巷間、女性天皇が話題になることが多くなってきました。大勢は、肯定派のようです。理由に、「日本には、過去にも、女帝が存在した。」ということを挙げられる方が少なくありません。
私は、必ずしも反対派ではありませんが、前例があるというのが賛成の理由であれば、ちょっと待った!と言いたい。
確かに、日本には、推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町の10代、8人の女性天皇がいらっしゃいました(斉明は皇極、称徳は孝謙の重祚)。しかしながら、そのほとんどは、意中の後継者が成長するまでの、いわばつなぎ役です。
明正、後桜町のお二人は、江戸時代の天皇で、いずれも生前に皇位を男子に譲位しています。皇室が、古代や、現代ほどに、政治的な影響力が無かった時代の話です。
それに比べ、古代の女帝には、きな臭い権力抗争の香りがします。
推古天皇は、敏達天皇の皇后だったのですが、敏達の死後、弟の用明天皇が2年で病死、その後を継いだ崇峻天皇は、大臣である蘇我馬子に暗殺され、その後は、有力候補の厩戸皇子(聖徳太子)が何故か即位しない、という異常事態の中で、彼女が即位したものです。
皇極天皇は、舒明天皇の皇后、皇位継承の争いを避けるために、彼女の即位となったようです。
彼女の目前で、蘇我入鹿が、彼女の息子である中大兄皇子らに殺害されると言う惨劇がありました。大化の改新です。この功労者と目される孝徳天皇に譲位しましたが、孝徳の死後、皇太子の中大兄皇子が即位せず、彼女が重祚して斉明天皇になりました。この辺も、相当に変です。土木工事が好きで、大規模な宮作りを行い、彼女が作った渠は、「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼ばれたそうで、決して名君ではなかったようです。
持統天皇は、壬申の乱で勝利した天武天皇の皇后、天武には皇子が6人いましたが、天武の死後、自分の息子の草壁皇子を皇位につけたいがために、即位し、息子の有力なライバルであった大津皇子を死に追いやったりします。
しかし、草壁皇子は若死したため、草壁の子を皇位につけます。文武天皇です。
ところが、その文武も25歳の若さで薨去、文武の幼子を皇位につけるために、今度は、草壁の妃で文武の母の元明、文武の姉の元正が相次いで即位する事態になります。
そうまでしてやっと皇位につけた聖武天皇は、気の弱い人だったようで、政治の実権は、皇后の光明子と、その実家の藤原氏に渡り、ついに光明皇后の生んだ安倍内親王が、女性初の皇太子となります。女帝は何人もいましたが、立太子したのはこの方が始めてで、藤原氏の思惑以外の何物でもありません。即位して孝謙天皇となります。
当初は藤原氏の傀儡だった孝謙女帝も、母の光明皇太后の死後は、次第に藤原氏と対立するようになります。一旦は淳仁に譲位するも、阿倍仲麻呂の乱の連座で淳仁を淡路に流し、重祚して称徳天皇となり、寵愛する僧侶の道鏡と政治を取りました。
「道鏡は天皇の愛人で巨根だった。」と言う話が広く信じられていますが、根拠の無い話です。しかしながら、独身で後を継ぐべき子のいない称徳が、皇位を道鏡に譲ろうとしたのは事実です。それを阻止したのが、宇佐の八幡まで信託を聞きに言った和気清麻呂で、それゆえに、彼の銅像は、皇統を見守るために、気象庁の前の公園に、皇居を向いて立っているのです。決してランナーの荷物置き場のためにあそこにあるのではありません。
この辺の話は、永井路子さんの歴史小説「美貌の女帝(元正天皇)」、黒岩重吾さんの「紅蓮の女王(推古天皇)」「落日の王子(蘇我入鹿)」「天翔る白日(大津皇子)」「弓削道鏡」あたりに、詳しく書いてあります。面白いです。
長々といろいろ書いてしまいましたが、何が言いたかったかと言うと、過去の女帝は、異常事態の中で誕生したものがほとんどで、決して良い結果に終わっていない事が多い、ということです。長い日本の歴史の中で、普通ではない事をするのですから、安易に賛成などと言わずに、じっくり考え、議論するべきであると思います。ご結婚の問題、その後の皇統の維持の問題など、決めなければならない、難しい問題は沢山あります。
何よりも、雅子皇太子妃殿下は、愛子様が天皇になられる事を望んではおられないのではないだろうか。私はそんな気がします。
私は、必ずしも反対派ではありませんが、前例があるというのが賛成の理由であれば、ちょっと待った!と言いたい。
確かに、日本には、推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町の10代、8人の女性天皇がいらっしゃいました(斉明は皇極、称徳は孝謙の重祚)。しかしながら、そのほとんどは、意中の後継者が成長するまでの、いわばつなぎ役です。
明正、後桜町のお二人は、江戸時代の天皇で、いずれも生前に皇位を男子に譲位しています。皇室が、古代や、現代ほどに、政治的な影響力が無かった時代の話です。
それに比べ、古代の女帝には、きな臭い権力抗争の香りがします。
推古天皇は、敏達天皇の皇后だったのですが、敏達の死後、弟の用明天皇が2年で病死、その後を継いだ崇峻天皇は、大臣である蘇我馬子に暗殺され、その後は、有力候補の厩戸皇子(聖徳太子)が何故か即位しない、という異常事態の中で、彼女が即位したものです。
皇極天皇は、舒明天皇の皇后、皇位継承の争いを避けるために、彼女の即位となったようです。
彼女の目前で、蘇我入鹿が、彼女の息子である中大兄皇子らに殺害されると言う惨劇がありました。大化の改新です。この功労者と目される孝徳天皇に譲位しましたが、孝徳の死後、皇太子の中大兄皇子が即位せず、彼女が重祚して斉明天皇になりました。この辺も、相当に変です。土木工事が好きで、大規模な宮作りを行い、彼女が作った渠は、「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼ばれたそうで、決して名君ではなかったようです。
持統天皇は、壬申の乱で勝利した天武天皇の皇后、天武には皇子が6人いましたが、天武の死後、自分の息子の草壁皇子を皇位につけたいがために、即位し、息子の有力なライバルであった大津皇子を死に追いやったりします。
しかし、草壁皇子は若死したため、草壁の子を皇位につけます。文武天皇です。
ところが、その文武も25歳の若さで薨去、文武の幼子を皇位につけるために、今度は、草壁の妃で文武の母の元明、文武の姉の元正が相次いで即位する事態になります。
そうまでしてやっと皇位につけた聖武天皇は、気の弱い人だったようで、政治の実権は、皇后の光明子と、その実家の藤原氏に渡り、ついに光明皇后の生んだ安倍内親王が、女性初の皇太子となります。女帝は何人もいましたが、立太子したのはこの方が始めてで、藤原氏の思惑以外の何物でもありません。即位して孝謙天皇となります。
当初は藤原氏の傀儡だった孝謙女帝も、母の光明皇太后の死後は、次第に藤原氏と対立するようになります。一旦は淳仁に譲位するも、阿倍仲麻呂の乱の連座で淳仁を淡路に流し、重祚して称徳天皇となり、寵愛する僧侶の道鏡と政治を取りました。
「道鏡は天皇の愛人で巨根だった。」と言う話が広く信じられていますが、根拠の無い話です。しかしながら、独身で後を継ぐべき子のいない称徳が、皇位を道鏡に譲ろうとしたのは事実です。それを阻止したのが、宇佐の八幡まで信託を聞きに言った和気清麻呂で、それゆえに、彼の銅像は、皇統を見守るために、気象庁の前の公園に、皇居を向いて立っているのです。決してランナーの荷物置き場のためにあそこにあるのではありません。
この辺の話は、永井路子さんの歴史小説「美貌の女帝(元正天皇)」、黒岩重吾さんの「紅蓮の女王(推古天皇)」「落日の王子(蘇我入鹿)」「天翔る白日(大津皇子)」「弓削道鏡」あたりに、詳しく書いてあります。面白いです。
長々といろいろ書いてしまいましたが、何が言いたかったかと言うと、過去の女帝は、異常事態の中で誕生したものがほとんどで、決して良い結果に終わっていない事が多い、ということです。長い日本の歴史の中で、普通ではない事をするのですから、安易に賛成などと言わずに、じっくり考え、議論するべきであると思います。ご結婚の問題、その後の皇統の維持の問題など、決めなければならない、難しい問題は沢山あります。
何よりも、雅子皇太子妃殿下は、愛子様が天皇になられる事を望んではおられないのではないだろうか。私はそんな気がします。
すごいなー
僕はぜんぜん分からない
詳しく知ってるのですね
僕が天皇について知ってる知識は、
ん~
皇居に住んでいる。
んー
子供が3人いる。(僕と同じです)
これぐらい・・・
勝田残念でしたけど
病気でフルはまずいですよね
また次のレースでご一緒しましょう