大橋むつおのブログ

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らいと古典・わたしの徒然草・74『蟻の如くに集まりて』

2021-04-16 06:43:51 | 自己紹介

わたしの然草・74
『蟻の如くに集まりて』  

 



徒然草 第七十四段

 蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起る。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、ただ、老と死とにあり。その来る事速やかにして、念々間に止らず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。


 これは、兼好が、時々触れている。というか、落ち込んでいる無常観で、いささか始末が悪い。
 蟻のように生きたって、けっきょく死んじまうんだから、あくせくしたってしかたねえ。と、開き直っています。「生を貪り、利を求めて、止む時なし」それでも、けっきょくは、老いと死がまっているだけなんだぜ。というデカダンスと紙一重のように思えます。

 人生およそ八十年。
 だから、80-80=0

 この0の意味の取り方であると思います。お金に例えてみましょう。八十円を落っことせば0になる。インスタントラーメンを八十円で買えば、しばらく腹が持つ。八十円で切手をかえば、二十五グラム以内の重さの便りを誰かに送ることができる(いまは84円ですが(^_^;)。
 落っことした八十円は意味がありませんが、例えインスタントラーメンであっても、食べれば、一時お腹と心が暖まります。
 二十五グラムの便り、書く内容によっては、プロポーズが成功するかもしれず。エッセーの懸賞募集ならば、一等賞になって賞金五十万円ぐらいが手に入るかもしれない。
 要は、-80で何をしておくかによって答の0の意味が異なってくると思います。

 わたしの友人で、雅号というかハンドルネームというかを「朱夏」としている人がいます。朱夏とは人生の中年を指し、天命を知り、身を立て惑わずの時代であります。
 かみくだいて言うと、自分の人生のテーマを知り、モラトリアムの時代、すなわち親のスネかじりを止め、経済的にも精神的にも独立し「わたしの人生はコレデイイノダ!」と、惑わないことを表すことでしょう。
 この伝でいくと、わたしは朱夏の最後期で、惑っていてはいけない。おのが人生を顧みて、「コレデイイノダ!」と胸を張り、耳に従い、すなわち他人様のご意見に素直に聞く白秋の準備ができていなければならない。

 ところが、わたしは天命と心得た職を五十五で辞し、かろうじて出した過去の著作や、出版社が拾ってくださる駄文をもって、「嗚呼、我は、作家哉!」とやせ我慢の胸も張りかねております。戯曲、小説、エッセーと書くものも尻が定まらず。時たま「これを書こう!」と一念発起しても、「ああ、あれが分からん。これも知らんかった」と、ネットで検索したり、広辞苑を引いてみたり。朱夏はおろか「学を志す=青春」の先っちょにいるような気さえしてきます。
 惑わず=独立も怪しいもので、退職金の食いつぶしとカミサンの嘱託職員としての収入が頼りの毎日。実際、健康保険などはカミサンの扶養家族としてのそれであります。
 
 わたしの宗旨は仏光寺派の浄土真宗であります。この我が宗旨では開祖親鸞上人以来、人は死ねば、善人悪人にかかわらず、等しく御浄土に逝くことになっております。法名も勝手に決めて「釋睦夫(シャクボクフ)」と決めております。
 御浄土に逝くことは決まっているので、朱夏や白秋などと取り澄ますのは止しにしようと、最近は思います。分からんものは分からんと言い、嫌なものは嫌と言って残りの二十年を、生き恥と言われながら生きていこうと思う……と、思うところまでは開き直れてはおりません。
 毎日、ブログのアクセスを気にし、コメントやトラックバックにヒヤヒヤ。

 

 愚禿釋睦夫

(注)愚禿とは、親鸞上人を気取っているのではなく、見た目の通りであります(^_^;)。



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