湖北の山小屋では、テレビが故障していて、久しぶりにラジオ生活を楽しみました。家族にとっては苦痛だったかもしれませんが、その分、家族との会話も弾みました。本も読めました。
私たちは目の前の風景を五感で感じます。なにも違和感はありません。しかし、道具としてのテレビは、そのうち視覚と聴覚を切り取って人工的に表現します。そこに不自然さがあります。その意味では、ラジオも同じです。聴覚だけを切り取った道具です。でも、テレビと違うのは、人の主体性(想像力)に頼るところがテレビより大きいということです。
山小屋には、止め処もなく押し寄せるさまざまな人工的な「音」からの開放感がありました。微風、小鳥の囀り、木々の触れ合い...。そんな環境におかれると、人は音を探します。耳を傾けます。都会の喧騒から解放されて、風景の中に自分の存在を確かめようとします。人間の存在感を確認しようとします。時代の大きなうねりの中に身を置く私たちにとって、自分を取り戻す瞬間でもあります。この大型連休には、同じような経験をされた方々がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
私たちは目の前の風景を五感で感じます。なにも違和感はありません。しかし、道具としてのテレビは、そのうち視覚と聴覚を切り取って人工的に表現します。そこに不自然さがあります。その意味では、ラジオも同じです。聴覚だけを切り取った道具です。でも、テレビと違うのは、人の主体性(想像力)に頼るところがテレビより大きいということです。
山小屋には、止め処もなく押し寄せるさまざまな人工的な「音」からの開放感がありました。微風、小鳥の囀り、木々の触れ合い...。そんな環境におかれると、人は音を探します。耳を傾けます。都会の喧騒から解放されて、風景の中に自分の存在を確かめようとします。人間の存在感を確認しようとします。時代の大きなうねりの中に身を置く私たちにとって、自分を取り戻す瞬間でもあります。この大型連休には、同じような経験をされた方々がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。