荒川の失速を、「ちくしょー!」などと思っていたら、初めて走ったレースのことを思い出しました。距離は10km、参加人数80人くらいの草レースでした。
1999年、海外勤務をしていた私は、急な帰国命令に住む家が無く、会社に言われるままに、空いていた社宅に入りました。その社宅の目の前が多摩川でした。
体育会系の学生からおじいさんまで、色んな人が堤防の道を走っています。私もまねして走ってみました。3kmとか、5kmとか、1ヶ月に30kmとか、そんな程度だったと思います。それで走っている気になっていました。
町内会の掲示板に、市民レース開催の張り紙がありました。当日エントリーのみで参加費500円、衝動的に、10km一般の部への参加を決めました。
当日スタート地点へ行ってびっくり。1月だというのに、いい年をしてランシャツ・ランパンの季節感の無い人達(当時はそう思った)が沢山集まっていました。私はジャージの上下です。
スタートの号砲と同時に、私の周りのほとんどの人達が飛び出し、そして視界から消えていきました。
コースは、片道2.5kmの直線路を2往復、5,6人でビリ争いのデッドヒートを繰り広げながら、スタート地点へ戻ってきました。相当無理して走って、5kmは27分台。自分としてはまあまあのペース、それなのに、ナンデミンナコンナニハヤインダ?
折返し地点で、ビリ争いをしていた人が2名リタイヤした。やばい。本当にビリになる!!
5km過ぎからは、当時の私にとって未知の距離、後半はバタバタになりました。それでも、私と同じジャージの上下のお兄ちゃんを意地で引き離し、ビリから2番でゴール。タイムは58分30秒くらいだったでしょうか。
ゴール間近で、ボランティアのおばちゃんたちから受けた「最後まで頑張れ!」の暖かい声援が、ナイフのように心に突き刺さりました。
完走証ももらわずに、痛む足を引きずりながら帰宅、風呂に浸かりながら思いました。「コノママデオワッテタマルカ!」
本屋で、ランナーズという雑誌を見つけ、購入しました。ランネットというサイトも見つけました。そして、「市民ランナー」という自分の知らない世界があるのだということを知りました。
それから3ヵ月後、桜の花が若葉に変わる頃、私は、米軍厚木基地で行われたハーフマラソンのスタートラインに立っていました。
1999年、海外勤務をしていた私は、急な帰国命令に住む家が無く、会社に言われるままに、空いていた社宅に入りました。その社宅の目の前が多摩川でした。
体育会系の学生からおじいさんまで、色んな人が堤防の道を走っています。私もまねして走ってみました。3kmとか、5kmとか、1ヶ月に30kmとか、そんな程度だったと思います。それで走っている気になっていました。
町内会の掲示板に、市民レース開催の張り紙がありました。当日エントリーのみで参加費500円、衝動的に、10km一般の部への参加を決めました。
当日スタート地点へ行ってびっくり。1月だというのに、いい年をしてランシャツ・ランパンの季節感の無い人達(当時はそう思った)が沢山集まっていました。私はジャージの上下です。
スタートの号砲と同時に、私の周りのほとんどの人達が飛び出し、そして視界から消えていきました。
コースは、片道2.5kmの直線路を2往復、5,6人でビリ争いのデッドヒートを繰り広げながら、スタート地点へ戻ってきました。相当無理して走って、5kmは27分台。自分としてはまあまあのペース、それなのに、ナンデミンナコンナニハヤインダ?
折返し地点で、ビリ争いをしていた人が2名リタイヤした。やばい。本当にビリになる!!
5km過ぎからは、当時の私にとって未知の距離、後半はバタバタになりました。それでも、私と同じジャージの上下のお兄ちゃんを意地で引き離し、ビリから2番でゴール。タイムは58分30秒くらいだったでしょうか。
ゴール間近で、ボランティアのおばちゃんたちから受けた「最後まで頑張れ!」の暖かい声援が、ナイフのように心に突き刺さりました。
完走証ももらわずに、痛む足を引きずりながら帰宅、風呂に浸かりながら思いました。「コノママデオワッテタマルカ!」
本屋で、ランナーズという雑誌を見つけ、購入しました。ランネットというサイトも見つけました。そして、「市民ランナー」という自分の知らない世界があるのだということを知りました。
それから3ヵ月後、桜の花が若葉に変わる頃、私は、米軍厚木基地で行われたハーフマラソンのスタートラインに立っていました。
初レースですか?よく覚えていらっしゃいますね。その悔しさを覚えていて今に至っているんですね。
次の厚木基地のハーフマラソンの話を楽しみにしています。
私は谷川真理ハーフマラソンが初レースです。その時はランニングシューズなるものを知りませんで市販のスニーカーで参加したことを思い出しました。
かずさん、ネオスさん
失敗しては、のめりこむ。
元来が体育会系頭なのか、私の思考回路はいつもこんな感じです。
走る9番さん、あの時は、自分がなさけなくて、完走証よりも、一刻も早く会場から立ち去りたかったんです。
まささん、
明日、来週と、5km、10kmのレースがあるので、ジャージとかスェットの上下ででちゃいましょうか。
いっそ、普段着とか、ワイシャツにネクタイとか、って、それじゃあ仮装になっちゃうか。
Barmysさん、
今でもまだまだですが、私も10kmで約13分、タイムを縮めています。当時の私から見れば、今の私はスタート直後に視界から消えていったランナーの仲間になっているわけで、ちょっと不思議な感じです。
ラスカルさんの意気込みが感じられました。
私も先日1995年の皇居を走る大会の完走証を見つけました。たぶんこれがマラソン大会というものへの
はじめての参加だったと思います。
高校時代から体育会系だったので10キロなんて楽勝!と
タカをくくっていました。
ところが最初の1周は良いペースでしたが
2周目に失速。なんとか1時間は切ったものの
もう2度とこんな事はしないぞ!と走るのは止めてしまいました。
また再び走り始めて、この完走証をみつけ
時々見ています。その時より今は15分もタイムが縮まってます。
そこから奮起するところが立派ですね。
もうやらねー!か、こんちくしょう!のどっちかですからね。
いつか、それレースにリベンジしてやったらどうですか?
それにしても、初レースの完走証、もったいなかったですね。大事な記念になったでしょうに。
読んでてジーンときました。