想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

セキレイ(鶺鴒)

2010-04-10 13:08:28 | Weblog

長い尾をぴくぴくさせて、うっすらレモン色のおなか、黒い羽の
鶺鴒君が庭のマンサクや山しゅうに止まり、チチチチと鳴いて春、
春、春、と呼んでいる。



本日、久しぶりの暖かな晴天である。やー春だーと思っていた矢先、
北へ引っ越して震えがってつけたつぼみも花も縮めてしょんぼりして
いた植木がさぞや喜ぶだろうと、いちいち挨拶してまわった。
ようこそ、ようこそ、といまさらながらだが家主なので機嫌をとって
まわらねばならない。
地について咲いてくれますように。

本日はどうだんつつじの大木を植え込む作業で、昼飯にお好み焼きを
作ろうと思って仕度していたが、台所から外が気になってしかたがない。
鶺鴒が飛び交う影が窓越しにささっと映る、何度も飛び交う。
軒下に巣をかけるのかしら、今年もあそこに居つくのかしら、と、
どうも集中できん。
この感じ、悪くないなあ。

芽吹き命が始動する森、そわそわと喜ばしい気配が漂っているのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福の神、ばんばん

2010-04-08 10:05:52 | Weblog
'03.秋、裏山を頂上まで登りきったら隣地には牧草地が広がっていた。
山野草を摘み、休憩中。



若い頃のベイビーの写真を取り出して眺めることが多いこのごろ。
先日はお見舞いと励ましをおもいがけなくいただき、びっくりしたが嬉しかった。
親分へ、と書かれたカードもいただいて、おまえ人気者じゃん、と頭をゴリゴリした。
なんでかな~という顔をしてヘラヘラしている。

ステロイドを止め抜けてきたら症状は逆戻りしているように見えなくもない。
仕方がない。新しい薬の効果に期待してまだ方策はあると思うので、辛抱強くがまんしよう。
なんだか気弱になっているのはおっかあの方で、あんたはいつもとおなじ、
「腹減ったーちょうだい」なんだよね。でも2キロ減量成功してリバウンドしないよう
オヤツもがまんです。がまんしているのはおっかあも同じで、喜ぶあんたの顔をみたい
のをがまんしてるんです。

待っても、手でつついてももらえないのでイジイジしていたが‥そのうちグーグーと寝た。
切り替えが早い。早すぎるだろ?!
もちょっと粘ってたら、おっかあは折れてオヤツをあげようとしてたんだに。
ザンネンだに。



ともすれば考え込んでしまう、元々そういうタチであったのが十数年ぶりに
復活しそうでヤバイ。センチメンタルは禁物だに。
思い悩むより今なすべきを行え、と声に出して調子をつけて歌う。
歌っていたら寝てたはずのベイビーがどっこいしょと起きてきたので、前脚をとって
一緒に踊る。

どこがセンチじゃーー、我が家に感傷はいらん。福の神、ばんばんいらっしゃーい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

似てるかも‥ひょうひょうなふたり

2010-04-07 09:00:00 | Weblog
ベイビーが座っている椅子はそれなりの風格があったんだけど子犬がやってきて
彼専用になってから次第に変貌の一途を辿り、森へと引っ越してきた。
半年ほどでデカクなったラブラドール、もうこの上で寝転べなくなったのに、
愛用品というのは犬もヒトの習性と同じで手放せないらしい。
いつのまにか外用になったこの椅子、アンティークショップで買ったときの値段は
とっくに忘却の彼方である。もともとガラクタだったようにしか見えん。

犬と暮らすということで価値観がすっかり変わるのは、おおかたの犬好き(特に
大型犬好き)が経験していることだろう。


(カメとベイビー、夕暮れの空を見て一服。
オヤジ2ショットと言いたいところだがベイビーはこのときまだ4歳、青年である。)

泥に汚れることも、ふかふかのタオルがあっという間にちぎれて穴があくことも
それをそのまま使い続けることも、別にどうってことじゃない。
汚れたものは洗えばいいし、破れて不便なら繕えばいいんだし。
壊れたものや齧ってつぎはぎになった上物がけっこうある。捨てないでそのまま
とってあるからヤツがこどもの頃に何をしたか、思い出せて笑える。

皮製のカメラバッグの角をガジガジしたのを、今、鼻面へ持って行って「ほら、
アンタでしょ」と見せると、やーだなあと目をそむけるのである。
わざとらしく知らんぷりすること多々あって、からかう材料に事欠かない。
形あるものが壊れたり汚れたり、これがヒトの悪ガキの仕業だったらどうなんだろう?
母親はいろんなことを受け止めながら子育てをする。
それは犬でもヒトでも同じことで許したり叱ったり、そして己の価値観を疑ったり
そうやってお互いに変わりながらなじんでいくのじゃないかしら。

「本来無一物」も執着を捨てることも、頭で知っていてもそれなりの事情がなくては
シャバで暮らしてて悟れるものではない。
捨てることと許すこと、諦めることは近い。
諦めることの第一歩は己の価値観から離れることだ。たいしたことないのに勘違い
している価値観と、自分という我が邪魔をする。
握りしめた手を一本ずつほどいてはなしていくのは辛抱がいる。
しかし自分より一見して非力、一見して不自由な相手からそれを知らされほどくのである。

数えきれないほどに教わったことがあって、考えさせられたことがあって、
まだ進行形なんだけれども、ベイビーのやさしさに救われてきた。
こういうと変だけど、上の二人なんだか似ている気がする。
うーむ、無心かなあ。ひょうひょうとしてるもんなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜と東京タワー、と‥

2010-04-05 00:10:52 | Weblog

この数日、淡いさくらいろが雲みたいに浮いているのが望めて、都心の煩わしさを
少しだけ忘れる。いや、これがあるから花見にゆかぬのかもしれないというくらい
ありがたがっている。高い家賃を妥当に感じる数日間。
桜の木の下はにぎやかすぎるけど、離れて眺めているといいものだ。



この細い道、長者丸通りという。なだらかに下ってつきあたりの公園に桜の大木が
ある。246の大通りからこの細道へ入り、だらだらと歩き疲れたころにその淡い
色が見えてきて、桜をめざして歩いているような軽やかな気分にもなれたのだった。
桜の背後に巨大な森タワーが入ってしまってからというものの、もう前方を向いて
歩いてもしょうがない。かえって興ざめである。
森タワーはまるですぐそばに建っているように見えるけれど1キロ以上離れている
はず、巨大な図体でこのあたりにあった和みの風景を塗り替えてしまった。
何年経っても恨みがましく思っているのである。
よってこの細道を歩くときも他所と同じ、さっさと目的の建物へ入ってゆく。

仕事を終えベイビーを医者に診てもらって、とっとと森へ帰りたいとばかり思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めに愛、

2010-04-04 10:07:02 | Weblog
おいしいと‥‥ではなく笑うと目がなくなるんです、目がない、目がないって
からかわれていた子ども時代のうさこです。
愛しのベイビーはもうすっかりオヤジですが笑うと目がなくなっちゃうタイプ。
よく笑いますので目をパチっと開けて写ってるのが少ないのです。
老眼で遠近調整のために目を細めているわけではありません(それはわたしだ)。



目がなくなるって言われた子どもの頃、そう言われるのが気になってコンプレックス
に近かった。二つ上の姉はきれいな二重まぶたでガッコに行くと似てない似てないと
必ず言われたのです。こどもの頃って何でも繰り返し言うのね。いや、言われてた気
がするだけかもしれないけど、さ。

おまけに笑うと歯ぐきが見えるから出っ歯って言われたりしてたなあ。
子どもって容赦なく容姿のことを言うんですよね、言ってる本人自分のことは棚に
上げてるからな。

水泳が大好きでしょっちゅうプールに行ってて、そこで言われたのは「足が変」
足の指が変だと言うのです。ギャートルズというあだ名がついてしまった。
命名したのは従姉妹のユーコ。
いまも独身らしく(主義って言うんだろうなあ、たぶん)口の悪さが災いしたか?
ガリ勉ユーコ、何が悲しくて「不況に強い公務員」子どもなのに保守的なことを
言ってたけど国語のセンセになって満足か?
会ってみたい気もするが、また何かあだ名をつけられそうな気もするから用心だな。

ユーコたちいじめっ子が集まってヤーヤーとからかわれてても、でもうさこは言い返し
たりしなかったのです。ヘーッほんと? とボケる子でした、天然。おまけに友達だと
思ってたんだもの‥、ずーっとそう思ったまま卒業したわけで。
そして目をできるだけ見開いたまま笑うようにこころがけたり、やはり変な子だった。
当時はマジメにそれをやってたんだものなあ。

鏡をあまり見ないので自分の笑う顔を確認する機会が少ないけど、たまに撮られると
たいてい大口あけて笑っているのでガックリ。もそっとビジンに写らんものか‥(カメラは
正直と知るのである)。
オトナになると誰も、「あー歯ぐき、歯ぐき」と囃したりしないので写真を見てう~む‥。

こどもの頃を思い出す理由は、イジメやDVのニュースをたびたび耳にするからで、増加して
いる気もするし。
そして今、すぐにその子を助けに行きたいと思ったりしてはがゆいのでニュースの途中で
切ってじっと固まっている。目を背けるわけではなく、とても腹がたつし悲しいもんで。

正義の味方、ヒーロー物の漫画やドラマってイジメラレてた人が思いつくのかもしれない
とある時思いました。ユーコみたいな早期初志貫徹派は鼻で笑ってしまうような正義の味方の
ヒーロー、あれは傷ついた「昔の子ども」が生み出すんじゃなかろうか。

「愛情には理性を持てるが、理性には愛情を行使できない」(小林秀雄)
記憶とは理性ではない。行動は記憶に左右され、記憶がどう整理されるかは考える力。
考える力は理性だと思いがちだが、はじめには愛情があるはずというのです。
何事も批評批判せずにいられない現代の人は理性と知性をあがめるけれど、それなら脳に
動いてもらっているだけのことです。
感性があって、心が育って、そして理性を使う。この順序が逆になってしまうと陰湿な関係
しか生まれないんだろうと思います。
理性と思っているのは単に「私」なだけなんだと気づきようもないからです。固い殻に
閉じ込められていて情報を知と思い、我を理性と勘違いしている人ほど声が大きい。

愛を言葉を変えると仁、うさこの先生、カメは「始め仁ありて義生まれる」と何度も教えて
くれました。
子どもの頃を思い出して、そのとおりだとわかります。

わたしが細目でも出っ歯でもいじけずに生きてこれたのは、かわいいかわいいと
言ってくれる父と母がいたおかげであるなあと、しみじみ思います。
父と母を持たぬ子が増えている今日、子は社会の財産と政権のスローガンはあるけれど、
隣の人に仁を、そういう世の中に変わるには「隣の金」に負けている気がする。
パワーゲームばかり聞かされて失望する日々、正義の味方を待つよりもそれぞれが
「ひとり正義のみかた」になるしかない、ぜよ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デスクトップはいつもコレ

2010-04-03 18:12:50 | Weblog

パソコンはPCとmacを両方使用し、用途で使い分けているけれども
どちらもデスクトップには彼、ベイビーがまっすぐこっちを見つめてる!
知人宅でダウンロードされたベイビーの画像が貼り付けてあるのを
みたことがある。
クレジットを入れたこともあるが、今はめんどうなので画像はそのまま、
ほぼベイビーの姿や顔だから気に入ってくれたらどうぞかわいがってね、
ということであります。

気持ちのいい写真、胸のすくような風景、愛らしい猫、生きていてよかった
と思うだろうなあと思わせてくれる夕陽、天空に近い山頂、さまざまな
写真をネット上で見ることができる。
プロよりもセミプロや素人が趣味で撮ったものがいいのは欲得が入って
いないから? 無心だから? 

電車の中でも首からカメラをぶら下げた文字通り「女子カメラ」な人をよく
みかける。足元はスニーカーやエンジニアブーツでキメておられますな。
どこまでも歩いて近づいていくのだろうな、とフットワーク軽くないわたしと
しては尊敬のまなざしだ。

ある私鉄ローカル線駅前のロータリーに桜の大木がある。昼も夜も、
人が取り囲み、手に手にケータイをかざし木のほうを向いているのを通り
すがりに見て笑ってしまった。
この笑いは、ほほえましいそれではなく、苦い、なんだか苦いしサムイ。

撮った写真はどうするのかなあ、ほら、桜咲いていたよ、とだれかに見せる?
見せっこしておしゃべりする? 
ケータイで便利に撮れるのは悪くはないけど、なんだかなあ、と思うのは
桜を眺めずに撮るのに夢中な人が多いからかもしれんなあ。

本日は電車が混んでおるなあ、会社休みなのになあと思っていたら、
ほぼ花見客のようだった。銀座線が大変に混雑していたのは青山、
浅草、上野、などなど花見の名所を通過するからだったのねー。
おばちゃんに背中を押されてつんのめったうさこ、本日も窓から花見、一日じゅう
机にかじりついておりました。

この後ちょっと散歩してまた仕事に戻りますので。
ではまた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山墓地の桜

2010-04-02 09:55:48 | Weblog
陸橋あたりの桜は仕事場の窓から眺めるとまだぼんやりとして七分咲きという
感じである。写真は去年の満開時のものだが、本日の風と雨で週末の花見が
ザンネンなことにならないことを祈るばかりである。
もち、わたしは花見の宴はやらないので散るのも風情と思うけれど、期待して
待っている人の気持ちわからぬでもないので。



書くことは山ほどあるが多忙にて去年の写真ばかりですいません。
(こっちも去年のベイビー、今年のベイビーもいるぞ、だけどこれが可愛いので!)



のちほど‥。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卯月朔日妄想

2010-04-01 18:49:05 | Weblog
冬が長いとしみじみ思い、時に海辺に移り住もうかなどと思ったりしないでもない。
けれど、その気の迷いはほとんど遊びのようなもので、すぐに打ち消される。
このキビシさのがいいんだ、と思い直すのである。

いったん春を迎え夏を迎え実りの季節といっきに変わりゆく様相はさながら天国、
大海原の波を眺めているより、よほど飽きない。
そう理屈をつけてみたりする。
好き嫌いに理屈はないものを、後付けでなんとでもいえるものだからな。
とにかく寒くても水が出なくても、大風が怖くても、この場所は天国なのじゃ。

青葉の季節の写真など眺め、妄想で夏。



どうだんつつじの燃える赤を眺めて、妄想で秋。カメも歩いているし、な。



浄土信仰は今の残酷を生きる者への救済である。
わたしはその解釈に疑問を持っている。
救済など少しもされていないではないかと。
衆生済度の自己満足にとどまっているではないかと疑うのである。
いやなに坊さん全てを信用しないというのではない、葬式仏教のていたらくを
仏教と呼ぶには遠すぎるということだ。

この実感として刻まれた思いをくつがえしてくれる仏教者にまだ逢っていない。
その望みも、もはや抱いてはいない。
仏教を決して否定しない(むしろ重要だと考える)が、仏陀の教えの解釈の違い、
末法の世に弥勒菩薩も表れそうにないし、迷信を誘ってしまう罪は大きい。
簡単に救済、助かるなどと言って拝ませてはならないのである。

法然上人の南無阿弥陀仏と唱えれば浄土へ行けるという思想に断固抗議した
明恵上人の思い(催邪輪)をひきつぐほうがより人間らしい、原始仏教により近い
信仰ではないかと思うのである。

明恵上人のお最期は不食の病であった。
ナマ臭坊主の酒池肉林ならばかからない病であろうなあ。質素節制と長き修行の
日々は身体にやさしいわけがない。
身体の救済ではなく、心を、魂の行方を、その救いにこだわったお方である。
怠け者はよせつけないが、鳥獣の声を聞き千里眼で雛鳥を蛇から救ったお方である。
そういうお方は簡単に「信ずれば助かる」などと申されない。
ただただ座して、我を捨て義あるのみ、と言われただろう。
あるべきやうわ、とはそのことだから。

山でなくてはできんなあ、やっぱり。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする