土曜日に病院へ行き、池田先生から経過説明をしていただき、
月曜日には退院できるとのことで、ヤッハーです。
明日が待ち遠しいうさこは人参パンケーキを焼いて前祝いなのだ。

無農薬人参の絞りかすと無農薬小麦粉で作ったんだよん。
味は犬さま用なのであるね、お砂糖は入ってないけど人参味は甘いね、
ベイビーのお腹はまだまだ縫合したところがデリケートだからね、
栄養補給とウンチが固くならず自然と出てくるようなメニュウだね。
やわらかくなりすぎてもダメなんだね、案配が実にビミョウ。
楽しみですねー。ベイビーの笑顔を想像しながら作りましたよ。
アホな人が言うとったね、
「ベイビーちゃんがいないとどうです? 違います?」だってさ。
アホだねえ、KYな人だねえ、わかってることをわざわざ言うんだもの。
どうしてだべ? と苦笑いで聞き返したら、へへへ言ってみただけとさ。
つまんない話をするなよ~とドツキました。
でも、たぶんこの手の会話が平気な人も世の中ごまんといるんだな。
あちきにはムリムリ。そういうトモダチならいらない。
新刊本の小説はごく一部を除いてほぼ読まない買わない主義だが、珍しく
買った。「いねむり先生」伊集院静。
先生とは色川武大のことだとわかっているからだ。
枕元に眠れない時に読む本が積み上げてあり、それが二ヶ月か三ヶ月に
一回は入れ替わるが、「怪しい来客簿」はずっと何年もあって本棚に
戻らない。数行読んで眠りについたりするわけなんだけど‥。
色川武大は内田百﨤と並んでうさこの贔屓である。贔屓をちゃんとした
言葉で正しく言うとこの場合、尊敬である。
尊敬する色川武大のいねむりは病気であることを知ってる人は知ってる
ことだけれど、そのまんま使って先生というタイトルにし、いったい何を
書いてあるのか気になる、通りすがりに入った本屋で平積みになっていた
のをみつけすぐに買った。
ベイビーがいなくて朝晩3時間は空いてしまった空白を埋めるのに
ちょうどいいやと思ったのも買った理由。ツンドク本ではなくて今すぐ
読むための本。空虚で不安な時間に打ち勝てそうな題材だとみた。
仕事を終えたあとの時間、二晩で読み終えた。
読みつつずっと思っていたのは、いいなあ、という感慨。
わたしにも先生がいる、だからとてもよくわかる。
出会いがあり、距離が寄っていくときの緊張感と、とまどいと喜び。
職業も立場も違うが、先生と呼ばれる人と呼ぶ人、そういう人間の関係
として同じだった。先生は先生なのだ。
先生に甘えているとき、先生をよく見ていない。
先生のことを知ろうとしたときに、先生は遠ざかる、切ないがそうなんだ。
先生と呼ぶときの気持ちが、世間の手あかまみれのセンセイやシャチョウ
というのとは異質な、ほんとうの意味の場合、その心にあるもののことを、
そのたからもののことを伊集院静は書いていた。
帯の書評に「教養小説」とあったが、たしかにそうだと思った。
ほんとうの教養のある世界がここに繰り広げられていた。
すこぶる心が安らぎ、そして、最後が近づいていった。
「愛されるのは苦しい、真の愛とはそういうものです」
カメのそんな言葉もまた思い出した。
苦しがりながら生きる人をわたしは心底好きなのだ、それが幸せなのだと
思った。
明日、ベイビーを迎えに行くのが嬉しくてならない今晩は、旧事本紀講義録を
よんですごしませう。しばし俗世を離れて。
月曜日には退院できるとのことで、ヤッハーです。
明日が待ち遠しいうさこは人参パンケーキを焼いて前祝いなのだ。

無農薬人参の絞りかすと無農薬小麦粉で作ったんだよん。
味は犬さま用なのであるね、お砂糖は入ってないけど人参味は甘いね、
ベイビーのお腹はまだまだ縫合したところがデリケートだからね、
栄養補給とウンチが固くならず自然と出てくるようなメニュウだね。
やわらかくなりすぎてもダメなんだね、案配が実にビミョウ。
楽しみですねー。ベイビーの笑顔を想像しながら作りましたよ。
アホな人が言うとったね、
「ベイビーちゃんがいないとどうです? 違います?」だってさ。
アホだねえ、KYな人だねえ、わかってることをわざわざ言うんだもの。
どうしてだべ? と苦笑いで聞き返したら、へへへ言ってみただけとさ。
つまんない話をするなよ~とドツキました。
でも、たぶんこの手の会話が平気な人も世の中ごまんといるんだな。
あちきにはムリムリ。そういうトモダチならいらない。
新刊本の小説はごく一部を除いてほぼ読まない買わない主義だが、珍しく
買った。「いねむり先生」伊集院静。
先生とは色川武大のことだとわかっているからだ。
枕元に眠れない時に読む本が積み上げてあり、それが二ヶ月か三ヶ月に
一回は入れ替わるが、「怪しい来客簿」はずっと何年もあって本棚に
戻らない。数行読んで眠りについたりするわけなんだけど‥。
色川武大は内田百﨤と並んでうさこの贔屓である。贔屓をちゃんとした
言葉で正しく言うとこの場合、尊敬である。
尊敬する色川武大のいねむりは病気であることを知ってる人は知ってる
ことだけれど、そのまんま使って先生というタイトルにし、いったい何を
書いてあるのか気になる、通りすがりに入った本屋で平積みになっていた
のをみつけすぐに買った。
ベイビーがいなくて朝晩3時間は空いてしまった空白を埋めるのに
ちょうどいいやと思ったのも買った理由。ツンドク本ではなくて今すぐ
読むための本。空虚で不安な時間に打ち勝てそうな題材だとみた。
仕事を終えたあとの時間、二晩で読み終えた。
読みつつずっと思っていたのは、いいなあ、という感慨。
わたしにも先生がいる、だからとてもよくわかる。
出会いがあり、距離が寄っていくときの緊張感と、とまどいと喜び。
職業も立場も違うが、先生と呼ばれる人と呼ぶ人、そういう人間の関係
として同じだった。先生は先生なのだ。
先生に甘えているとき、先生をよく見ていない。
先生のことを知ろうとしたときに、先生は遠ざかる、切ないがそうなんだ。
先生と呼ぶときの気持ちが、世間の手あかまみれのセンセイやシャチョウ
というのとは異質な、ほんとうの意味の場合、その心にあるもののことを、
そのたからもののことを伊集院静は書いていた。
帯の書評に「教養小説」とあったが、たしかにそうだと思った。
ほんとうの教養のある世界がここに繰り広げられていた。
すこぶる心が安らぎ、そして、最後が近づいていった。
「愛されるのは苦しい、真の愛とはそういうものです」
カメのそんな言葉もまた思い出した。
苦しがりながら生きる人をわたしは心底好きなのだ、それが幸せなのだと
思った。
明日、ベイビーを迎えに行くのが嬉しくてならない今晩は、旧事本紀講義録を
よんですごしませう。しばし俗世を離れて。