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学校の途中に、ちょっとした川が流れていて五メートルほどの小さな橋が架かっていた。
思い出し橋、と、みんなに親しまれていた。
思い出橋と言えば語呂がいいんだけど、これは、ちょっと舌を噛みそうにオモイダシバシと発音するところがいい。
朝寝坊をして、ろくに時間割も調べずに教科書をカバンに入れて、この橋までくると思い出す。
「あ、体操服入れるの忘れた!」
で、慌てて取りに戻ることなどしょっちゅうだった。中には宿題をやるのを、ここで思い出すやつもいた。
「あ、オレ腹痛え、ちょっと家帰るわ」
「しかたねえ、だれそれに頭下げて写させてもらおう」
「どうしよう、先生に叱られる。あたし学校に行けない」
「ちぇ、またゴツンとやられるか」
と、反応は、様々だが、思い出すのである。
学校から戻る時にも、その効果はあった。
「しまった、あいつ、まだ廊下に立たせっぱなしだった!」
と、先生が思い出すこともあった。
あるときは事務員さんが、帰りが最後になって思い出した。
「あ、金庫閉めたけど、ロックしてなかった!」
で、戻ったら、ちょうどドロボウが入っているところで、宿直の体育の先生といっしょに捕まえたこともあった。
卒業式の時などは大変で、この橋まで来て、学校生活のあれこれを思いだしてしまう。
学校にもう一度戻るやつ、その場に立ちすくんで思い出に耽る女生徒。そんなので一杯になるので、いつのころか、橋の後先は、ちょっとした広場のようになっていた。
その学校も三十年前に統廃合されて無くなってしまった。
でも、この思い出し橋にくると、木の間がくれに無いはずの校舎がオボロに思い出されたりする。
僕が、最初にここに戻ってきたのは、会社をリストラされて仕事に困っているときだった。
僕は、自分自身を前向きな人間だと思い、この思い出し橋の世話になったのは、時間割を間違えた時と、土曜が休日になったとき、ぼんやり土曜にここまで来て、あ、今日から土曜は休みだと思い出したときぐらいである。
何もかもが懐かしかった。
校舎、グラウンド、油引きの教室の匂い、校長先生のアデランス……そして、ふいに思い出した。朝礼のときふと前から香ってきたリンスの効いた髪の香り。
……そして、気づいた。その同じ香りが、すぐそこから香っていることを。
振り返ると千穂がいた。
千穂は、早い見合い結婚が破綻して、数年ぶりに故郷に戻ってきて、つい、この思い出し橋に来たそうだ。
「廃校になってるとは思わなかった。だって山田君が言うまでは校舎とか見えてたんだもん」
「ほんとかい?」
僕も、そこまで、この橋の神通力は信じていなかった。なんとなく、学校と外界の境になっていて、橋を渡るという行為そのものが、思い出させる効果がある……ぐらいにしか思っていなかった。
「あたし免許もってるから、学校の講師でもなろうかって思ってたんだけどね……」
で、互いの「それから」を話し、互いを意識していたことを笑いながら語った。
そんなバツイチと、リストラが接近するのは早かった。
幸い、千穂は近くの高校の常勤講師の口が見つかり、僕も地元の企業に契約社員として雇われた。
「割れ鍋に綴じ蓋」
それを冗談のように、言い訳のようにして二人の距離は縮まった。
そして、互いの両親に挨拶するだけという簡単さで結婚した。
千穂は、二年目には東京の教員採用試験に通り、僕も取引先の引きで東京の会社に移った。契約社員の気楽さである。
それから十五年の歳月がたち、順調だった千穂との生活にヒビが入った。
結婚して、間もなく生まれた千明が亡くなったのだ。
風邪だと油断したのが間違いだった。救急車で運んだときは、もう重篤で、三日目には、あっけなく、ちょうど十五歳の誕生日に千明は逝った。
もともと口数の多くない夫婦が、互いにカミソリのようになって互いを傷つけるようになった。
千明の死を互いのせいにした。ケンカ慣れしていない夫婦のそれは、簡単に飛躍した。
千穂が包丁を持ち出し、僕は千穂の首を絞めていた。
その時、飾り棚の上にあった思い出し橋で二人が撮った写真が落ちてきた。
そして、僕たちはしばらくぶりで思い出し橋にやってきた。
「……なんにも思い出せない。あなたは?」
「オレも、校舎がどこにあったのかも、どんなだったのかも思い出さない」
「……ちょっと、橋変わってるわよ!」
「ほんとだ、似てるけど、これはコンクリートだ」
思い出し橋は木造の橋だった。
嘘か誠か、思い出し橋は、江戸時代、この小さな城下町の町はずれに藩校があったころから、修理をしたり手を加えられたりしながらずっと続いてきたものらしい。
で、橋は、川や山がずっとそこにあるように、当たり前に有り続けているものだと思っていた。
「お、ベッピンの千穂とゴンタクレの山田の倅じゃないか」
振り返ると、町の貧乏寺の和尚が似合わぬゲンチャに跨って、声をかけてきた。
「そうか、二人も人並みには苦労したんじゃな……」
一通りの話しをすると和尚は、大事な物を置くように二人の肩を叩いた。
「この橋の架け替えも反対はしたんじゃけどな。耐震基準がどうとかこうとかぬかして、この有り様よ。もう、これを見ても、何も思い出さんじゃろ」
「ええ、カタチはそのままだけど、テーマパークのセットみたいです」
和尚は、衣の袖をまさぐって、なにやら取りだした。
「これをやろう。前の橋の残骸じゃ。産廃にすると言うんで、わしがもらいうけた。大きな廃材は仏さんに彫り直したがな。木っ端は乾かして、お前さんたちのように不景気な顔してるやつらに配っている……まあ、お守りぐらいにはなるだろう……じゃ、そろそろ鐘を突く時間じゃ。二人とも元気でな!」
和尚は、制限速度を軽く十キロはオーバーしていってしまった。
「さ、帰ろうか、オレたちも……」
「あ、あなた、見て……」
車の後部座席に千明が居た……。
中学の制服姿で、手を振っている……ほんの十秒ほどだったろうか、もっと短かったかも知れない。
僕たちは、千明の気配を感じながら、幸せな気持ちで東京への道をめざした……。