心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

板東俘虜収容所の「春」

2021-04-09 11:09:03 | 四国遍路

 早朝、「歩き遍路」に出かけるとき、自宅近くのバス停でバスを待っているとウグイスの声が聞こえてきました。うっすらと朝日があがってこようかという頃です。耳をすませば聞きなれない小鳥たち、全部で6種類ぐらいの小鳥たちが、私の門出を見送ってくれました。所々に小さな森が残るとはいっても都会地は都会地です。こんなにたくさんの小鳥たちが人間と一緒に暮らしているとは。なんとなく嬉しい旅立ちでした。

 さて、「歩き遍路」を終えて早や1週間が経ちました。ひとつの目標を達成した余韻に浸りながら春のひとときを過ごしました.....。
 ところがどっこい。またぞろコロナさんのご登場です。ここ大阪では、あれよあれよという間に千人に迫る勢いです。ついついヨーロッパのロックダウンの街の風景を思い出してしまいます。この先、千人どころか二千人、三千人と増えていかないだろうかと心配は尽きません。お手伝いをしているシニア向けの講座も、来週から新学期が始まりますが、さあてどうなることやら。....1ヵ月前の予定では今日9日、次男君夫妻が孫娘を連れて帰ってくる予定でしたが、これも急遽取りやめです。

 そんななか、今週は山本能楽堂の「たにまち能」を観てきました。演目は、2月と3月の能活講座でテーマになっていた「羽衣」と「西行桜」。狂言は「土筆」。桜の季節にふさわしい舞台でした。今月は下旬に「祝祭大狂言会2021」もあります。私にとって4月は伝統芸能月間でもあります(笑)。
 さてさて、前回触れなかった鳴門市のドイツ館のことについてお話ししたいと思います。4月1日、結願を終えたあと第1番札所の霊山寺にお礼参りを済ませた私は、歩いて15分ほどの所にある鳴門市ドイツ館に向かいました。
 そこは第一次世界大戦で日本軍の捕虜になったドイツ兵の収容所(坂東俘虜収容所)があったところです。パンフレットには、こう記されています。

「第一次世界大戦が始まると、日本も参戦しドイツ兵の租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。敗れたドイツ兵約5000人が捕虜となり、日本各地の収容所に送られました。その内、四国の徳島・丸亀・松山にいた約1000人が1917年から1920年までの約3年間を坂東俘虜収容所で過ごしました」


 今はドイツ村公園になっている収容所跡は、山と田畑に囲まれたところに広がっていました。兵舎レンガ基礎遺構や給水施設跡、製パン所跡、池などが点在し、ちょうど桜が満開の季節に園内を独り静かに歩いていると、桜花を覆う微かな音に交じって兵士たちの賑やかな声が聞こえてきそう。そんな思いがこみ上げてきました。
 上池まで歩いていくと、この施設で亡くなった11名の戦友を祀ったドイツ兵捕虜合同慰霊碑が建っていました。池の向こうの遠くの風景を眺めながら、異国の地で亡くなった方々に思いを馳せました。
 ドイツ村公園から歩いて数分のところに鳴門市ドイツ館があります。板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵たちの日々の様子や地域の人々との交流の模様が展示されています。
 俘虜の多くが志願兵(元民間人)だったので、職業も千差万別。家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など多士済々。資料館には、そうした職人たちの手になる品々が展示されてありました。印刷されたチラシやパンフレット、日用雑貨、工芸品など。
 オーケストラや合唱団によるコンサートが定期的に開かれていたようですが、圧巻はベートーヴェンの交響曲第九番がこの鳴門の地で、アジアで初めて全楽章演奏されたこと。演劇やスポーツ、講演や学習会なども催されていたようです。
 2年半ほどの滞在中に、敗戦国ドイツは莫大な賠償金を課せられ国が疲弊していました。すっかり日本に馴染んだ方もいらっしゃったようで、60数名の方々は本人の意思で日本に留まったとも記されていました。
 バウムクーヘンで有名なドイツ菓子店「ユーハイム」は、収容所にいたカール・ユーハイムさんが、明治屋で技術者として働いたのち開業したものだとか。またアウグスト・ローマイヤーさんは、帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として働いたあと銀座でレストラン「ローマイヤー」を開いたのだそうです。
 収容所というと暗いイメージだけがつきまといますが、ある意味で日本とドイツとの絆を深める場にもなったようでした。そんな思いを胸に、四国を離れました。

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