心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

塩一トンの譬え(その2)

2024-04-19 22:49:25 | Weblog

 数日前まで近くの公園の葉桜を惜しみつつ眺めていたのに、早くも初夏の装いです。街中に淡い若葉が芽吹き、我が家の庭でもライラックの花が咲き蝶が舞っています。カリンの木には小さな実が付き、ここ数年不作だったレモンの樹にもたくさんの蕾がついています。残念なのは、今年もスダチの木に花芽が付きそうにないことです。なぜだろう??
 そんなある日、NPOの帰りに立ち寄ったジュンク堂書店で、須賀敦子の「塩一トンの読書」(河出文庫)に出会いました。須賀さんのエッセイや数多くの書評が収められています。最初に登場する「塩一トンの読書」は、須賀敦子全集第3巻にも納められていて、このブログには「塩一トンの喩え」と題して2010年1月10日付で投稿しています。あれから14年経っていますが、いま改めて読み返してみると、以前とは違う思いが募ります。
 このエッセイは、「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」というイタリア人の姑の言葉から始まっています。そして、須賀さんは言います。

・古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話しを思い出すことがある。この場合、相手は書物で人間ではないが、すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。
・「あの本のことなら知っている」。ある本「についての」知識を、いつの間にか「じっさいに読んだ」経験とすりかえてはいないか。
・ずっと以前に読んで、こうだと思っていた本を読み返してみて、前に読んだときとはすっかり印象が違って、それがなんともうれしいことがある。

 帰りの電車の中で、たかだか文庫本8ページほどの文を追いながら、私はそんな須賀さんの気持ちになりきってしまいました。14年前は、どちらかと言えば、人間理解の難しさに直面していました。当時の仕事のことを考えると、さもありなん。それが今は「本」との向き合い方にある種の課題を投げかけられているような気がします.....。

 ここで話題はがらりと変わりますが、先日、宝塚の清荒神さんにお参りに行ってきました。本来なら年末年始に行くべきでしょうが、出かける機会を逸し、いつもこの時期になります。
 阪急電車清荒神駅から清澄寺に続く参道には、以前はお店がずらりと並んでいましたが、今では多くのお店が閉まって閑散としています。店主の世代交替のためでしょうか。若者向きのおしゃれな店が数店開店していますが、かつての賑わいはありません。唯一お客が絶えなかったのは、駅前の宝塚コロッケの「北川精肉店」でした。安くて美味しいコロッケで有名なお店です。これも老夫婦の楽しみでもあります。
 ところで、清荒神駅の近くに宝塚市立文化施設ベガ・ホールがあります。その入口にウィーン市立公園にあるヨハンシュトラウス二世像のレプリカが立っていました。ウィーン市から宝塚市に寄贈されたのだそうです。
 過去2回ウィーンを訪ね2回とも対面したシュトラウス像です。当時は市内公園の至る所にあった音楽家の像を地図を頼りに歩き回ったのを覚えています。(上の写真左はベガ・ホールの玄関口にある像、右はウィーン市内公園にある像です。)
 来月の下旬には、コロナ後久しぶりにヨーロッパに出かけてきます。と言っても、スペイン、南フランス、イタリアを巡るショートクルーズの旅です。そろそろ人生の店じまいが始ろうとしています。

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