かの世界この世界:191
一丁艪の船には水手(かこ)と女官が乗っていて、ゆるゆると進んでくる。
海の平家と浜の源氏の間に至ると、船足が停まり、女官がすらりと立ち上がる。
口が開いたかと思うと、静かに舞い始めた。
謡曲か何かなのだろうけど、口の動きだけでは令和の高校生には分からない。
いや、たとえ聞こえても源平時代の謡曲など分かりようもないんだけど、さすがは源氏の武者たち。
女官の口の動きと舞の所作で分かるようで、静かに見いっている。
「これが戦なのか?」
呆れたような感心したように、タングニョーストは静かに腕組みをする。
ヒルデは柵ギリギリのところで、腰に手を当てて女官の舞を注視する。
「揺れる船の上で足を取られることもなく舞っている、なかなかのものだ……」
ケイトも食べかけのうどんを箸に挟んだまま腰を浮かし、うどん屋の女亭主は、そんな我々を後ろで見ながらニコニコ。
見事に舞い終ると、舞扇を閉じて帆柱の赤字に白丸の扇を示した。
ヒルデとタングニョーストは、器用に柵の上に飛び乗り、揃って小手をかざす。
「ほう、あの扇を射落としてみろというわけだな」
「700ヤードはあります、ゴルフで言えばパー5のロングホールをホールインワンで決めろと言うようなものです」
「アルテミス(ギリシア神話の弓の女神)でも無理だろ」
「ウル(北欧神話の弓の男神)でも尻込みします」
「欧州の勇者は、感想を言うだけでもカッコいい……」
イザナギさんは苦笑いして頭を掻いた。
国生みの男神としては、いささか威厳に欠けるんだけど、初代日本のお父さん的な力の抜け方は好きだ。
浜の源氏の軍勢は、この徴発を受けて、少しざわめいていたが、やがて、一人の武者が現れたかと思うと、ジャブジャブと馬にまたがったまま海に乗り出した。
「あれを射落とそうというのか!?」
「姫、暴れては、柵から落ちます!」
「構うな!」
タングニョーストはタングリスの入った背嚢を担いでいるので、暴れられてはかなわない。
イザナギさんとケイトが手を差し伸べて背嚢を預かろうとするが、タングニョーストは困りながらも――けっこうです――と手を振る。
『やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ! 我こそは、那須の国の住人にして御家人の末席を汚す、那須与一宗隆なり。今より、あの軍扇を射落とすものなり、源平いずれの方々も、両の眼(まなこ)豁然と開いて御覧じろ。もし、この与一、一閃にて射落とすずんば、腹掻っ捌いて高松の浜の魚の餌になろぞ。いざ、平家の女官殿、尋常に勝負勝負!』
ウオオオオオオ!
見事な名乗りに、源平双方から感嘆の声が上がる。
「か、カッコいい!」
「手に汗を握ります!」
「こんど、ラグナロクで、あれをやってみよう!」
ヴァルキリアの主従は興奮の絶頂になった。
キリキリキリ……
丘の上のここまで弓を引き絞る音が聞こえる。
与一がいっぱいまで弓を引き絞ると、源平双方のみならず、丘の上の我々も呼吸を忘れて見入ってしまう。
うどん屋の釜の湯気さえ停まったかと思う瞬間、与一の矢が放たれた。
ヒョーーーーーーー
鏑矢は、獲物に飛びかかる鷹の声のように音を引いて飛んでいく!
フ
音もなく扇が吹き飛んで、それに、一瞬遅れて命中の音。
トス
ひらりひらりと舞いながら扇は海面に落ちて、やっと、源平両軍から歓声の声やら船端やら箙(えびら)やらを叩く音が、高松の海と浜と空に満ちた。
「か、かっこいい! めちゃくちゃカッコいいぞ!」
ヒルデは、柵の上で飛び上がったりバク転をし、涙さえ浮かべて感激した。
タングリスも惜しみなく拍手を送りながら、間隙を発した主人を眩しく見ている。
ケイトもうどんの鉢を持つ手はそのままに、脚を震わせている。
「よし、今日は、うどんの無料奉仕だよ!」
うどん屋のカミさんが吠える。
吠えた、その顔をよく見ると、荒れ地の万屋のペギーだったりした。
☆ 主な登場人物
―― この世界 ――
- 寺井光子 二年生 この長い物語の主人公
- 二宮冴子 二年生 不幸な事故で光子に殺される 回避しようとすれば逆に光子の命が無い
- 中臣美空 三年生 セミロングで『かの世部』部長
- 志村時美 三年生 ポニテの『かの世部』副部長
―― かの世界 ――
- テル(寺井光子) 二年生 今度の世界では小早川照姫
- ケイト(小山内健人) 今度の世界の小早川照姫の幼なじみ 異世界のペギーにケイトに変えられる
- ブリュンヒルデ 無辺街道でいっしょになった主神オーディンの娘の姫騎士
- タングリス トール元帥の副官 タングニョーストと共にラーテの搭乗員 ブリの世話係
- タングニョースト トール元帥の副官 タングリスと共にラーテの搭乗員 ノルデン鉄橋で辺境警備隊に転属
- ロキ ヴァイゼンハオスの孤児
- ポチ ロキたちが飼っていたシリンダーの幼体 82回目に1/6サイズの人形に擬態
- ペギー 荒れ地の万屋
- イザナギ 始まりの男神
- イザナミ 始まりの女神