ライトノベルベスト
「そんなこともあったわね」
渡り廊下から降りてきたスーザンがしみじみと言った。
「止めんの大変だったんだから」
「ごめんね」
「もういいよ」
ボクは、傷の残っている右手を、そっとポケットに突っこんだ。でも、スーザンは目ざとく、それを見つけて、ボクの右手を引っぱり出した。
「傷になっちゃったね」
「ハハ、男の勲章だよ」
「傷にキスしてみようか。カエルだって王子さまにもどれたんだし。ボクがやったら、傷も治って、キミはいい男になれるかもよ」
「その、ボクってのはよせよ。日本語の一人称として間違ってる」
「ボクは、ボク少女。いいじゃん。この半年で見つけた新しい日本だよ。キミも含めてね」
「よく、そういう劇的な台詞が言えるよ。他の奴が聞いたら誤解するぜ」
「だって、ボクはアメリカ人なのよ。普通にこういう表現はするわよ。ただ日本語だってことだけじゃん……あ!」
スーザンが有らぬ方角を指差した。驚いてその方角を見ているうちに手の甲にキスされてしまった。
「あ、あのなあ……」
「リップクリームしか付けてないから」
「そういうことじゃなくて」
「……じゃなくて?」
気の早いウグイスが鳴いた。少し間が抜けた感じになった。
「シアトルには、いつ帰んの?」
「明日の飛行機」
「早いんだな……」
「見送りになんか来なくっていいからね……ここでの半年は、ちゃんと単位として認められるから。秋までは遊んで暮らせる。もちろん、大学いくまではバイトはやらなきゃならないけどね」
アメリカの学校は夏に終わって、秋に始まるんだ。
「ねえ、GIVE ME FIVE!(ギブ ミー ファイブ!)OK?」
ボクは勘違いした。
卒業に当たって、女の子が男の子の制服の何番目かのボタンをもらう習慣と。
で、ボクたちの学校の制服は、第五ボタンまである。なんか違うなあという気持ちはあったけど、ボクは返事した。
「いいよ」
「じゃ、ワン、ツー、スリーで!」
で、ボクたちは数を数えた。そして……。
「えい!」
ブチっという音と、ブチュって音が同時にした。
ボクは、てっきり第五ボタンだと思って、ボタンを引きちぎった。スーザンは、なぜか右手を挙げてジャンプし、勢い余って、ボクの方に倒れかかってきた。
危ないと思ってボクは彼女を受け止めた。でも勢いは止められず、ボクとスーザンの顔はくっついてしまった。クチビルという一点で……。
「キミね、GIVE ME FIVEってのはハイタッチのことなのよ! ああ、こんなシュチュエーションでファーストキスだなんて。もう、サイテー!」
それから、一年。ボクもスーザンも、お互いの国で大学生になった。
で、ボクはシアトル行きの飛行機の中にいる。手には彼女からの手紙と写真。写真は少し大人びた彼女のバストアップ。胸にはボクの第五ボタンがついている。スーザンはヘブンのロックを、同じ名前の母校の生活とともにパスしたみたいだった。
シアトルについたら、スーズって呼べそうな気がする。しかしボクの心って、窓から見える雲のよう。青空の中の雲はヘブン(天国)を連想させるが、実際はそんなもんじゃない。
前の四列目の座席で乗客が呟いた。
「あれって、積乱雲。外目にはきれいだけど、中は嵐みたいで、飛行機も飛べないんだぜ」
同席の女性が軽くおののいた。
ボクの心は、もっとおののいている……。