「一瞬の風になれ」読了しました。
読書感想文を書こうと思ったのですが、自分の部活の思い出が重なってしまって、、、陸部じゃなくて、バレー部だったんですけどね。
その話を先に書きます。
私の母校は普通の都立高校、でもバレー部は、春野台の陸部同様、時々都のベスト16になるまずまずの部、特に僕の代は中学の有望選手が2人いて、ちょっと期待されていた。
都のバレーの主要大会は、新人戦(11月、『春の高校バレー』予選)、春季大会(4月)、関東大会予選(5月)、国体予選(8月)。
春高バレーは2チーム、国体は1チームしか出られない。ベスト4は私立の名門校で付け入る隙なし。で、僕らの目標はベスト8、そして14チーム出られる関東大会への出場だった。
一応進学校だったので5月の関東大会予選で3年が引退、国体予選から新チームで戦うことになる。
夏合宿はぼろぼろに絞られた。OBの「仮想東京都ベスト8」チームに手も足も出ない。
国体予選は、3年生が残っているチームに3回戦負けした。
その後、エースが退部しちゃったり、有望新人が入ってきたり、いろんなことがありながら、僕らは段々強くなっていった。
そして秋の新人戦で念願の都ベスト8、うれしかった。まるで優勝したような騒ぎ。
春季大会もベスト8、もうOBの仮想ベスト8チームとも互角以上の試合が出来るようになっていた。
しかし好事魔多し、肝心の関東大会予選で、こともあろうに同じ都立高校に負けベスト16どまり。
関東大会にいけるのはベスト8+バレーボール協会推薦校6校。
でも、推薦校は、協会に顔のある監督がいる私立高校から選ばれる。うちの監督は普通の物理の先生でバレーは素人、もちろん全く顔なし、ベスト8になる以外関東には行けない、皆そう思ってた。
「バレーが終わったからって、高校生活が終わったわけじゃない。」なんていう、試合を見に来てくれた1個上の先輩の話を呆然と聞いていたっけ。
そこへ入ってきた朗報、まさに地獄から天国。
「おい!○山高校!髪の毛切ったら関東へ行かしてやる。」おっかない顔をした協会の先生がにやっとして言った。大人も少しは信用していいんだ、そう思った。
試合中は髪をポニーテールにするウチの左腕のエースを「床屋へ行け。」と皆で説得した。
結局、都立で関東に行けたのは、僕らと僕らに勝ってベスト8になった学校の2校だけだった。
関東大会は6月、埼玉県熊谷市が会場だった。
金曜日が公式練習日になっていて、堂々と学校を早退して会場入り。何かいい気持ち。
翌日の1回戦の相手は山梨の高校、まず幸先よくストレート勝ち。
2回戦は埼玉県1位の強豪地元チーム。
土曜日の午後だったので、向こうは全校生徒が応援に来ているようだ。こっちはOBが20人くらい?これぞアウェイ。
相手はシードで初戦、大応援団に緊張している?予想に反して第1セットは14-12でウチが先にセットポイント。ここで相手のアタックが大きくエンドラインを割った。
「よし、第一セット先取!」と思った瞬間、審判の手が逆に上がった。ブロックにワンタッチありの判定。
「えっ、俺?」天地神明に誓って触っていない。しかしそこは高校スポーツ、判定が覆るわけもない。
豪快にアタックを決められてのポイントなら気持ちを切り替えられる。でも勝ったと思って切れた緊張は戻らない、結局このセット14-16で逆転負け。
ミスジャッジは、確率的には双方に公平に起きるはず、でも起きる場面は公平ではない。それとも地元の強豪が無名の都立校に負けるわけないという先入観?
このシーン、その後何回夢に出てきただろうか。多分死ぬ瞬間も人生で一番悔しかったこととして思い出すだろう。
それでも第二セットを15-13と取り返して、試合はファイナルセット。10-10まで競った。
最後の作戦タイム、「より強く勝ちたいと思っている方が勝つ!これからの5点に俺たちのすべてを出そう。」皆でそんなことを言い合った。
でも最後は地力の差、相手の15点目のアタックが、ブロックに跳んだ自分の左手をかすめ、レシーブしようとしたウチのエースの手の先でコートに落ちた。
体育館の近くの利根川の河川敷で丸く座った。
2年生からは「すごい試合で、本当に感動しました。」と言われた。OBからは「120%力を出した奴、100%出せなかった奴、でもチームとして確実に100%以上の力は出ていた。いい試合だった。」と言われた。
でも涙が止まらなかった。
ミスジャッジは俺のせいじゃないけど、でもチームのみんなに申し訳なかった。ミスジャッジだけじゃない。自分の力の足りなさが今更ながらに疎ましかった。
僕らに勝った地元チームの3回戦の相手は、ベスト16にもなれなかったけど、監督が協会に顔があるので選抜された東京の私立高校、当然ストレート勝ち。
「あのジャッジがなければ、僕らは関東ベスト8で、明日も高校バレーが出来たんだ。」そう思うとまた涙が出てきた。
遠い日の、新二たちのように命を燃やした日々の思い出でした。
読書感想文を書こうと思ったのですが、自分の部活の思い出が重なってしまって、、、陸部じゃなくて、バレー部だったんですけどね。
その話を先に書きます。
私の母校は普通の都立高校、でもバレー部は、春野台の陸部同様、時々都のベスト16になるまずまずの部、特に僕の代は中学の有望選手が2人いて、ちょっと期待されていた。
都のバレーの主要大会は、新人戦(11月、『春の高校バレー』予選)、春季大会(4月)、関東大会予選(5月)、国体予選(8月)。
春高バレーは2チーム、国体は1チームしか出られない。ベスト4は私立の名門校で付け入る隙なし。で、僕らの目標はベスト8、そして14チーム出られる関東大会への出場だった。
一応進学校だったので5月の関東大会予選で3年が引退、国体予選から新チームで戦うことになる。
夏合宿はぼろぼろに絞られた。OBの「仮想東京都ベスト8」チームに手も足も出ない。
国体予選は、3年生が残っているチームに3回戦負けした。
その後、エースが退部しちゃったり、有望新人が入ってきたり、いろんなことがありながら、僕らは段々強くなっていった。
そして秋の新人戦で念願の都ベスト8、うれしかった。まるで優勝したような騒ぎ。
春季大会もベスト8、もうOBの仮想ベスト8チームとも互角以上の試合が出来るようになっていた。
しかし好事魔多し、肝心の関東大会予選で、こともあろうに同じ都立高校に負けベスト16どまり。
関東大会にいけるのはベスト8+バレーボール協会推薦校6校。
でも、推薦校は、協会に顔のある監督がいる私立高校から選ばれる。うちの監督は普通の物理の先生でバレーは素人、もちろん全く顔なし、ベスト8になる以外関東には行けない、皆そう思ってた。
「バレーが終わったからって、高校生活が終わったわけじゃない。」なんていう、試合を見に来てくれた1個上の先輩の話を呆然と聞いていたっけ。
そこへ入ってきた朗報、まさに地獄から天国。
「おい!○山高校!髪の毛切ったら関東へ行かしてやる。」おっかない顔をした協会の先生がにやっとして言った。大人も少しは信用していいんだ、そう思った。
試合中は髪をポニーテールにするウチの左腕のエースを「床屋へ行け。」と皆で説得した。
結局、都立で関東に行けたのは、僕らと僕らに勝ってベスト8になった学校の2校だけだった。
関東大会は6月、埼玉県熊谷市が会場だった。
金曜日が公式練習日になっていて、堂々と学校を早退して会場入り。何かいい気持ち。
翌日の1回戦の相手は山梨の高校、まず幸先よくストレート勝ち。
2回戦は埼玉県1位の強豪地元チーム。
土曜日の午後だったので、向こうは全校生徒が応援に来ているようだ。こっちはOBが20人くらい?これぞアウェイ。
相手はシードで初戦、大応援団に緊張している?予想に反して第1セットは14-12でウチが先にセットポイント。ここで相手のアタックが大きくエンドラインを割った。
「よし、第一セット先取!」と思った瞬間、審判の手が逆に上がった。ブロックにワンタッチありの判定。
「えっ、俺?」天地神明に誓って触っていない。しかしそこは高校スポーツ、判定が覆るわけもない。
豪快にアタックを決められてのポイントなら気持ちを切り替えられる。でも勝ったと思って切れた緊張は戻らない、結局このセット14-16で逆転負け。
ミスジャッジは、確率的には双方に公平に起きるはず、でも起きる場面は公平ではない。それとも地元の強豪が無名の都立校に負けるわけないという先入観?
このシーン、その後何回夢に出てきただろうか。多分死ぬ瞬間も人生で一番悔しかったこととして思い出すだろう。
それでも第二セットを15-13と取り返して、試合はファイナルセット。10-10まで競った。
最後の作戦タイム、「より強く勝ちたいと思っている方が勝つ!これからの5点に俺たちのすべてを出そう。」皆でそんなことを言い合った。
でも最後は地力の差、相手の15点目のアタックが、ブロックに跳んだ自分の左手をかすめ、レシーブしようとしたウチのエースの手の先でコートに落ちた。
体育館の近くの利根川の河川敷で丸く座った。
2年生からは「すごい試合で、本当に感動しました。」と言われた。OBからは「120%力を出した奴、100%出せなかった奴、でもチームとして確実に100%以上の力は出ていた。いい試合だった。」と言われた。
でも涙が止まらなかった。
ミスジャッジは俺のせいじゃないけど、でもチームのみんなに申し訳なかった。ミスジャッジだけじゃない。自分の力の足りなさが今更ながらに疎ましかった。
僕らに勝った地元チームの3回戦の相手は、ベスト16にもなれなかったけど、監督が協会に顔があるので選抜された東京の私立高校、当然ストレート勝ち。
「あのジャッジがなければ、僕らは関東ベスト8で、明日も高校バレーが出来たんだ。」そう思うとまた涙が出てきた。
遠い日の、新二たちのように命を燃やした日々の思い出でした。
私はハンドボール部。関東大会は常連でした。私が入部する前年はインターハイも出場しました。
厳しい練習に3年間耐え抜いた(当時、喉が渇いても水を飲んではいけないし、うさぎ跳び等今では見られないメニューが日常でした)。
何故、マラソンは軟弱なんでしょう・・
長崎県知事も高校時代ハンドボール部だったとか。
ま、頑張ります!!
1週間くらいで読んだのですが、自分の高校時代がフラッシュバックしました。
きっかけがあると、結構克明に思い出すものですね。
滝ちゃん
練習は、、、きつかったけど、今思うと意味のない練習も多かった。
うさぎ跳び、1回の練習で、最高バレーコート23周(1.2kmくらいΣ( ̄ロ ̄lll))やったことある。
そういえば水も飲むなって言われた。
「一瞬の風になれ」、読むと、昔を思い出して、ランニングに対するモチベーションが瞬間的に上がります。
お勧め♪
涙を何度流したことでしょう・・・。
息子が陸部で息子の気持ちはこうなのか?
とか考えながら読んじゃいました。
青春ですよね!