「西の魔女が死んだ」(梨木香歩著、新潮文庫)の中での会話(筆者要約)。
死んだあとにどうなるの? という孫(主人公まい)の問いに祖母が答えて、
魂が抜け出していくのよと言う。まいは、からだがなければ嫌な思いもしなくて
いいんじゃないかとさらに問う。
そこで魔女こと祖母は、からだがあるから様々な体験をして魂は成長するのよ、
それが魂の本質なの、と応える。
まいは納得したわけではないけれどうなづいて‥、今ある苦しさを引き受けようと
するが‥。
魂は目に見えないから、あると言われてもどこにあるのかといぶかしい。
けれども魂があるということは認めたほうがなんとなくここちがいいことも確かだ。
からだだけだと、不都合で理不尽な自分を救いようもなく逃げ場もないからだ。
人は見えない魂の存在に最後の自尊心を託すかのように、あいまいな信頼を寄せる。
普通はこんな感じではないかと思うのだが、先に書いた西の魔女の言葉が気になる。
「魂は体験して成長する」という箇所。
わたしは魂が成長するのではなく、人(脳)が魂に近づくだけではないかと思う。
魂は完全無欠のまま、それをからだが体験するごとに傷つけていくのが人生の歩みで
あって、そのことに気づいた者は魂の無垢さ、完全な恵みに救われるだけではないか。
なぜならわたしは歳をくってもあまり成長していない。
世間の事に少しは通じてきたが、それで成長したとも思えない。むしろ三つ子の魂を
日々感じる(三つ子の魂というのは人間性であって正確には魂ではなく性格のこと)。
直しようがないが体験は人を過ちから救うだけのことはある、それは脳に蓄えた知恵だ。
魂はそれとはまったく別なところでわたしを救っている。
そのことに気づくのがもっと早ければ三つ子の魂も違ったものになったかもしれない、
(それは欲というものだが)少なくともわたしの破れかぶれな行動に魂が左右され
たりはせずに、ひっそりと鎮まっていたのである。
ある直感や強いて自分を押しとどめようとする感覚にあらがえないときがある。
そういうとき以前ならばさらにつき進もうとしたのだが魂を知った今は違う。
自分を疑い、周囲を確認し、耳を澄ます。
考えるというよりも、目を閉じて耳を澄ましてじっとする。
そうやって魂の声を聞くようにしている。
人は成長して魂に近づき、そして時満ちたらからだという殻から「魂脱出」をはかる
ということではなかろうか。タマシイダッシュツセイコウ、と遺言した西の魔女へ、
東の東のコヤネノコはそう思うのでありますよ。
(梨木香歩さんの本はこれ以外もどれもステキなのですよ~)
西の魔女は、たしかに西側のそれである。シュタイナーを学ばれたということだから
源流はそこにあるのかもしれないなあ、と思うが。
うさこはわが国の古伝を学んでいるのでそこんとこが西と東、ビミョーに
異なるのである。そこんとこ、小説のすばらしさとはベツモノだから仕方がない。
カメによく尋ねて、また書く事にしよう。
死んだあとにどうなるの? という孫(主人公まい)の問いに祖母が答えて、
魂が抜け出していくのよと言う。まいは、からだがなければ嫌な思いもしなくて
いいんじゃないかとさらに問う。
そこで魔女こと祖母は、からだがあるから様々な体験をして魂は成長するのよ、
それが魂の本質なの、と応える。
まいは納得したわけではないけれどうなづいて‥、今ある苦しさを引き受けようと
するが‥。
魂は目に見えないから、あると言われてもどこにあるのかといぶかしい。
けれども魂があるということは認めたほうがなんとなくここちがいいことも確かだ。
からだだけだと、不都合で理不尽な自分を救いようもなく逃げ場もないからだ。
人は見えない魂の存在に最後の自尊心を託すかのように、あいまいな信頼を寄せる。
普通はこんな感じではないかと思うのだが、先に書いた西の魔女の言葉が気になる。
「魂は体験して成長する」という箇所。
わたしは魂が成長するのではなく、人(脳)が魂に近づくだけではないかと思う。
魂は完全無欠のまま、それをからだが体験するごとに傷つけていくのが人生の歩みで
あって、そのことに気づいた者は魂の無垢さ、完全な恵みに救われるだけではないか。
なぜならわたしは歳をくってもあまり成長していない。
世間の事に少しは通じてきたが、それで成長したとも思えない。むしろ三つ子の魂を
日々感じる(三つ子の魂というのは人間性であって正確には魂ではなく性格のこと)。
直しようがないが体験は人を過ちから救うだけのことはある、それは脳に蓄えた知恵だ。
魂はそれとはまったく別なところでわたしを救っている。
そのことに気づくのがもっと早ければ三つ子の魂も違ったものになったかもしれない、
(それは欲というものだが)少なくともわたしの破れかぶれな行動に魂が左右され
たりはせずに、ひっそりと鎮まっていたのである。
ある直感や強いて自分を押しとどめようとする感覚にあらがえないときがある。
そういうとき以前ならばさらにつき進もうとしたのだが魂を知った今は違う。
自分を疑い、周囲を確認し、耳を澄ます。
考えるというよりも、目を閉じて耳を澄ましてじっとする。
そうやって魂の声を聞くようにしている。
人は成長して魂に近づき、そして時満ちたらからだという殻から「魂脱出」をはかる
ということではなかろうか。タマシイダッシュツセイコウ、と遺言した西の魔女へ、
東の東のコヤネノコはそう思うのでありますよ。
(梨木香歩さんの本はこれ以外もどれもステキなのですよ~)
西の魔女は、たしかに西側のそれである。シュタイナーを学ばれたということだから
源流はそこにあるのかもしれないなあ、と思うが。
うさこはわが国の古伝を学んでいるのでそこんとこが西と東、ビミョーに
異なるのである。そこんとこ、小説のすばらしさとはベツモノだから仕方がない。
カメによく尋ねて、また書く事にしよう。