想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

卯月朔日妄想

2010-04-01 18:49:05 | Weblog
冬が長いとしみじみ思い、時に海辺に移り住もうかなどと思ったりしないでもない。
けれど、その気の迷いはほとんど遊びのようなもので、すぐに打ち消される。
このキビシさのがいいんだ、と思い直すのである。

いったん春を迎え夏を迎え実りの季節といっきに変わりゆく様相はさながら天国、
大海原の波を眺めているより、よほど飽きない。
そう理屈をつけてみたりする。
好き嫌いに理屈はないものを、後付けでなんとでもいえるものだからな。
とにかく寒くても水が出なくても、大風が怖くても、この場所は天国なのじゃ。

青葉の季節の写真など眺め、妄想で夏。



どうだんつつじの燃える赤を眺めて、妄想で秋。カメも歩いているし、な。



浄土信仰は今の残酷を生きる者への救済である。
わたしはその解釈に疑問を持っている。
救済など少しもされていないではないかと。
衆生済度の自己満足にとどまっているではないかと疑うのである。
いやなに坊さん全てを信用しないというのではない、葬式仏教のていたらくを
仏教と呼ぶには遠すぎるということだ。

この実感として刻まれた思いをくつがえしてくれる仏教者にまだ逢っていない。
その望みも、もはや抱いてはいない。
仏教を決して否定しない(むしろ重要だと考える)が、仏陀の教えの解釈の違い、
末法の世に弥勒菩薩も表れそうにないし、迷信を誘ってしまう罪は大きい。
簡単に救済、助かるなどと言って拝ませてはならないのである。

法然上人の南無阿弥陀仏と唱えれば浄土へ行けるという思想に断固抗議した
明恵上人の思い(催邪輪)をひきつぐほうがより人間らしい、原始仏教により近い
信仰ではないかと思うのである。

明恵上人のお最期は不食の病であった。
ナマ臭坊主の酒池肉林ならばかからない病であろうなあ。質素節制と長き修行の
日々は身体にやさしいわけがない。
身体の救済ではなく、心を、魂の行方を、その救いにこだわったお方である。
怠け者はよせつけないが、鳥獣の声を聞き千里眼で雛鳥を蛇から救ったお方である。
そういうお方は簡単に「信ずれば助かる」などと申されない。
ただただ座して、我を捨て義あるのみ、と言われただろう。
あるべきやうわ、とはそのことだから。

山でなくてはできんなあ、やっぱり。


コメント
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