栞のセンチメートルジャーニー・4
『ふるさと』
気がつくと一面の菜の花だった。
「いったいどこなんだろう?」
「栞に分からんものが、オレに分かるか」
前回はいきなり、昭和三十一年の秋。それも栞が堕ろされた病院のすぐ側、O神社の近くに飛ばされ、栞が堕ろされる状況を追体験してしまった。
どうも、この地図と年表は使いこなすのが難しいようで、栞がフト頭に浮かんだ場所と時代に行ってしまうようだ。げんに今、栞は「いったいどこなんだろう?」と他人事のように言った。
「田舎の話してたんだよね」
栞は、菜の花を一本手でもてあそびながら、遠足のような気楽さで歩いている。
「ここ、お母ちゃんの田舎じゃない?」
そう言われて、周りを見渡すと、母の田舎である蒲生野とは、いくぶん様子が違う。遠くに見える山並みが、幾分いかつく。蒲生野特有の真宗寺院を中心とした村々が見えない。ところどころに灌木に混じって白樺のような木々が立ち上がり、ちょっとした林になっている。林の彼方には茅葺きの家がたむろした村が見えるが、蒲生野のように、家々が肩を寄せ合うような集村ではなかった。道も畦道ではなかったが、道幅のわりに舗装もされておらず、電柱も……送電鉄塔さえ視野に入らない。
「名の花畑に 入り日薄れ 見渡す山野端 匂い淡し 春風そよ吹く……♪」
栞が『朧月夜』を歌っていると、一瞬風が強くなり、ソフト帽が転がってきた。
「お……」
反射神経の鈍いわたしは拾い損ねた。
「ほい」
栞は、菜の花で、ヒョイとすくい上げ、帽子は、道の脇を流れる小川に落ちずにすんだ。
「やあ、助かりました。ありがとうございます」
信州訛りの言葉が追いかけてきた。
「はい、どうぞ」
栞は、帽子の砂を払って、信州訛りさんに渡した。
「どうもです。いやあ、セーラー服なんですね。ハイカラだ、都会の方なんですね」
この言葉と周りの様子、そして信州訛りさんのスーツの様子から、大正時代以前だと踏んだ。
「ええ、東京の方です。素性はご勘弁願いたいんですが、怪しいものじゃありません」
「ご様子から、華族さまのように……いえいえ詮索はいたしません。東京の方が、こんな信州の田舎にお出でになるだけで、嬉しく思います。あ、わたし、永田尋常小学校に勤めております高野辰之と申します」
「高野さん……」
「しがない田舎教師ですが、いつか東京に出て勉強のやり直しをやろうと思っています」
大人びてはいるが、笑顔は少年のようだった。高野という名前にひっかかったが、調子を合わせておいた。
「あれは、妹ですが、ちょいと脳天気で……」
「失礼よ、お兄様。わたくし栞子と申します。兄は睦夫。今上陛下の御名から一字頂戴しておりますけど、位負けもいいところです」
「それは、それは……いやいや、そういう意味ではなく」
「ホホ、そういう意味でよろしいんですのよ」
「あ、いや、どうも失礼いたしました」
高野さんは、メガネをとって、ハンカチで顔を拭いた。向学心と愛嬌が微妙なバランスで同居した顔だった。
「高野さん、ここは、まさに日本の『ふるさと』という感じですね。わたくし、感心……いえ、感動しました」
「それは、信州人として御礼申し上げます」
「兎を追ったり、小鮒を釣ったり、菜の花畑に薄れる入り日……山の端が、なんとも……」
「匂い淡し」二人は、この言葉を同時に口にして、若々しく笑った。
それから、高野さんは、信州の自慢話を、本当に楽しそうに語った。しばらくすると、道の向こうから高野さんのネエヤが、高野さんを呼ばわる声がした。
「これは、とんだ長話をしてしまいました。それでは、これでご免こうむります」
高野さんはペコリと頭を下げると、少年のような足どりで菜の花の中に消えた。
「栞、どうして栞子なんて言うたんや」
「だって、この時代、華族さまの娘なら、子の字が付いてなきゃ不自然……見て、山の上に朧月が出た!」
戻ってきてから気が付いた。高野辰之は『ふるさと』や『朧月夜』『春がきた』などの国民的な童謡を作った人だ。栞は知ってか知らでか、ずいぶん作詞のヒントを与えたようだが、平気な顔をしてゲ-ム機に取り込んだ童謡を聴いている。ボクは、その印象が薄れないうちに、この短文を書いているが、しだいに朧月のようにあやふやになっていく……。