想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

マイナス2℃、日向ぼっこ

2009-01-08 13:42:44 | Weblog
  森の谷間から4キロほど走って下界へ向う途中、振り返ると
  山々の連なりがよく見える。
  谷間では木々の間からすこし頂がのぞくくらいだから、全貌が
  見えると車を止める。



  午前10時を回ってあたたかな陽射があっても融けない。
  気温はマイナス2℃、週末へむかってだんだん冷えてきている。
  雪が降るのがうれしいやら、怖いやら……。


  彼がたっている場所は陽がよくあたる坂の上なので雪がない。
  でも道の左右にはたくさん残っている。
  脚が弱っているのに、雪道の散歩だとはりきる親分。
  途中、運動会の障害物競走みたいにして雪を拾い食いしながら
  走るのである。



  しまこのこ(命名、ねずみ師)です。
  物置小屋の屋根でひなたぼっこ、昨夜、縁側にきて
  だみ声で鳴いていたのは、あんただったのかい。
  しまこは縁側でひなたぼっこしてるよ、あんたもおいで。

  以上、本日の中継でした。
  
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松の内の松の枝

2009-01-07 12:42:38 | Weblog
  正月松の内はたいした雪はふらなかったが強風で
  木の枝が折れ、あちこちに吹きやられ倒れ伏している。
  枯れ木でも老木でもないのに、赤松の枝も折れた。

  6日の夜半に門松をとりはずす風習がある。
  歳神さまをお送りし、七日の朝には七草粥を食べる。
  粥はお供えではなく人間さまがくうのである。
  いや、頂きます、である。
  一年の健康と願い、春の芽吹きを寿いでいただく。
  (正月の食べすぎで弱った胃腸には粥がちょうどいい
  から、という説は現代の人の発想だしこじつけだな、
  ごく最近なのだから、日本人が食べすぎなんて言える
  ようになったのは)

  気合の入った門松を立てている家をみかけるが、うちは
  昔から質素だった。今はもっと質素。
  ただ床の間に緑の松と赤い実の千両を生けて飾るのは例年どおり。

  家のまわりを散歩中に松の折れ枝を発見して思ったものだ。
  これが年末に落ちていたら花屋で高い松枝を買わなかったのに
  今かよ……、である。(but,花屋の師匠とのつきあいもあるしな)
  ぼやいてみて、貧乏性とさもしさもここまでくると治らないと
  あきれる、わがことは恥ずかしきことばかりなり。

  赤松は飾りには使わないよ、とねずみ師に言われるかも
  しれないとふと思ったが、本日は多忙につきねずみ師は不在だ。
  聞けないので証拠写真を撮った。



  松ぼっくりは拾った。飾るのである、記念に(何のじゃ?)
  今年も森の木々、草花が良く育ちますように。
  小鳥がたくさん来ますように。
  里のカラスはこなくていいよ、来たらおっぱらうぜ。

  今日もよく晴れて、雪解けの水溜りがあちこちで凍っています。

  PS:赤松の用途は建具など、飾りには五葉松を用います。
    ちなみにうちに落ちている松の枝は焚きつけにするので
    拾っておけばよい、とねずみ師に電話で言われました。
    やっぱりなあ、今年は貧乏でもいいが貧乏性は直そうと
    思うばかりである。  
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ブロガーと大江健三郎

2009-01-06 15:24:20 | 



 早朝は雪が降っていたが、昼になるにつれ
 陽が射してきた。
 気温は低いので寒いことは寒い、でも風がやんだので
 散歩日和ではある。

 文体を考えてブログを書け、大江健三郎氏がそのような
発言をしているのを聞いてちょっとびっくり。
 自由な文体で勝手気ままに書くのもよろしいが意識して
 書くということをお勧めする、という趣旨だった。

 ケータイで投稿するブロガーは10本指で打たないし、表示される
 ディスプレイの幅も考えて文を作る、たぶん。
 ケータイという端末のおかげでブロガー人口が爆発的に増えている
 のだろうから、ブログ+文体という話をわざわざ大江氏がするのは
 ほぼ皮肉とうけとったほうがいいかも。
 大江健三郎はそんなに善良なお人よしではないはずだし、
 だから好きなのであるが、文体の前に内容をと本当は言いたいけど
 そこを言わずに文体と言って、文章世界の垣根の高さを暗示する
 という込み入ったことを想像させる、大江マジック。
 このおじさんは、クワセモノナノダカラ。


 最後の仕事、ということを意識して書かれている「定義集」
 その連載(朝日新聞)を毎月切り抜いてファイルしている。
 いずれ単行本になるだろうに、まるで昔むかしの情報が少なかった
 時代のようなしぐさだが、そのまま捨てがたく切り抜く。
 そして机の上にいつも置かれたままのファイルをときどき読み
 返す。現在連載中なのだから、今現在の大江氏の思考に触れる
 ことができる。

 大江健三郎の小説。
 よく難解と言われるが、べつに難しいことは何も書いてない。
 難解というより、あまりおもしろくないというほうが適切では
 なかろうか。本屋の特設コーナーに「おもしろくないが読め」と
 書かれたポップが立てられて、それまで売れなかった作家の本が
 急に売れ出したという話がある。
 だから言うわけじゃないが、大江健三郎もおもしろくない。

 しかし好んで読む人(わたしもその一人)はもちろんおもしろい
 から読むわけで、難しいとは少しも思っていない。
 大江健三郎氏の描きだす小説世界は連続しているので、むしろ
 わかりやすいのである。一冊だけ読むとわからないかもしれないが
 それでも最初の一冊というのは必ずあるから、そこでつまづくと
 あとは読まないということになる。読まない人が難解と言うのを
 聞いて手にとらないのはもったいないよ、他人(ヒト)は他人、
 己は試せ、だ。

 長年連れ添って理解したくなる相手、人生の伴侶とはそうだろう?
 作家も同じで、この人を理解しようという気がなければ読めない。
 そして伴侶と同じく、そばにいて、角度を変えてじっとみつめたり
 あるときは離れて距離をとって眺めたりしながら理解を深めていく。
 ひとめぼれしたのにすぐ飽きた、なんて若気の至りのような恋と
 違うのだからね。
 ストーリーだけをざっくり追って読み終わる本はブックオフへ行く
 かもしれないが、大江健三郎は書棚に長く置かれて場所をとる。

 考えさせる人、考えずには読めない作品。
 好きな理由はそれである。
 2005年『さようなら、私の本よ!」はかなり興奮して読んだが
 少しも最後ではなく、次の幕が開いたということだった。

 



 
 
 
 
 
 
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熱いシャワーが好きなのさ

2009-01-05 00:32:32 | Weblog
   ここで、クイズです。
   おいらは、何してるんでしょー?!



   自分で回答、目で答えます。
   つまりですね、おいらは、風呂あがりでごきげんのポーズで
   今日もいっちょいくかーとおっかを励ましてるとこ。
   さっき風呂に入ったんです、あ、いや、入れてもらいやした、おっかあに。

   おっかあがサブサブと震えて朝風呂なんぞに入ったので、ついていくと
   「あら~、ベイビー、いい子ねえー、お風呂入りますかー」って、
   おっかあに喜んでもらえたので、そのまま居座りました。

   シャンプーがやたらと気持ちよかったっす。
   なにせ一ヶ月ぶり。この冬初の風呂タイムでした、以上。

   以下、うさこ談。
   (親分は朝晩湿った暖かいタオルでマッサージして汚れを取ります)
   珍しくちと匂うか?と思っていたところ自分でもお気づきになったようで
   自主的にバスルームへやってきました。
   以心伝心? ただの長年の習慣? 
   このごろは、温泉好きのジーサンみたいな態度でおとなしい。
   シャンプーしやすいので助かります。
   子どもの頃は、ブルブル身体を振るわすのであちこちシャボンが散って
   たいへんだったなあ、でっかいし。

   黒い毛がピカピカ、いい匂い~になりました。

   獣医さんに言わせると、あまりシャンプーしないでよ、犬なんだからね、
   とのこと。室内飼いの犬が増え犬の美容院も増えまして、皮膚疾患も増えて
   いるそうです。洗いすぎて皮脂がなくなるのに注意、とアドバイスされて
   から朝晩のタオルマッサージを導入したというわけです。
   でも熱いシャワーを浴びてうっとり、親分はすっかり風呂好きのオヤジみたい。
   たまにはいいか、シャンプー無しなら。
   極寒のカナダ北部産のDNAは、いったいどこへ行っちゃったのかい?
   
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融けて流れてみなおなじ♪

2009-01-04 08:33:02 | Weblog
  富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町(ぽんとちょう)に降る雪も

  融けて流れりゃみなおなじ~♪♪♪♪

  って子どもの頃に歌ってました、意味もわからずに毎日がソラミミアワー。
  (ポントチョってナンだろうってずっと思ってた)

  正月三日間、雪はどかんと降らず朝晩にちらちらするだけなので、ほぼ融けて
  週末にまたどかんときそうなので、それを期待しつつ、さてと雪景色の写真を探すと。

  写真は去年のどかん雪、正月4日に撮ったもので、つまり1年前。
  右端に黒く、その頃の愛車が‥‥ この写真を撮った三週間後に事故で潰して
  しまって、その数ヶ月後には、ガソリン高騰、また高騰でアメ車でなくて
  よかったよかった、なあたふたを思い出させる写真なのですね(まったく極私的な話)

  形あるものは壊れる、そういう言葉を教えてくれたのはねずみ師ですが、
  口では言っても物に対する執着は、なかなか捨て難いもの。
  昨日の話じゃないけれど、足ることを知らないと、茶碗一個欠いても慌てます。
  ブランド物など持った日には着倒すことなどできなくて、タンスの肥やしに
  なる貧乏性のわたくしめが、いかにして、形あるものは‥‥みな消え失せるぜぃ、
  なぞと口の端に上せるようになったものか。
  自分でもよくわからなくなっていますが、もしかして、悔いるのが面倒くさい?

  逆の発想であるね、悟りなどという高尚なものとはちと違う。
  執着から離れようとすると、離れる努力がいる。
  その努力と、ハナから執着なぞしないのと、プラスマイナスで考えると
  要らない努力をけっこうしていると思うんである。
  執着するから煩わされるという考えです。

  長生きできるかどうかもわからないのに、数十年先のことを思い描いたり
  夢想して、たいていの人が夢見小僧と五十歩百歩。
  夢を見ないうさこも、一寸先は闇、と思っています。つまりわからない。
  わからないということをわかっている。
  わからんことを思うと、へたすると妄想になる。
  妄想は楽しければいいが、クラーイ妄想などしたくもない。

  欠けた茶碗のかけらをじっと見て、そうか、おまえさんはそうなるか‥
  と嘆息し、驚き、拾い上げるだけであります。
  高価なカップや花瓶、アンティーク鏡、いろいろ壊し、壊したかけらで
  人を傷つけたり‥(かけらが飛んだのね)いろいろ悔いを重ねた日々がありました。
  悔いるのは、とても消耗します。

  消耗戦に費やすカロリーを考えまして、プラスマイナスで、持たずの方を選び
  すでに持っているものも、無いのと同じ。無くて在るの位置づけです。
  有るものを数えると不幸の数も増える気がします。
  まるでババアの発想のようでなくもないが、ま、いいか‥。

  無いなりの工夫、それが人をしあわせに導くのであると
  そう教えられた気がします。

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朝六時、ふたつの景色

2009-01-03 12:14:52 | Weblog
        2、3分後には‥‥明るくなって


やがて赤々と朝陽が昇る、まだ静かだ。

  年末年始、都心部は静まりかえる。
  けれども、森の静けさとは質のことなる静かさで
  うまく一言では表せないのだが、乾いたノイズがまだ残っている
  本当の静寂ではない感じだ。

  頭痛がするのである。

  こんなことではいけないと思うのだが、わたしは森の中に長く居すぎて
  もう東京では長居はできないようだ。
  人とは生物学的には足ることを知るのは無理なのだ、強欲さは不安の裏返しで
  生きる本能なのだからと、ある生物学者が書いていた。
  だが、一方の側面だけが肥大し増殖し、この都会に集まっているだけのことだ。
  肉体としての人、不安にさいなまされているのはそれなのだから。

  では、こころはどこだ?



  森へ帰れば、誰だって、そんなに欲しがらない。
  遊びにきて一日二日いたくらいでは、都会のリズムがまだ抜けなくて、
  物足らなさやせわしなさが勝っているから、シンプルそのものの森では
  手持ち無沙汰になる。
  やることなくて、かまくら作ったりしちゃうんである。
   (所在なさげな客人にかまくらでも作る?とつい言ってはみたが‥)
  たまにしか来ない人は、なにかせずにいられない「癖」がでる。
  そんなとき意外と脳ははたらいていないってことだ。
  予定調和の場以外では、はたらかない脳、NOだね(サブッ)

  けれども、三日目くらいから順応してくる。
  深呼吸したり、思いつく、自然と。
  そして忙しく学習しようとするが、記憶にないことに適応しにくい脳もある。
  思い込みが激しいと、なかなか動かない。
  やわらかな脳でなければ、森のなかにいても都会にいるのと同じことである。
  感じる脳、それがこころを引き出していく。
  人の五感は、本来、そのために使うのである。脳も飼いならすべし。

  足ることを知るとは、そうむずかしいことではない。
  足らなくて追い求め、飽くことなく貪りつづける「業」に比べれば
  とても簡単なことだと思うのだが。

  正月二日目、自分の身がずいぶん軽くなっていたことに気づいて
  だからといって、体重のことではないから、あんこを食べ過ぎたりは
  しないのである。

  夜に、行方知れずになっていた友人の犬が無事に戻ってきたと知らせがあって
  感謝感謝感謝、踊りました!歌いながら。
  ご心配おかけしたねずみ師にも、ありがとうございました。
  不安から一転して、喜び、生きているということは忙しい。  
  
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夢見小僧

2009-01-01 21:06:28 | 
  初夢、どんな夢? って誰かに聞かれた?

  夢見小僧は「いい夢みた、いい夢みた」とはしゃいで
  何々?と親ごや主人に聞かれ、いやだとしゃべらず一人で
  はしゃぎまわり、ついに追い出されてしまった小僧のこと。

  この小僧、諸国を旅し、難儀し、それからだんだん運が廻って
  出世し故郷に錦を飾るそのときに、
  「われの見た夢はこうして万福長者になる夢だったのだ」と
  ようやく語ってきかせる、吉夢は他人に語るなという古い言い
  伝えの昔話である。

  これに似た話はいろいろあって、いずれも夢を他言せずと
  いう。一方で、吉夢を見た人から、それを買い取る話もある。
  吉備真備という奈良時代の人、この人が破格の出世をしたのは
  「将来大臣になるという夢」を見た人が夢解きの女に語るのを
  盗み聞きし、それを自分に譲ってくれと女に頼み、手に入れた
  からであると、まことしやかに語られている宇治拾遺物語。

  おもしろいなあと思ったのは、夢を買う話より、夢解き女の
  存在だ。
  7世紀から遠く隔たったいまの世でも、自分はこういう夢をみた、
  どういう意味なのだろう? ほんまかいな? と尋ねる人は
  多い。尋ねられる側が夢解き女である。
  夢解き女、吉備真備に夢を取らせたわけだが、夢とはいったい
  何なのだろうね。

  ところで、丸太を積んだ日(12月18日)に書いたM君から
  メールが届いていた。嬉しかった。
  本名で書かれていたのでコメントは公開しないけど、想いは
  通じるんだなあ、同じ気持ちなのだと知ってつながっている
  ことに安堵した。

  がくちゃんといい、M君といい、夢を追い続けている。
  うさこはその夢を聞いていた。つまり他人に話してしまった
  わけだけど、この夢は夜眠るときに見た夢でなく自分で描いた
  夢なので、取られる心配はないわけだ。
  さしずめ夢解き女の役目はねずみ師で、彼らはねずみ師に
  未来のおうかがいを立て「ならば努めよ」と方法を教わり、
  けっきょくのところ、取られないし売れもしないけど、
  彼らは自分で夢を育てている。
  地味、です。でも確実です。歩いた分だけ、進みます。

  一方ですね、うさこはというと夢をみない。
  夢を描きもしない。
  いつも夢のなかにいるように、生きております。
  夢のなかにも、嵐もあれば照る日もあるんで…
  あほな日々がまた一年、始まりました。
  どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

  追記:友人のやまざるさんちの犬が行方不明だそうで
     正月からさぞかし心配してるだろうと気が気でない。
     誰かの目に留まり見つかってくれますように。
  
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