今日の読売新聞の一面に「蘇我氏邸要塞化」という記事が出ていました。
『大化改新=乙巳(いっし)の変、645年=で、中大兄皇子(後の天智天皇)らに滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我氏の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと、奈良文化財研究所が1日、発表した。』
『蘇我入鹿(いるか)らが城柵を巡らせていたことを描いた「日本書紀」の記述と一致し、入鹿邸「谷(はざま)の宮門(みかど)」に付随する要塞(ようさい)の一部とみられる。古代最大の政変である改新の前夜、飛鳥を覆った軍事的緊張を物語る資料となりそうだ。』とのこと。
蘇我入鹿、私の好きな歴史ネタのひとつです。
どんな奴だったんだろうと想像を掻き立てる人物。
以下、私の勝手な解釈です。
6世紀半ば、越前の国からやって来て、騒乱の末ようやく皇位についた継体天皇。
その糟糠の妻との子、安閑、宣化天皇の皇位がいずれも短命に終わり、トロフィーワイフの仁賢天皇のお姫様に生ませた子、欽明天皇が即位する。ここから蘇我氏の栄華が始まる。
いや、欽明天皇即位自体が、もしかすると安閑・宣化朝が短命に終わったことも、蘇我氏の描いた画かもしれない。
欽明に自分の娘を嫁がせた蘇我稲目、その後、用明、祟駿、推古、(聖徳太子)と、以降次々と蘇我氏の姻戚の天皇が誕生する。
元々が開明的な渡来系氏族の蘇我氏は、大伴、物部を滅ぼし、完全に権力を手に入れると、暗愚な天皇家(厩戸皇子=聖徳太子のような聡明な人物もいたが)を無視して、国家の改革を進める。
傀儡となることに抵抗した祟駿天皇は、蘇我馬子によって暗殺される。その子蘇我入鹿は山背皇子の上宮王家も滅ぼしてしまう。
天皇家は、元来「象徴」ではあるが、その象徴性をもないがしろにしようとする者は、歴史から抹殺されることになる。
蘇我入鹿も、その権力の絶頂で暗殺される。
いや、単なる暗殺ではない。用意周到なクーデター、いつの間にか包囲網が出来ていた。日本史の禁を犯した者に与えられた天誅か。
聡明で辣腕の青年政治家、蘇我入鹿、天真爛漫な自信家でもあったのだろう。
でなきゃ、あんな罠にひっかからない。
石垣は「軍事的緊張」とか「天皇家牽制」とか、そんなんじゃないような気がする。蘇我入鹿は、自らが範にしようとしていた中国風の館や町を作ってみたかっただけなのだと。
クーデター後も、先見的な入鹿の政治路線は、藤原鎌足により新政権に継承された。「大化の改新」である。
『大化改新=乙巳(いっし)の変、645年=で、中大兄皇子(後の天智天皇)らに滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我氏の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと、奈良文化財研究所が1日、発表した。』
『蘇我入鹿(いるか)らが城柵を巡らせていたことを描いた「日本書紀」の記述と一致し、入鹿邸「谷(はざま)の宮門(みかど)」に付随する要塞(ようさい)の一部とみられる。古代最大の政変である改新の前夜、飛鳥を覆った軍事的緊張を物語る資料となりそうだ。』とのこと。
蘇我入鹿、私の好きな歴史ネタのひとつです。
どんな奴だったんだろうと想像を掻き立てる人物。
以下、私の勝手な解釈です。
6世紀半ば、越前の国からやって来て、騒乱の末ようやく皇位についた継体天皇。
その糟糠の妻との子、安閑、宣化天皇の皇位がいずれも短命に終わり、トロフィーワイフの仁賢天皇のお姫様に生ませた子、欽明天皇が即位する。ここから蘇我氏の栄華が始まる。
いや、欽明天皇即位自体が、もしかすると安閑・宣化朝が短命に終わったことも、蘇我氏の描いた画かもしれない。
欽明に自分の娘を嫁がせた蘇我稲目、その後、用明、祟駿、推古、(聖徳太子)と、以降次々と蘇我氏の姻戚の天皇が誕生する。
元々が開明的な渡来系氏族の蘇我氏は、大伴、物部を滅ぼし、完全に権力を手に入れると、暗愚な天皇家(厩戸皇子=聖徳太子のような聡明な人物もいたが)を無視して、国家の改革を進める。
傀儡となることに抵抗した祟駿天皇は、蘇我馬子によって暗殺される。その子蘇我入鹿は山背皇子の上宮王家も滅ぼしてしまう。
天皇家は、元来「象徴」ではあるが、その象徴性をもないがしろにしようとする者は、歴史から抹殺されることになる。
蘇我入鹿も、その権力の絶頂で暗殺される。
いや、単なる暗殺ではない。用意周到なクーデター、いつの間にか包囲網が出来ていた。日本史の禁を犯した者に与えられた天誅か。
聡明で辣腕の青年政治家、蘇我入鹿、天真爛漫な自信家でもあったのだろう。
でなきゃ、あんな罠にひっかからない。
石垣は「軍事的緊張」とか「天皇家牽制」とか、そんなんじゃないような気がする。蘇我入鹿は、自らが範にしようとしていた中国風の館や町を作ってみたかっただけなのだと。
クーデター後も、先見的な入鹿の政治路線は、藤原鎌足により新政権に継承された。「大化の改新」である。
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我氏絶頂期の人たちは中国の文物(仏教もそのひとつ)を熱心に取り入れていた先進的な人たちだったのでしょうね。その意味では中大兄皇子や中臣氏のほうが旧勢力、保守派だったのかもしれません。そして蘇我氏の遺した成果を継承(横取り)し、改革を行った時期は645年ではなく白村江の敗戦が契機だったと思います。いずれにせよこの時期の歴史はダイナミックでいろいろ想像する事ができて楽しいです。TBさせていただきます。
でも、大化の改新を、単に暗愚な保守反動勢力のクーデターと片付けてしまっていいのかという気もします。
中皇子(あの時点では大兄皇子ではありえませんよね)はともかく、鎌足は蘇我氏の功績を横取りできるだけの先見性は持っていたように思います。
なんて、古代史って、自分勝手にいろいろ想像できるから楽しいですよね。