想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

似てるかも‥ひょうひょうなふたり

2010-04-07 09:00:00 | Weblog
ベイビーが座っている椅子はそれなりの風格があったんだけど子犬がやってきて
彼専用になってから次第に変貌の一途を辿り、森へと引っ越してきた。
半年ほどでデカクなったラブラドール、もうこの上で寝転べなくなったのに、
愛用品というのは犬もヒトの習性と同じで手放せないらしい。
いつのまにか外用になったこの椅子、アンティークショップで買ったときの値段は
とっくに忘却の彼方である。もともとガラクタだったようにしか見えん。

犬と暮らすということで価値観がすっかり変わるのは、おおかたの犬好き(特に
大型犬好き)が経験していることだろう。


(カメとベイビー、夕暮れの空を見て一服。
オヤジ2ショットと言いたいところだがベイビーはこのときまだ4歳、青年である。)

泥に汚れることも、ふかふかのタオルがあっという間にちぎれて穴があくことも
それをそのまま使い続けることも、別にどうってことじゃない。
汚れたものは洗えばいいし、破れて不便なら繕えばいいんだし。
壊れたものや齧ってつぎはぎになった上物がけっこうある。捨てないでそのまま
とってあるからヤツがこどもの頃に何をしたか、思い出せて笑える。

皮製のカメラバッグの角をガジガジしたのを、今、鼻面へ持って行って「ほら、
アンタでしょ」と見せると、やーだなあと目をそむけるのである。
わざとらしく知らんぷりすること多々あって、からかう材料に事欠かない。
形あるものが壊れたり汚れたり、これがヒトの悪ガキの仕業だったらどうなんだろう?
母親はいろんなことを受け止めながら子育てをする。
それは犬でもヒトでも同じことで許したり叱ったり、そして己の価値観を疑ったり
そうやってお互いに変わりながらなじんでいくのじゃないかしら。

「本来無一物」も執着を捨てることも、頭で知っていてもそれなりの事情がなくては
シャバで暮らしてて悟れるものではない。
捨てることと許すこと、諦めることは近い。
諦めることの第一歩は己の価値観から離れることだ。たいしたことないのに勘違い
している価値観と、自分という我が邪魔をする。
握りしめた手を一本ずつほどいてはなしていくのは辛抱がいる。
しかし自分より一見して非力、一見して不自由な相手からそれを知らされほどくのである。

数えきれないほどに教わったことがあって、考えさせられたことがあって、
まだ進行形なんだけれども、ベイビーのやさしさに救われてきた。
こういうと変だけど、上の二人なんだか似ている気がする。
うーむ、無心かなあ。ひょうひょうとしてるもんなあ。
コメント
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