んでいるうちはいい、山の中は樹々が折れ飛ぶし
    立っていられないくらい吹きつけるので、親分も表へ出せない。
    赤松の大木が揺れている。
    今日もまだとうぶん吹くだろう。

    ところで10年前、君はあなたは何をしていたか? どこで? 誰と?
    10年ひとむかしというが、最近は一年ひとむかしといったほうがいいくらい
    変化が激しくなっている。忘れ去られてしまう。
    目先をどんどん変えて、ひとつのことにじっくり取り組んだりするのは珍しい。

    自分がどう生きてきたか、それを忘れないことは、歴史の泡にならないことだ。
    「インテリは歴史の泡を取り出して、それで歴史を創りあげ歴史はこうだという」
    と小林秀雄は語っている。(河上徹太郎との対談)それは歴史じゃないと。
    歴史は海、あるいは大河のように流れ、人はその中を泳ぐのだという。
    泳ぐというより、泳がしてもらっている、浮かしてもらっている、という。

    人ひとりひとりに歴史がある。
    それがうねりとなり大きな流れになってひとつの形に見える。
    けれどもそれを一枚の絵にとらえることなど無理なのである。
    とらえたつもりが、泡沫にすぎない。
    10年前、何をしていたか。それからどうしたか。だから今どうなのか。
    それを丹念に追い、自分という人ひとりが生きた時間をたしかにしていく。
    すると、人ひとりの重さもたいしたものだと思えてくるのではないか。
    あるいは、そう生きようとするのではないか。

    電波障害の夜に小林秀雄全集はうってつけだが、歴史について語った対談を
    数ページ、ふむふむ、そうやそうや、今もおなじや、と思いながら読み
    すぐに寝てしまったのであった。
    もう一冊、聖徳太子の夢殿(法隆寺にある)は、どうして夢殿なのかという
    考察をした文章も読んだな、眠りにつく前にはこういうわかりやすい本を読む。
    わたしにとってこれらは身近な、親しい本たちである。
    すでに知っていることをさらに確かにするために、師と語らうように読むのである。

    そうそう、昼間は10年前からのデジタルビデオをVHSやDVDに編集した。
    忘れていた風景や、この森が荒れ野だった頃、みんなが若かった頃がそこに
    映し出されていた。
    わたしはキャピキャピしていてなかかなに恥ずかしい女で、それがだんだんと
    低い声に変わっているし、ねずみ師は渋い顔、今よりずっと厳しい顔だった。
    今近くにいないあいつやアイツもそこにいて、いないはずだなとも思う行動が
    そこにある。そばにいないけど何をしているかよくわかっているアイツは
    なかなかにしぶとい面で、でもそれを隠してヘラヘラしていて、けなげだ。
    建設工事の数年間、とんでもなく辛い日があったことを、おそらく今では
    ほかのみんなも忘れているだろう。
    この映像をみれば、肌身に蘇ってくるかもしれないが。
    いつか、届けたいと思う。

コメント
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