『正法眼蔵随聞記』(ショウボウガンゾウズイモンキ)第一の七。
師弟の問答、その一に「不昧因果の法則に昧(くら)まさられない道理とは?」
同じく次に「因果の法則に動かされないで、どうしたら脱落ができるか?」
と次々にどうしたら? どうしたら? と弟子は尋ねている。
対して道元の答えは「一刀一断」につながっていく段の話である。
道元の教えは南泉和尚という僧が猫の子を斬ったという公案によって説かれて
いくが、説けば説くほど弟子懷奘は「とは何か?」と問い続けている。
斬るならば一刀両断でなく一断とはいかに? という具合に聞くので道元はまた
「猫児是れ」と答える。
この公案と弟子との問答を読み進んで道元がいわんとするところが見えてきて
思い出したのは、道元は学道の人であったこと。
何を学ぶかといえば、ただ一つ仏の道である。その一点から決してそれない。
そこのところを実感としてわからない側にすれば、
「いかに? どうして?」と問うてなぜ悪い、問うてあたりまえではないかと
思うのだろうけれど。
公案は〈猫の子をおいて「これを何と見るか」と問う側と問われて答えられない者
(修行僧)との二者間の結末が猫を斬り殺す〉で、話には続きがあって、そこへ別
の和尚が現れたので、あなたならどう答えたかと問うたところ、その和尚は自分の
履いていた草蛙を脱いで頭の上へ乗せて外へと出て行くのである。
この最後のところが最も重要なのだと道元は教えているのだから、はい、わかりました
とわかりそうなものを、弟子懷奘はさらに一断にこだわったのである。
問われ続けて道元は次にとても丁寧に「猫児仏心」ということを話す。
しかしながら弟子は猫を斬るということは何といおうとも罪ではないのですか?と
さらにくいさがっている。それに対して道元は「罪相なり」と答え否定はしなかった。
否定しないから肯定しているのではないことに弟子は気づいただろうか。
気づかないので、またさらに問うている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/0c/580156e65905259cb7d4c41efd54758c.jpg)
(シマコまたの名を猫道菩薩)
この話のおもしろいところは結局のところ、言葉の意味をどこでどう理解するかという
ことに尽きる。禅の極意は只管打坐にあると教える道元に、言葉の意味を言葉でもって
尋ねる弟子とそれに答えつづける道元。
理詰めではありません、それじゃあ仏の心はわかりませんってことなのだが、
わからない者はそれはどこまでも聞く。しかたがないですよ、わからないですもの、と
いうことなんだろう。
たしかに、草蛙を頭に乗せていっちまう人は稀なのだからなあ。
罪を犯さない、つまり猫を斬ってはいけないかいいかというだけの話にとどまれば
それはいけないに決まっているが、仏行という視点で見ればそれは罪ではなくなり
猫の命によって悟らねばならないのだよと道元は一断を説明している。
一筋の道からそれるな、ということである。
いたずらに議論したり理屈で考える癖は、枝葉に気をとられ木のめざすところの
輝く青さも目に入らなかったり、木が立っている豊かな土も土中に伸びてつながっている
根の神秘にも気づかないことになる。
そんなことを同時に戒めている話である。
物事の真理に気づくというのは理屈でわかるというのと別次元であって、知ろうと
して考えているときには決してわからない。さりとて知識がいらないかというと
そうではない。考え続けてはたと止まったとき、妖精がヒラヒラと目の前を通り
過ぎて行き、その落とし物を偶然受け止めるみたいな感じでわかるのである。
キラキラとまぶしく目の前にある。
そのとき後付けとして知識が少しは役立つだけのことで、キラキラを目にした人は
多くを語らない。けっして誰彼に吹聴しようなどとは思わないものなのだ。
凡夫は言葉にとらわれがちで、そこのところがどうもわからない。
わからないから、ただ坐れと教えている。
手に持つな、足は組め、目は閉じよ、ただ呼吸のみ。
一方で公案によって言葉を鍛えられ考えることが求められる。
矛盾しているようだが、この両方が道元の教えの根幹にある。
まずは、自我の重みにうんざりすればしめたものである。
師弟の問答、その一に「不昧因果の法則に昧(くら)まさられない道理とは?」
同じく次に「因果の法則に動かされないで、どうしたら脱落ができるか?」
と次々にどうしたら? どうしたら? と弟子は尋ねている。
対して道元の答えは「一刀一断」につながっていく段の話である。
道元の教えは南泉和尚という僧が猫の子を斬ったという公案によって説かれて
いくが、説けば説くほど弟子懷奘は「とは何か?」と問い続けている。
斬るならば一刀両断でなく一断とはいかに? という具合に聞くので道元はまた
「猫児是れ」と答える。
この公案と弟子との問答を読み進んで道元がいわんとするところが見えてきて
思い出したのは、道元は学道の人であったこと。
何を学ぶかといえば、ただ一つ仏の道である。その一点から決してそれない。
そこのところを実感としてわからない側にすれば、
「いかに? どうして?」と問うてなぜ悪い、問うてあたりまえではないかと
思うのだろうけれど。
公案は〈猫の子をおいて「これを何と見るか」と問う側と問われて答えられない者
(修行僧)との二者間の結末が猫を斬り殺す〉で、話には続きがあって、そこへ別
の和尚が現れたので、あなたならどう答えたかと問うたところ、その和尚は自分の
履いていた草蛙を脱いで頭の上へ乗せて外へと出て行くのである。
この最後のところが最も重要なのだと道元は教えているのだから、はい、わかりました
とわかりそうなものを、弟子懷奘はさらに一断にこだわったのである。
問われ続けて道元は次にとても丁寧に「猫児仏心」ということを話す。
しかしながら弟子は猫を斬るということは何といおうとも罪ではないのですか?と
さらにくいさがっている。それに対して道元は「罪相なり」と答え否定はしなかった。
否定しないから肯定しているのではないことに弟子は気づいただろうか。
気づかないので、またさらに問うている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/0c/580156e65905259cb7d4c41efd54758c.jpg)
(シマコまたの名を猫道菩薩)
この話のおもしろいところは結局のところ、言葉の意味をどこでどう理解するかという
ことに尽きる。禅の極意は只管打坐にあると教える道元に、言葉の意味を言葉でもって
尋ねる弟子とそれに答えつづける道元。
理詰めではありません、それじゃあ仏の心はわかりませんってことなのだが、
わからない者はそれはどこまでも聞く。しかたがないですよ、わからないですもの、と
いうことなんだろう。
たしかに、草蛙を頭に乗せていっちまう人は稀なのだからなあ。
罪を犯さない、つまり猫を斬ってはいけないかいいかというだけの話にとどまれば
それはいけないに決まっているが、仏行という視点で見ればそれは罪ではなくなり
猫の命によって悟らねばならないのだよと道元は一断を説明している。
一筋の道からそれるな、ということである。
いたずらに議論したり理屈で考える癖は、枝葉に気をとられ木のめざすところの
輝く青さも目に入らなかったり、木が立っている豊かな土も土中に伸びてつながっている
根の神秘にも気づかないことになる。
そんなことを同時に戒めている話である。
物事の真理に気づくというのは理屈でわかるというのと別次元であって、知ろうと
して考えているときには決してわからない。さりとて知識がいらないかというと
そうではない。考え続けてはたと止まったとき、妖精がヒラヒラと目の前を通り
過ぎて行き、その落とし物を偶然受け止めるみたいな感じでわかるのである。
キラキラとまぶしく目の前にある。
そのとき後付けとして知識が少しは役立つだけのことで、キラキラを目にした人は
多くを語らない。けっして誰彼に吹聴しようなどとは思わないものなのだ。
凡夫は言葉にとらわれがちで、そこのところがどうもわからない。
わからないから、ただ坐れと教えている。
手に持つな、足は組め、目は閉じよ、ただ呼吸のみ。
一方で公案によって言葉を鍛えられ考えることが求められる。
矛盾しているようだが、この両方が道元の教えの根幹にある。
まずは、自我の重みにうんざりすればしめたものである。