第七候啓蟄初候「蟄虫啓戸(ちっちゅうこをひらく)」とは、よく言ったものです。長く冬ごもりしていた虫たちが動き始める季節。確かに先週来の寒さも和らぎ、きのうあたりはコートも要らない暖かさでした。我が家の庭では、ことし少し遅い感じがしますが、クリスマスローズがやっと咲き始めました。そして、驚くなかれ、アケビの花芽が動き出しているではありませんか。春3月。日に日に暖かくなっていくのでしょう。
さて、ここ数週間、並行して読み進んでいた2冊の本を読み終えました。そのひとつはダンテの「神曲」。時は今から600年前のイタリアでのお話です。政争にやぶれフィレンツェを永久追放されたダンテが放浪の旅に出ます。....「気がつけば人生は半ば。見わたせば暗き森深き。道らしき道のひとつすら無く」「踏み行けば、行く手を塞ぐ獣たち。ただ恐ろしげに牙をむく。わかる言葉も理もなくて、私の足は後ずさる」「何故振り返る、何故戻る。至福の山を何故求めぬ。山がそこから始まるものを」....。
こうしてダンテは、生きているにもかかわらず、古代ローマの大詩人ウェルギリウスの霊の案内で「地獄」「煉獄」を、若くして死んだ恋人ベアトリーチェの案内で「天国」を巡ります。地獄では、生前の罪を嘆く霊が蠢く。見るも恐ろしい地下の世界が現れます。最も重い罪とされる悪行は「裏切り」で、裏切者は永遠に氷漬けとなる。一方、煉獄は悔悛の余地のある死者が罪を償う霊の世界。亡者は煉獄山で生前になした罪を浄めつつ上へ上へと登り、浄め終えるとやがては天国に到達するのだと。ドレの押画が生々しく迫ってくる、なんとも不思議な物語でありました。
もう1冊。それは鶴見和子著「南方熊楠・萃点の思想」でした。こちらは通勤電車の中で読み終えました。こんな調子で、ここ数ヶ月、空き時間は読書三昧です。少しずつ世の柵(しがらみ)から解き放たれていくに従い、この種の本を、ある種の驚き、新鮮さをもって読み進むことができるから不思議です。
きょうは午後、職場の催しがあって本町界隈にでかける用事があったので、その前に中之島の大阪市中央公会堂で開催中の「第7回水の都の古本展」を覗いてきました。
規模は大きくはないのですが、春を迎えて最初の古書即売会です。中央公会堂の2階の会議室に6店舗の古書が並びます。半時間ほど眺めて手にしたのは、文豪の世界(3)「ダンテ」と、南方熊楠のひととなりを記した津本陽著「巨人伝」の2冊。......これをさげて次に向かったのは、公会堂から歩いて10分ほどの所にある緒方洪庵の「適塾」でした。長い間、大阪にいて、ここ適塾を訪ねたのは初めてのことでした。
細長い町家風の住居。大学時代、下鴨神社界隈にあった京町家の下宿を思わせるこの学塾に、江戸の末期、すぐれた若者たちが集まり、蘭学、医学を学んだ。十分な文献もネットもない、今とは比べものにならない学習環境のなかで、西洋医学を学ぶ若者たちが蘭学を学び、医学知識を身に着けていく。思いました。なんのために英語を学ぶのかが曖昧になっているところに、今日の英語教育の問題がありそうです。展示資料をみていると、緒方洪庵の和訳は細部にこだわらない意訳のようで、言葉の端々ではなく大枠でその真意をつかむやり方だったよう。でも、いいじゃないですか。こういうところに時代を見つめる大きな視点があるように思います。
........なんて偉そうなことを言っていますが、きょうはいろいろと学ぶことの多かった早春の一日でありました。