「えー、あんたら、ほんまに来たんか!?」
これが第一声だった。
「来いつったのは、リュウさんの方だよ」
「……しゃあないなあ」
お調子者だが、気の弱そうなリュウさんが頭を掻いた。
で、わたしたちサトコ(わたし=亜紀)シホ(麗)サキ(美花)三人の大阪での落ち着き場所が決まった。
落ち着き場所とは、二つの意味がある。働き場所と、寝泊まりするところである。
「あ、シゲさん。いま女の子三人スカウトしたよって……むろんゴトやがな。んで、ドヤなんとかしたってえな。え、シゲさん自身来てくれんのん。そら心強いわ!」
どうやら、ゴトが仕事で、ドヤが寝泊まりするところであると見当がついた。
「そやけど、レイちゃん、よう決心したなあ」
「そりゃ、アゲアゲ気分のときに一気にやらなきゃ、こんなことできないよ。で、ほかにお仲間いるの?」
「お仲間?」
「女の子よ。狭い店だからさ、まあ、シフト考えても五人が限度」
「ああ、まだ一人だけ。夕方には紹介するわ」
「じゃあ、あたしらが来て正解じゃん。あ、この子がサキ、向こうがサトコ。同じ東都短大の一年てことになってる。ほら、学生証、出す出す」
わたしとサキは、ハーパンの後ろから学生証を出した。
「……ようでけてる。高こついたやろ、保険証は安うできるけど、学生証は高いで」
「坂本興産のリュウさんのアシストって言ったら、二日で作ってくれた」
「え、オレの名前出したんか!?」
「イザってときは、そう言えっていったじゃん」
「これは、イザやない。ああ、またオトンに怒られるわ……」
と、かくして、わたしたち三人は、どうやらできたてらしい『ガールズバー リュウ』で働くことになった。
お昼は、お店の近所にある、お好み焼き屋さんに連れていってもらった。
途中ひっかけ橋の異名を持つ戎橋を通った。目の前に名物のグリコのバンザイゴールの看板があった。
「リュウちゃん、シャメ撮ってよ」
「ああ、ええよ」
リュウさんは、気軽に引き受けたが、なかなかアングルが決まらない。
「早くしてよ、暑いんだからさ!」
麗……いや、シホがタンクトップの胸をパカパカしながらせっついた。気づくと、橋にたむろってる男の子たちがチラ見しているのに気づく。やっぱ、ビミョーに大阪の女の子とは違うオーラがあるんだろう。東京じゃどっちかっていうとくすんでるわたしは、晴れがましいような、ハズイような、ビミョーな気持ち。
橋を渡り終えると、ポリボックスがあって、中のお巡りさんが一人出てきた。
「おう、リュウやんけ。昼間からマブイ子三人も連れて、ええ身分やな」
「あ、秋元さん。この子ら、うちの従業員ですねん。今日から働いてもらうんで、昼飯です」
「たしか双左右衛門町のネキやったな」
「ネキちゃいます。ちゃんと双左右衛門町です。あ、お世話になってる秋元警部補さんや、挨拶しとき」
「吉田志穂です。よろしく」
「田中咲です……」
「あ、氷川聡子です……」
秋元警部補は、恵比寿さんのような、でも光のある目で、わたしたちを見た。
「あんたら、関西の子とちゃうなあ」
「ええ、東京です」
意外に美花……サキが自然な感じで言った。
「東京か、サミットでかり出されて以来やなあ。で、君ら干支は?」
「あ、みんな子年(ねどし)です」
「十八か……」
「わたしは、もう五月で十九になっちゃいましたけど」
「かいらしい盛りやのう。リュウ、オトンに迷惑かけんなよ。わかっとんな」
「そ、そらもう。ボクはカタギでいきまっさかい」
「ハハ、ほんなら、オトンはカタギやないのんけ?」
「秋元さん、冗談キツイわ。坂本興産は立派な株式会社でおま」
「まあ、風営法守って、あんじょうやりや」
「はい、そら、もう。ほんなら」
「う~ん、ガチ美味いよ!」
シホ(麗)がマジで喜んだ。シホは食べ物にうるさい。と言っても、セレブじゃないんで、銀座や六本木の高級レストランなどへは行ったことがない。わたしは、お父さんの見栄で、フランス料理に一回いった。さすがにホアグラなんか美味しいと思ったけど、シホはきっと美味しいとは思わないだろ。なんたって、好物は学校の食堂のカレーうどんなんだから。
そのかわり、B級ってかジャンクってか、そういう食べ物にはうるさい。ハンバーガーのパテの素材が変わっただけで「値段そのままで、味おとした」と言うぐらいである。
わたしたちが行った時間帯は、いわゆるランチタイム。店が引けた後なんかに来ると、このあたりの風俗の女の子がよく来るそうで、それも、わりとマットーな子が多いらしい。
「これがよ、この『雪月花』 で、こう広げていくと、似たような店がこんなにあるけど、今から言うところは出入りしたら、あかんで」
「なんで?」
「裏のプロが出入りしよる。良くも悪くも目えつけられたらろくなことないさかいな」
リュウさんは、真剣な目で言った。
「あほ、メモなんかとるんやない。目えで覚え、目えで!」
メモをとろうとしたサキ(美花)を叱った。
食後に焙じ茶飲んでたら、リュウさんのスマホが鳴った。どうやらお迎えのシゲさんのようだ。
「いやあ、わりにいいじゃん! ワンルームのすし詰め覚悟してたのにさ」
案内されたのは、東成区のコジャレたマンションだった。さすがに、新築じゃないけど、内装なんかやりかえて、畳やフローリングまで張り替えてあった。
「いずれ、分かることだから、あらかじめ言うとくけどな。前の住人、ここで刺されて死んだんや」
「「「えー!!!?」」」
三人同時に声が上がった。
「まあ、まあ、まあ……」
シゲさんは、ビビるあたしたちを、優しく制した。
「刺されたんは、ここやけど……」
と、わたしの足もとを差した。
「ヒエー!」
自分でも分かるほど、ブスな驚き方をした。
「「「エンガチョ、エンガチョ」」」
あたしは、両手の人差し指と親指で輪を作った。
「エンガチョ切った!」
シホが、エンガチョを切ってくれた。
「死によったんは、病院やさかいな。安心しい」
「ア、アハハハ……」
流れる汗は、暑さのせいばかりではなかった……。
「せやけど、エンガチョて、ほんまにやるんやなあ。わしは『千と千尋の金隠し』のオリジナルや思てた」
「うん、東京じゃ、やってる」
「で、金隠しじゃなくて神隠しだから」
「ハハ、シャレで言うてんねんがな、シャレで」
「なんだ、オヤジギャグかよ」
「ハハ、オヤジか……これでも若頭……いや、営業部長や。いちおう名刺渡しとくわな」
シゲさんは、名刺を渡しながら、真面目な顔になってきた。
「どうかしたんですか?」
「いや、オレから言うのもなんやけどな、リュウぼんのことよろしゅうな。くれぐれも真っ当な素人にしてくれ言うて、ぼんのお父さんお母さんからも言われてるさかい、頼んだで。ほな、おっちゃん夕方に迎えにくるさかい、それまで、昼寝なとしときいや。夜行バスやったんやろ。あ、バス・トイレはあっちゃ」
と、下手なギャグで締めくくって、シゲさんは行ってしまった。
わたしたちの、夏が始まった……。
秋物語り2018・3
『変身エスケープ』
麗と美花とわたしの3人で、その夕方、東京をフケた……。
ほんとは、小島みなみって子がいっしょに行くはずだった。どたんばで親にバレ、不参加になったので、わたしは、すんなりと、みなみの代わりに入ることができた。
家には、今夜友だちの家に泊まるって、デタラメの名前と電話番号をお母さんに渡したら、すんなりOKになった。
わたしは、今まで問題なんて起こしたことのない子だったのと、弟の方がグレかけていたので、拍子抜けするほど怪しまれなかった。
新宿の集合場所に行くと、まず、美花が目に付いた。夜行バスの待合いの正面にいたので、すぐに分かった。約束どおり、三人揃うまでは口をきかない。
わたしに尾行とかが付いていないのを確認したんだろう、目の端に麗が見えた。麗は、わたしたちの一つ後ろの列に座った。
「これが学生証。東都短大の一年生ってことになってる。あたしが吉田志穂、美花が田中咲、亜紀が氷川聡子ってことになってる。平成12年の生まれ。亜紀の聡子だけが誕生日過ぎてるから、19歳。ということで、よろしく。たった今からサトコとサキだから、よろしくね。それから、スマホで東都短大のこと、一応見といて」
そして、三十分後の夜行バスに三人は収まった。サキの美花と隣同士の席になった。わたし美花、いやサキとあまり親しくないことを気遣った麗……いや、シホの配慮。
「あたし、在日だってことは知ってるよね?」
走り始めて5分ほどでサキが切り出してきた。
「うん、水泳部にも、ちょこっと見学に来てたよね」
「覚えていてくれたんだ……」
サキは嬉しそうに言った。
「お下げが似合ってたのと、名前がよく分かんないので覚えてる」
「呉美花(オ ミファ) あたしの本名。使えっていわれたから、そう名乗ったんだけどね……」
うちの学校は、入学式に本名を使うように、担当の先生が、わざわざ言った。最初のホームルームでも、クラスによっては、担任が本名宣言を勧める。美花の担任は若い組合の先生で、熱心だった。で、美花は、こう自己紹介した。
「呉美花と書いて、オ ミファって読みます。よろしく……」
担任一人、盛大な拍手をしてくれ、正直戸惑った。そんな特別な扱いはして欲しくなかった。日本人でも在日外国人でも同じだから、普通に受け止めてくれれば、それでいい。英雄みたいに拍手なんかいらない。拍手するんなら、あたしが、絶滅寸前の水泳部志望ってあたりでして欲しかった。
クラスで、本名を宣言したことで、特にシカトされたことなんか無かった。ただ、クラスの半分ぐらいからは、うっすらと距離を置かれていることがもどかしかった。
本名宣言をしたからなのか、美花自身の性格の問題なのか、クラスが大人しいせいかは。判断がつきかねた。
ただ、担任が見かけ倒しなのは、ゴールデンウィークごろには、はっきり分かった。演説ばっかやって、生徒の話を聞こうとする姿勢も力も無かった。
ゴールデンウィーク明けに、麗がつまらないことで、男子とケンカした。手こそ出なかったけど、麗は放送禁止用語みたいな言葉をいっぱい言った。すごくテンポが良かったので、ビートたけしみたいで、聞いていて、何回か笑いかけた。バカにされたと思った男子が、麗の襟首を掴もうとして、逆にねじ上げられてしまった。
「あ、ワリー。ちょっと少林寺なんかやってたもんだから。なんなら、今から保健室行こうか、女子の襟首掴もうとしたら、逆にねじり上げられて、なんだか痛いんですって。あたしも付き合ってあげるからさ。ね、ドーヨ」
で、クラスは爆笑になった。担任が、廊下の向こうから、見ていたのを、美花は気づいていた。美花や、何人かの生徒は、担任が何か言うと思っていた。
「寸止めや襟首掴むのも立派な暴力行為。必ず懲戒にかける」
生指部長の梅本は、そう言っていたし、よそのクラスでは、もう何人か戒告とか訓告とかになっていた。それを、うちの担任は無かったことにしちまった。
――せめて、事情ぐらい聞けよ。で、演説すんなら、こういうとこだろ――
美花は、最初期待しただけに、見損なった気になった。
「美花、本名宣言したんだって?」
現社の荒巻先生が、食堂で隣同士になったとき、ことのついでのように言った。
「ああ、はい。でもミファって言いにくいのか、最近はミカってよばれることの方が多いです」
風采の上がらない中年だけど、美花は、この荒巻先生が好きだった。
――いつやるんですか、明日でもいいじゃないですか!――
ときどき言う、このオヤジギャグが好きだった。この言葉を文字通り受け止め、入学時の課題をいつまでも出さない生徒には、こう言った。
「明日は無限には続かない、だろ。一学期は七月で終わりだし、高校は三年、人生は80年ほどでおしまいだ。物事には、それに相応しい明日という期限がある。明日まで待とう、明後日じゃ、もうシャレにならない」
そう言って、明くる日課題を持ってきた生徒のはうけとったけど、二日遅れた生徒のは拒否した。
「本名なんて、宣言なんかじゃなくて、普通に言えばいい。学校が本名にしなさいって言うんだったら、その後にやってくるだろう事への備えや覚悟が、学校になきゃなあ……いや、余計なことを言ってしまったな」
「そういうことは……明日でもいいじゃないですか」
荒巻先生は、この美花にとっては調子がいいだけのギャグを大笑いしてくれた。美花が、学校で心から笑った、数少ないことだった。
その荒巻先生は、この春に転勤してしまった。
で、美花は、二年生になってから、通名の高階美花に戻ってしまった。大きな絶望やら、考えがあってのことではない。どうも学校がアテにならないことや、通名の響きが好きだったことによる。
バスは、夜明けに大阪の難波に着いた。
バスから降りたとき、三人はサキ、シホ、サトコになっていた……。
上からアリコ(^&^)!その20
『エピローグ』
「しまった……!」
思わず口をついて出てしまうところだった。
「失礼しました……」
そう言って、頭を下げたとき、それが目に入ってきた。
――来る者は拒まず。
ここまではいい。次の行を読み間違えていた。
――去る者はいない……だと、感じていた。
――来る者は拒まず、去る者は追わず。文芸部。
と、当たり前に書いてあった。
「どうかした?」
アリコ先生が振りかえった。
「あ、あの……文芸部に入ろうかなって……」
千尋は、自分でも分からない収まりの悪さを感じながら、要領をえない答をした。
「このポップ、なんか変?」
「いいえ……そうじゃなくって」
アリコ先生は、ほんのわずかに小首をかしげて言った。
「……ちょっと中庭にでもいって、話ししようか。ね、千尋」
千尋は、初めて会ったアリコ先生が、下の名前で呼んだことに少し驚いた。胸の名札には阿倍野としか書いていない。アリコ先生は三年の担当で、一年の千尋とは縁がない。考え始めたときには、カーディガンを羽織りながら職員室を出て行く先生のあとに続いていた。
「まだ少し記憶が残っているようね」
アリコ先生は、赤いバラを手折ってベンチに座った。昼前にやんだ雨が、バラの中に露となって憩っていた。強いバラの香りが、あたりに満ちた。
「あ……」
千尋は満開のバラのように目と口を開けたまま、蘇った記憶に混乱した。
「赤いバラは、記憶を蘇らせるのよ」
「だって、あれは運動会の日のことでしょ……?」
「そう、わたしたちは、あの一ヶ月前の世界に戻ってきたの」
「先生は……」
「千尋には、まだお礼を言ってなかったから、ちょっと記憶を完全に思い出してもらったの」
「小町は、もう蘇ってこないんですね」
「ええ、千尋のおかげよ。ありがとう」
それから、アリコ先生は全てを話してくれた。稲井豊子の姿で身を隠した小町をおびき寄せ、その野望を打ち砕くための企みといきさつ。そして、それには安倍晴明の血を引く千尋の、本人も自覚していない力が必要だったことを。
「ほんとうにありがとう。千尋がいなければ、この街……いえ、この国は小町に乗っ取られるところだった」
「わたしに、そんな力は……」
「あるのよ。わたしの体は歳をとらないし死ぬこともない。でも、千年も生きているとね、ここは、もうズタズタ」
アリコ先生は胸に手をやった。
「心が……?」
「そりゃそうよ。この千年間のこの国の不幸や争い事を全部見てきたのよ。好きな人や尊敬できる人と出会っても、いっしょにいられるのは二十年が限界。でしょ、いつまでも若いままで、その人たちの前にいるわけにはいかないものね。で、その人たちとの何度ものお別れ。そして、小町との争い」
「そうなんだ……」
「その千年間の疲れが、左半身に出てきてね。ちょっと左手きつかったの」
千尋は、先生のポニーテールに目をやった。以前のように左サイドにはなっていなかった。
「ちょっと小首をかしげるのも、そのせいだったんですか?」
「ええ、無意識だけど、どうしてもね」
「あれ、可愛かったですよ」
「ありがとう」
「でも、あれって先生の苦労の現れだったんですね……」
「千尋の姿勢の悪さといっしょね」
「あ、はい。気をつけます」
「……名残惜しいけど、これでお別れね」
「アリコ先生……」
「千年の宿敵も倒した。少し休もうと思って……千尋がおばさんになったころ会うかもね」
「はい……」
「オジイチャンによろしく……」
そういうと、アリコ先生は白いバラを手折って、クルっと回し、あたりは新しいバラの香りに包まれた。
千尋は一瞬めまいがした。めまいが収まると、一人でベンチに座っている自分に気がついた。
――わたし……なんで、こんなとこにいるんだろう?――
「阿倍野さん、バレー部考えてくれた!?」
二階の渡り廊下から、バレー部の関根が帚(ほうき)を振りながら叫んだ。
「あ、もうちょっと考えさせて下さい!」
「いいわよ、良い返事期待してるね!」
その関根の後ろで、渡り廊下を走っている一年生を叱っている美咲の声がした。その美咲が、関根と入れ替わった。
「千尋ちゃ~ん、いっしょに帰ろ!」
「うん、下足室で待ってて!」
下足室へ向かおうとして、千尋は振り返った。なにか去りがたい気持ちになった。
「なんで、わたしって泣いてるんだろう……」
その時、正門の方から犬の楽しげに吠える声がした。声だけで分かった。美咲ちゃんちのナナが、また散歩の途中で、ご主人の美咲ちゃんのお父さんの手を離れて駆け出したようだ。
下足室から、美咲ちゃんといっしょに出てくると、ナナは三年生の男子生徒を追いかけ回していた。
「うん、あいつなら噛みついても許す」
「いいの?」
「いいのよ、田中卓真って、少しヤナやつだから」
やっと、お父さんがナナを捕まえた。千尋と美咲ちゃんは、知らないふりで空を見上げながら校門を出た。
三つむこうの通りの屋根ごしに鯉のぼりが泳いでいる。
その上の空は、午前中まで降り続けた雨がウソのような青空が広がっていた。
――完――
秋物語り2018・2
『終わりの始まりの続き』
わたしは職員室を飛び出した。
呼び止めるどころか、目線を合わせようとする先生もいなかった……。
真っ直ぐ食堂へ向かった。
わたしは、腹が立ったり、悲しかったり、自分が壊れそうになったときはとにかく食べる。で、食べ過ぎてもどしてしまう。食べたものによっては下痢になることもある。
学校で、もどしたり、下痢ピーは、ごめんなので、売れ残りのサンドイッチを三個買って、溢れる涙見られるのヤだから、食堂の外へ行こうとして、ぶつかってしまった。
「あ……!」
振り返りざまに、人とぶつかった。で、ぶつかったことよりも、そのとき落っこちたものに目が行った。
相手とわたしの足許には、サンドイッチとセブンスターが落ちていた。
わたしは、とっさに、落ちたサンドイッチでセブンスターを隠し「ごめんね」と言って、相手が開けたままにしているカバンの中に落とし込んだ。
「どうも……」
相手である麗は、ポーカーフェイスの仏頂面。
「おばちゃん、カレーうどん、特盛りで二個」
美花は、喫煙の張り番をやってる生指の梅本からのツイタテになる位置でオーダー。
わたしは、食堂の外の一番端っこ。露天のテーブル、壁に向かった席でコーヒー牛乳を飲みながら、サンドイッチを流し込んでいた。食堂のサンドイッチは四角いままで、耳も切っていない食パン3枚の間に、いろいろ具が挟んである。これを3個食べると、食パン一斤半とランチのおかずをまるまる食べたぐらいの量になる。
「さっき、ありがとね」
直ぐ横、麗が美花を従え仁義をきった。
「ううん、わたしがぶつかったんだから、当然てか、自然にやっちゃった。梅本嫌いだし」
「亜紀、泣いてんの……?」
「え、ああ。ちょっとあって」
「……そっか。これも何かの縁だな、元同級のヨシミだ亜紀にだけは、お別れ言っとくよ」
「お別れ……?」
「うん、今日、美花と東京フケる」
「麗、言っちゃっていいの!?」
「亜紀はいいんだ。友だちだから……」
麗は一年のとき同級だった。そして同じ一年生だけの水泳部だった。
「先生、夏休みの部活のスケジュールたてたんですけど」
去年の夏、麗とわたしは顧問の長居のとこにスケジュール表を持っていった。
「いまじぶん持ってこられても困るよ。おれ、夏休みのスケジュ-ル詰まっちゃったから」
「そんな、じゃ、わたしたち夏休みにプール使えません」
プールの使用は、水泳部と言えど、付き添いの先生がいないと使えない。
「他の先生に頼めよ。オレだって、盆休み以外は、ほとんど組合の用事なんだから」
長居は、さも正当な理由であるように腕を組んでアゴを下げ、上目遣いになった。
「なに考えてんだよ。水泳部の顧問が、夏休みに学校に来ないなんて、マンガじゃんかよ!」
「オレは、おまえらのために組合とか研修とか行くんだ。そんな言い方される覚えはないぞ」
「目の前のあたしら、ほったらかして、よくそんなこと言えんな…………もう、あんたのこと先生だなんて認めねえからな!」
麗は、捨てぜりふを残して、行ってしまった。
「なんですけど、今のは先生が悪いです。今なら、まだ間に合います。放送で麗呼び戻してください」
長居はソッポを向いた。わたしはスマホ出して長居に押しつけた。
「ここ押したら、麗出ます。もっかい話そうって言ってやってください」
長居は、ヤンワリと、でもきっぱりと、わたしの手を払いのけた。
「決まったスケジュ-ルは変えられない。だれか、他の先生に頼め」
「だったら、先生やってくださいよ。わたし一年生だから、そんなに他の先生と親しくないんです!」
「授業で習ってる先生、いくらでもいるだろ。とにかく、オレはだめだ。以上」
長居は回れ右をして逃げ出した。わたしは、追っかけて長居の前に出た。
「しつこい!」
「先生、逃げないでください!」
「なんだと!」
「水泳部の顧問が、夏休みにプールに付き添わないなんて、無責任! で、いま逃げ出したのも卑怯です!」
「水沢!」
長居は、わたしの襟首を掴んだ。
「これって、体罰ですよ、先生……」
「ふ、そんなことだけ一人前に覚えやがって……」
長居は、怒りに手を振るわせながら、わたしのブラウスの襟首を放した。
麗は、廊下の端を曲がったところで、手洗いの鏡に写るわたしを見てくれていた。で、長居が襟首を掴んだところもシャメってくれていた。
「どうして、ダメなのよ!」
「ダメと言ったらダメだ。この程度で裁判なんか起こせるか。オレの立場も考えろ」
これが、お父さんの答えだった。で、黙って聞き流すのがお母さんだった。
去年のことを思い出し、あたしの決心は10分で決まった。
麗と、美花と、わたしの3人で、その夕方、東京をフケた……。
上からアリコ(^&^)!その19
『眼下の都は……』
婆さんと目が合った刹那、有子は、それを投げ上げた。
それは、紙とは思えない勢いで空中を駆け上がり、百丈(三百メートル)ほどの高さにいたると、花火のよう光を放って砕け散り、無数の光の破片となって地上に降り注いだ。
空に駆け上がる、ほんの一瞬の間に、千尋は、その紙に「千尋」と書かれていることに気づいた。テレビゲームで鍛えた動体視力が、それを捉えた。老婆には、その字までは見えなかった。
光の破片は地上に達するまでに人のカタチになり、地上に舞い降りた時には、その一つ一つが千尋の姿になり、本物の千尋を隠してしまった。
「おのれ、式神を使ったな……」
老婆は無数の千尋に取り巻かれ、息が上がり始めた。老婆は千尋の気を捉えようとしていたので、無数の千尋から放たれる「千尋の気」を一身に受け止め、しだいに気力が持たなくなってきたのだ。
「おのれ……こんな式神、今少し力が残っていれば見分けがつくものを」
「さあ、早く千尋の精気を吸い取りなさいな」
老婆にはその有子の声も届かなかった。いったん千尋に向けられた集中力は、とぎらせることができなかった。無数の千尋たちはその輪を縮めていき、その気を増幅させ、老婆に照射し続けた。
そして、千尋たちの輪が、五丈(十五メートル)ほどになったとき、老婆は膝を落とし、三丈ほどになると倒れ伏して動かなくなった。
千尋たちの輪の中で、老婆は骨と皮になり、皮はホロホロと骨から剥がれ、むき出しの骨だけが残った。
「終わったわ……これで、小町が復活することは二度とない」
そう言うと、有子は扇で一あおぎした。そのささやかな風は、小町の残骨をばらばらにして鳥辺野(とりべの)の方角に吹き飛ばしてしまった。
すると、式神の千尋たちもしだいに姿を消して、千尋は一人もいなくなった。
「もう出てきてもいいわよ」
有子に、そう言われ、千尋は有子の唐絹の裾から顔を出した。
「ウワッ!」
千尋は、思わず顔を引っ込めた。千尋は有子といっしょに都の上空をゆったりと飛んでいたのだ。
「せっかくこの時代に来たんだから、少しの間付き合ってね」
「先生、いつのまに夜が明けたんですか」
「一瞬の出来事のようだけど、八時間ほどかかったの。もっとも三時間ほどは千尋が目覚めるのを待っていたんだけどね」
眼下の都は、千尋が修学旅行で行ったころとは様子が違ったが、地形や、川の流れ、そして、将棋盤の目のような街並みで、見当がついた。
「わたしはね、糺之宮にお仕えしていた女官だったの。糺之宮は鋭いお方だった。世の行く末を心配されて、陰陽師の安倍晴明さまにご相談になり、世の行く末を見届けるために、永遠の命を望まれた。で、清明さまは海の神さまから特別に分けてもらった人魚の肉をお持ちになり、酒蒸しにしてお勧めになったの……」
眼下に見えた御所の位置が東に移動したような気がした。しかし、千尋は有子の話に気をとられていた。
「しかし永遠の命を持つということは酷なこと。人がみな歳終え老いていっても自分はそのまま、知り人が、みな死に絶えても、自分はそのまま、永遠の命とは永遠の孤独を受け入れること。でも糺之宮は、この日の本の行く末を見守り、その安寧を祈り続けることこそが、皇族の使命と……」
東山に沿って飛んでいくと金閣寺が見えてきた。平安時代に金閣寺はあったっけ……と、一瞬千尋は思った。
「宮は、直前になってためらわれた。しかし、いったん海の神さまからいただいた人魚の肉、食べなければ、災いが及ぶ……」
「災いって……?」
銀閣寺が見え始めた。
「あらゆる天変地異。地震や嵐、そして世の乱れ……それで、わたしが、宮の代わりにいただくことにした」
「それで、アリコ先生……」
「そう、平安の上つ世からの……上からアリコ」
そのとき眼下の都は、一面の焼け野原。雲雀(ひばり)が一羽、名乗り出るように現れて消えていった。なぜか涙が止まらない千尋であった。
「しかしね、食べる肉の量は、男女や、体格でずいぶん違うの。食べ過ぎると命がない……で、清明さまは、わたしの体格に合った量にしてくださった」
「残りの肉は、どうしたんですか?」
「卒塔婆小町にあげておしまいになった」
「卒塔婆小町……」
「そう、小野小町。あの人は、無惨なことに百歳の寿命を持って、その時代に、まだ生きていた」
「それが……」
「そう、あの長崎智満子。その前は稲井豊子……智満子の姿は、小町が、その若さを保てなくなる寸前の線香花火の最後の一光」
二人は、急降下していった。都は、昔のにぎわいを取り戻していた。御所の位置は、あいかわらず東に寄っていて、華やかな行列が見えた。色とりどりの甲冑に身を固め、馬もきれいに飾り立てた先頭に……織田信長?
「清明さまは、老いさらばえた小町の臨終に立ち会われ、この世の最後の思い出に、ほんの一時の花を添えてやろうとされた。そして、人魚の肉のひとかけらを口に含ませておやりになった。すると小町は、若い頃の輝くばかりの美しさをとりもどしたわ。その美しさは、清明さまに一瞬我を忘れさせるほどのもの。そして、死を覚悟した小町に欲が出た。このままの美しさで、永遠に生き続けていたい。小町は、清明さまの隙を狙って、残りの肉も口にした」
「じゃあ、小町も永遠の命を……」
「ええ、だけど、人魚の肉は鮮度を失っていた。使用期限の切れた薬のようなもの。永久の命を得たけれど、百年に一度、若い人間の精気を吸い取らなければ、その美貌を維持できない。そして千年の月日がたち、その頻度は、何十年。何年と縮まり、とうとう一度に何十人、何百人の精気を必要とするようになった」
「それで、街の人たちを……」
「そして……」
眼下の都は、いつのまにか二十一世紀の現代に戻っていた。逢坂山のトンネルを新幹線が通り抜けたところまでは、千尋の意識ははっきりし、有子の話も聞こえていた。「来る者は拒まず、去る者はいない」の「いない」は「稲井豊子」の姿をした小町を誘うため、校舎の尖塔に付けられた「有」の字の御札と共に、小町への挑発であった……そこまでは、覚えていた。そのあと、小首をかしげ、有子は自分の話をしたようだが、記憶は急速にあいまいになり、気が付けば目覚まし時計が鳴っていた。
目覚まし時計の日付は、連休明け二日目の、五月八日を示していた……。
つづく
秋物語り2018・1
『終わりの始まり』
入院していたということにした、三人とも……大丈夫かな。
そんな気持ちで学校に行ったけど、先生も友だちもなにも言わないし聞いてもこなかった。
もう、新学期に入って一週間になるという九月の二日から、わたしは学校に通い始めた。
季節の変わり目って、いつもドンヨリで気まぐれだ。
嫌になるほどジトジト降ったり、ゲリラ豪雨があったり、竜巻、落雷があったり。この九月の始まりは、個人的な環境までドンヨリの気まぐれの気配。
えと……あれは一学期の終業式の日だった……。
わたしも高二の夏なんで、そろそろ先を見越して、自分なりに進路のことを考えていた。
考えた末、リボンも襟首まで上げて江角に相談に行った。
「先生、進路のことで……」
「悪い、二学期か他の先生にして。あたし、これからカットビで出なくちゃならないから」
開けっ放しにしている江角のバッグにパスポートが覗いていた。ほんのチラ見だけなんだけど、江角は慌ててカバンの口を締めた。
「国外逃亡でもするんですか?」
軽い冗談のつもりで言った。
「亜紀に言われる筋合いはないわよ。個人旅行だけど休暇の届けも出してるんだから!」
まるで、秘密がバレタた子どものように、ツッケンドンだった。このところいろいろあるわたしは、いつになくしつこかった。
「集会で進路部長の片岡先生言ってた。進路は二年の夏休みから始まる。悩みや、迷いや分からないことがあったら、担任や、進路の先生に相談にいきなさいって」
「じゃ、悪いけど進路に行って。あたし月あけには帰ってくるから……」
「進学の吉田先生は出張、部長の先生は、担任とまず相談しろって言った!」
職員室の半分ぐらいが、シーンとしてしまった。
「……分かった。あたしが昼抜きゃ済む話だから」
振り返った江角の目は、因縁をつけられたスケバンのようだった。
「そこ、座って。で、どんな相談?」
江角は勢いよく足を組み、引き出しからカロリーメイトを出した。
わたしはムッとしたが、相談にのってもらう側なので、深呼吸して、言葉を改めた。
「手に職を付けようと思って、アニメーターの学校にいきたいんです。一応候補は……」
希望校の一覧をメモった手帳を出した。
「なんだ、入学案内とか持ってないの?」
「大事なとこはメモってあります」
大切なことはスマホなんかに落とさずにメモ。学年はじめに江角自身が言ったことだ。
「アニメの専門学校って、高いんだよ学費も諸費も。亜紀んとこ弟もいるんだろ」
「だから、奨学金を取れそうなところを……」
「バカね、成績とかなんとか、奨学金は条件厳しいんだよ。悪いこと言わないから、この夏に、よーく考えて、資料とか進路で見せてもらって、奨学金の取りやすい短大とか考えといで。チ、カロリーメイト湿気ってやんの。じゃ、みなさん、お先に失礼しま~す」
周りの先生は、愛想笑いをして江角を見送った。
「最低だ、こんな学校!!」
わたしはリボンをレギュラーなとこまで引き下げて職員室を飛び出した。
呼び止めるどころか、目線を合わせようとする先生もいなかった……。
上からアリコ(^&^)!その18
『千尋には手を出さないで!』
「千尋には手を出さないで!」
「やっぱり図星ね、この子を新しい寄代(よりしろ)にしようとしていたのね」
「ちがう、わたしは千尋に思いを伝えたかっただけ」
「有子、あなたが食べた人魚の肉が不十分だったことは分かっているのよ。あれから千年……ようやく、あなたも、その効き目がなくなってきたのよね」
「もう疲れたの、この世の移ろいを見続けることに」
「なにを殊勝げに……有子、あなたは永遠の命と若さが欲しいために、人魚の肉を食べたんでしょうが。わたしが食べた人魚の肉は、ほんのひとかけら。百歳の齢に息絶え絶えのわたしに、安倍晴明がわたしにくれた気まぐれのほんのひとかけら」
「ウソをおっしゃい。あなたは清明さまに取りすがり、残りの干し肉も平らげた……で、わたしと同じ永遠の命をさずかった。ただし百歳の卒塔婆小町の姿で、そのために、ときおり若い精気を吸い取っては、小野小町と呼ばれたころの若さを取り戻し続けている。餓鬼道に墜ちた外道よ!」
「確かに、わたしは、人間の精気を吸い取っている。ただ堕落した者だけをね。そして、その人間のDNAを修正し、ほんの髪の毛一本から新しく正しい人間として再生させ、この日の本の国を護ってきた。久しくそれも控えてきたわ……この国の人間たちの力を信じてやろうとした。でも……このテイタラク。わたしは再びそれを始めたのよ。久しぶりだから犬から試してみたけどね、力は衰えてはいなかったわ」
「あなたのやっていることは、間違っている。DNAを修正して再生した人間は、姿形だけがもとのままで、中身はまったく別な者になっている。体のいい殺人よ」
「お黙り!」
これらの会話は、平安時代の言葉でやりとりされたが、千尋には音声多重放送のように、現代語でも聞こえた。意識を集中している今(なんといっても、チマちゃんの姿をした小町に殺されかけているのだ)は、ほとんど副音声の現代語として聞こえていた。
起伏に富んだ野原が、巨大な人の胸のように脈打ち始めた。
この風景はアリコ先生とチマちゃんの姿をしたコイツの心理が相互作用してできてしまった心象風景なのかも……小町に踏みつけられながら、千尋は、そう感じた。上空や、透けて見える地面には、歴史の断片と、小町によって置き換えられた人たちの姿が明滅しながら、渦巻いていた。
「屁理屈は、そこまで。関根さんや、こんなに多くの人の精気を吸い取っておいて、なにが日の本の国を護るよ!」
アリコ先生は背後に迫った卓真に気を飛ばした。卓真は悲鳴をあげて吹き飛んでいった、手にした刀といっしょに。刀はくるくると旋回し、卓真の胸をさし貫いた。断末魔の声は、またたくうちに遠のいていってしまった。
「なんとでも言うがいい。これから、この千尋の精気をいただく。もう、おまえに寄代は無くなる……」
「おやめなさい!」
小町の口が、千尋の喉にくらいつこうとした、その時、ゴツンという音がして、チマちゃんの姿をした小町は横倒しになってしまった。
「千尋、早くそいつから離れるんだ!」
そう叫んだのは、もう一つ向こうの高みに現れたオジイチャンだった。
「阿倍野君!?」
「恭子さん……わたしの投石の腕は落ちてはおらんようです。この火炎瓶でトドメを……」
「そんなことをしても!」
アリコ先生が叫んだときには、火炎瓶は投げられ、見事に小町の足許で炸裂した。しかしその直前に小町は気を飛ばし、オジイチャンは、渦巻く旋風の中に吹き飛ばされ、姿が見えなくなった……小町は火だるまになってのたうち回った。そして……周りの風景が一変した。
そこは、川の中州のようなところだった。
両岸の河原には、ポツンポツンと火が見える……たき火だろうか、周りにはボロをまとった人たちが寄り添っているように見える。月明かりの下には見覚えのある山並み、お寺とおぼしき塔がいくつかシルエットになって見える。まるで大河ドラマの舞台のよう……?
「そう、京の都よ。千年ちょっと前の」
そう答えたアリコ先生は、平安時代の女房装束をしていた。
「アリコ先生!?」
「とんだ時代まで引き戻されたものね……これが、わたしの元の姿。糺之宮親王(ただすのみやしんのう)さまにお仕えしていた女房よ。心配しないで、小町とのケリがついたら元の時代に戻るから。それと周りの人たちは気にしなくていい。わたしたちの姿は見えていないから」
その時、川で大きな魚がはねた。それを目ざとく見つけたたき火の中の男が一人たき火を松明に、もう一人が尖った棒を持って、川の中に入ってきた。千尋は自分のところに来るような気がして、思わず身をひいた。男たちは千尋が十回ほどまばたきする間、魚と格闘し、見事にしとめると「イオ(魚)が捕れた!」と、歓声をあげて岸に戻っていった。
その間、直ぐ目の前にいる千尋たちにはまるで気づいてはいなかった。アリコ先生、いや有子は、なにやら紙に書き付けていたが、男たちに気を取られていた千尋は気がつかなかった。
やがて、中州の川上の方角から、一人の老婆がヨボヨボと近づいてきた。
「あのお婆さんもわたしたちのことは見えていないんでしょ?」
「いいえ……あいつには見えているわ」
有子の答えを聞いて振り返ると、プールの端ぐらいの距離に近づいたところで、千尋は、まともに婆さんと目が合ってしまった……。
つづく
上からアリコ(^&^)!その17
『千尋、あぶない!』
千尋には、なにが起こっているのかまるで分からなかった。
校舎やグラウンドは、バグったCGのように歪み、ねじれ、明滅しながら姿を消していく。残ったのはカフェラテのマーブル模様を千倍にこねくり回したような空間だった。そのこねくり回したものは、あらゆるところで刹那カタチになる。B29の大きな背中を零戦が機銃を撃ちながらかすめていった。思わず身をかがめたら、目の下に東京タワーの先端。そいつがグルーっと百八十度回転する。一瞬落ちたような気がして、ジェットコースターに酔ったような気になった。東京タワーの脚は何百台という戦車に変わって、それぞれ勝手な方角に走り去っていった。突然の炎、それが旋風となって、周りを真っ赤にした。熱いとは感じなかった。まるで、無重力の中で3Dの映画を観ているような……と思ったら、真っ赤な中から、炎の中心のような白熱したものが現れ、それが炎を吐き出している竜の口。アっと思ったら、千尋はその竜の口の中に飲み込まれてしまった。一瞬気を失った。
「起きて、眠っちゃだめ!」
アリコ先生が、襟首をつかんで千尋を放り投げた。今まで千尋がいたところに大きな手が虚空をつかんでいた。手の先を見上げると、彼方に稲井豊子の憎々しげな顔が見えた。
そして、世界は再びカフェラテのマーブル模様のこねくり回しになり、いろんなものが刹那カタチをしては消えていった。カタチの大半は、歴史の授業で見たような風景や事物であった。ダンスパーティー……入り口に「鹿鳴館」の文字。ニッコリ笑った笑顔が、なにか思いついたように、片肘ついて横顔に……太宰治……正岡子規……アリコ先生に見せてもらった肖像……が、動いている。と、思ったらその向こうに日本橋の浮世絵……いや、リアルに動いている。かなたの赤富士が迫ってきたと思ったら、その裾野を、騎馬武者たちが駆けている。
「千尋、あぶない!」
オジイチャンの声が切れ切れに聞こえてきた。騎馬武者たちは千尋のからだをすり抜けていく。怖くて目をつぶってしまう。
でも、目をつぶっていても、幾百、幾千の歴史の断片が、三百六十度、千尋のまわりでチョー早回しの3D映像で流れていく。
「じっとしてちゃダメ、動き回って!」
アリコ先生の声。上下の感覚は無い、無重力。夢の中のようでもあるが、そんなお気楽なものではない。三半器官がおかしくなって、気持ちが悪い。
時々、何者かの手に捕まえられそうな感覚。それは直前に分かって身をかわせるようになってきた。何者かの気配……それは、稲井豊子のそれ。稲井豊子の下僕となった人たちのそれ、もう、振り返っている余裕なんかない。
無重力の混沌の中を逃げ回る。関根が笑顔で手を差しのべてきたときは一瞬油断。しかし関根もさっき稲井豊子の下僕となってしまったことに気づき、慌てて身を翻す。
洞穴が見えた。
慌てて隠れる。同居人がいた……これは石橋山の合戦に敗れて、源頼朝の主従……これもアリコ先生に見せてもらった前田青邨の絵。頼朝と一瞬目があった。と、すぐに頼朝主従の姿は消えて、千尋一人になってしまった。
外では、あいかわらずアリコ先生と稲井豊子とその下僕たちがぶつかる気配。もう、千尋は逃げ回る気力を失っていた。ほんの何秒か、千尋は、魂が抜けたようになってしまった。
気づくと、外の気配が静かに……そっと、千尋は外を覗いた。
外は、起伏の多い野原になっていて、一つの高みにはアリコ先生が。もう一つの高みにはチマちゃんの姿に戻った、稲井豊子が肩で息をしてあえいでいた。アリコ先生が気を放った。チマちゃんは悲鳴をあげて吹き飛び。草原に叩きつけられた。
「チマちゃん!」
思わず、千尋は叫んでしまった。アリコ先生が、そしてチマちゃんがゆっくりとこちらを見た。
「千尋、こいつの目を見るんじゃない!」
アリコ先生の注意は一瞬遅れた。千尋はチマちゃんの息絶え絶えの目を見て、思ってしまった。
――かわいそう……。
「千尋!」
アリコ先生が叫んだと同時に、千尋は数十メートル離れたチマちゃんの足許にワープさせられてしまった。
「これで、勝負は逆転ね」
チマちゃん。いやチマちゃんの姿をしたそいつの声が耳元でした……。
つづく
上からアリコ(^&^)!その16
『全てを知っている』
アリコ先生を狙った銃口は、一瞬の後に斜め上方に向けられ、ごく普通の競技用ピストルのように鳴らされた。ただ、その銃口から実弾が発射されたことを除いて。
銃弾は、校舎の尖塔に付けられていたCDのケースほどの板を粉々に打ち砕いた。そして、ほとんどのモノが静止してしまった。空を飛ぶ飛行機や鳥さえも、まるで時間が止まってしまったように。綱引きをしている人たちも、力をいれた瞬間のまま静止していた。
――来るモノが来た――
アリコ先生はそう思った。すると、綱引きをしていた人々や、観客の中から一人二人と緩慢に体を動かす者が現れた。数十秒の間にその数は百人ほどになった。そのほとんどが緩やかに気を付けの姿勢になり、アリコ先生に正対した。
ただ二人、当惑の顔で、この状況を受け入れられないでキョロキョロしている二人がいる、生徒席にいる千尋とオジイチャンだ。
「動かないで!」
アリコ先生は、二人に向かってそう叫んだ。びっくりしたように二人は立ちすくんだ。後の言葉を続けようとしたら、銃を構えたままの下士官が口を開いた。
「この銃で、あなたを殺せるのならいいのですが、永遠の命を持ったあなたを殺すことはできない。あなたが自分で生きることを止めない限り」
――こいつ、全てを知っている――
「わたしも知っているわよ」
百人ほどの中の一人が口をきいた。
「「チマちゃん!?」」
マリコ先生と、千尋が同時に叫んだ。アリコ先生は千尋に向かって動かないように手で制止した。千尋は金縛りにあったように動けなくなってしまった。特別に術が掛けられたようではなく。威に打たれて動けないのだ。こんなアリコ先生は初めてだ。
「少し待っていてね」
千尋は、ゆっくりと綱引きの列の中で制止している女生徒の方に向かっていった。その女生徒は、バレー部の関根(その2で、千尋にバレー部に勧誘した三年生)に近づくと、彼女の肩に軽く手を置いた。
「やめなさい!」
アリコ先生の叫びは、下士官の冷めた声で止められた。
「あなたを殺すことはできないが、あの子は殺せますよ」
銃口は、千尋に向けられた。
「こ、これはどういうことだ!」
千尋のオジイチャンが観客席で叫んだ。もう一人の自衛隊員がオジイチャンに銃口を向けた。おののいたオジイチャンがびくりとして、後ずさりしようとすると足が動かなかった。ズボンの裾をナナが噛みついて放さない。
関根の体が透け始めた。そしてチマちゃん、いや、長崎チマの体がほのかに光り始め、少しずつその姿が変わってきた。
数十秒で関根の体は消えてしまい、チマの幼げな姿は、大人の女のそれに変わっていた。
「せ、関根さん!」
「い、稲井豊子……!?」
千尋とオジイチャンの体が一瞬動き、二人の自衛隊員はピストルを構えなおした。
「やっと、ここまで戻ることができた」
チマ、いや稲井豊子は手のひらのホコリを吹くようにフっと息を吹きかけた。すると、にじみ出すように関根の姿が浮かび上がり、直ぐに寸分違わぬ元の姿になった。
「これは、どういうことだ……」
オジイチャンが唸った。
「阿倍野君には説明しておくわね、それくらいの縁はあったから。本人に話してもらいましょうか」
「関根さんは……」
「元のわたしは消えたけど、わたしは生まれ変わったわ。この方の……小町さまの手に付いたわたしの汗からDNAを解析していただいて、より完全な関根敦子として蘇ったのよ。もう膝の故障も治って、また新しいわたしとしてバレーができるわ」
「わたしは、三十年ほどは長崎チマとして生きてきた。その前は稲井豊子だった。阿倍野君たちといっしょに学園紛争を楽しんでいたころはよかったんだけど、五十を過ぎたころに稲井豊子の体には飽きちゃって……だいいち、豊子の体はガンに蝕まれていたものね。そこで新しい魂をいただいて若返ったんだけど、自由にならないわ。羨ましいわね、こうやってパソコンのソフトのように更新していかなくてもいい、永遠の若さを持ったアリコ、いやさ羽仁恭子!」
「やっぱり、あんたはピンクのバニー……」
「いいえ、阿倍野君。こいつの正体は、藤原有子。上つ年、平安の古(いにしえ)より永久の若さを保ちつつ千年の長きを生きてきた化け物!」
チマ、いや、豊子。いや、小町は、パチンと指を鳴らした。すると、いままで、制止していた多くの人たちも、ムックリと動き出したではないか。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
アリコ先生の裂迫の気合い!
「フフ、九字護身法なんか、もう効かないわよ。この者たちは式神なんかじゃない。みんなわたしが更新した人間たちよ」
「もう、そんなところまで……次元を変えて話したほうがいいみたいね」
「話しじゃないわ、戦いよ。有子にトドメをさすためんのね!」
青空が、みるみるかき曇り、風が吹き、遠雷さえもしはじめた。
「「闘!」」
アリコ先生と小町が、同時に気合いをかけた。
まわりの風景が捻られるようにひずみ、しだいに暗雲の中にいるような気配になっていった。
つづく
上からアリコ(^&^)!その15
『ヨーイ、ドン!』
ドーン! と空に花火が上がり、運動会が始まった。
花火と言っても、青空の中なので光は見えない。その代わりに、たくさんのキンキラキンやギンギラギンといしょに、小さなパラシュートが撒き散らかされ、運動会に華やかさを沿えていた。
そう、運動会なのである。
正しくは体育祭というのだけども、千尋も美咲も、小学校以来の「運動会」という言い方の方が好きだ。
このY高校は、旧制中学のころから地元との結びつきが強く、いまでも「運動会」は地元の人にも開放され、この地域のオマツリの一つになっていた。ときどきお行儀の悪い他校生などが入ってくるが、地元の人たちの目が厳しく、「こら、なにやってんだ!」などと叱られるので、あまり大きなもめ事にはならない。
しかし、今日は、晴れ渡った空と同じぐらいに平穏で、もめごとの「も」の字もなく、午前の部が終わり、昼食休憩になった。
「チマちゃん。百メートル予選、トップだったわね」
「ありがとう、全力でがんばったから!」
千尋の声に、チマちゃんは元気に応えた。この一週間ほどで、チマちゃんは急速に元気になった。言葉も、こっちの言葉に馴染んでしまい、ほとんど長崎弁になることはなかった。ときどき無心にやっている「でんでらりゅうば」を除いて。
――まもなく、午後のプログラムが始まります。生徒、観覧者のみなさんは所定の席に戻ってください。
放送部と兼務しているカチューシャの美奈先輩の、かわいいアナウンスが流れた。
午後の部は、応援団の演舞から始まる。応援団といっても、正式なものではない。今時、応援団という部活は成立しないので、有志を募り、卒業生、それも昭和ヒトケタ生まれの大先輩の指導を受け、旧制中学のころと同じ両手に地元産(だった)大根を両手に持って、雄々しくも、コミカルに行われる。
次に、チアリ-ディング部の演技でさらに盛り上がったあと、クラブ対抗リレー。リレーといっても、それぞれのクラブのユニホームや、道具を持ったり、付けたりしてやるので、圧倒的に陸上部に有利。そこで、陸上部はタイヤ二本をひきずって走るというハンディーを課されている。まあ、リレーの名を借りた、クラブ紹介のアトラクション。
その後が、地元の人たちも参加しての大綱引き。戦前は地元の陸軍の連隊の兵隊さんが参加していた。戦後は沖縄返還を機に、陸上自衛隊の人たちが参加してくれていた。
ロープの強度制限のため、双方合わせて四百人に絞られた精鋭同志の対決だ。どこで借りたのかユルキャラの着ぐるみを着た人や、戦前の旧制中学の制服を着た人、AKB48のコスを着たオネエまで混ざっている。
ヨーイ、ドン! はいつの頃からか、自衛隊の下士官がやることになっていた。なんと言っても専門職、かけ声のタイミングや気合いの入り方が違う。
しかし、手にしているのは、競技用のピストルで、戦闘服姿の下士官の人とはミスマッチ。そのミスマッチが日本の平和を象徴しているようで、なんともホンワカであった。
「あれぇ……」
本部テントの中のアリコ先生は、下士官が高くかかげたピストルを見て違和感を感じた。かたわらの双眼鏡でアップすると……それは、ホンモノのピストルのように見えた。
すると、双眼鏡越しに、下士官と目があった。刹那、下士官はニヤリと笑ったような顔になり、銃口をハッキリとアリコ先生に向けた……。
つづく
高校ライトノベル・上からアリコ(^&^)!その14
『ちょっと、ついてきて』
「ふーん、そのナナって犬は、ころっと性格が変わっちゃったのね……」
アリコ先生は、新発売のドーナツの最後のひとかけらをもてあそびながら呟いた。
「ええ、それがね……ハムハム」
千尋は、二つ目のドーナツをほおばりながら、忙しくくりかえした。肩たたきのお礼を兼ねて、アリコ先生は千尋にドーナツをおごった。千尋は、ここんところの不思議な出来事をしゃべりたかったし、新発売のドーナツも食べたかったので、この学校近所のドーナツ屋さんに連れてきてもらった。
不思議なのは、千尋は「ドーナツが食べたい」と思っただけで、口に出して言ったわけではない。
「新発売のドーナツ食べに行こうか」
アリコ先生の方から言い出したのだ。けして「どうしても、新発売のドーナツが食べたい」と千尋の顔に書いてあったわけではない。でも、これくらいの不思議さでは驚かないくらい、不思議なことがおこりすぎてはいた。その不思議の最初がナナのことなのである。
アリコ先生は、最後のひとかけらを、お皿におくと、真顔で立ち上がった。
「ちょっと、ついてきて」
「ナナ、ナナ、ちょっと待ってよ、ナナ」
美咲は、ナナを夕方のお散歩に連れて出ていた。
あの家出から帰ってから、ナナはほんとうにいい子になった。散歩中に他の犬と出くわしても吠えなくなった。わざと道の真ん中でウンコすることもなくなった。むりやり自分の好きな方に引っ張っていくことしなくなった。交差点などにくると、ナナは美咲の顔を見る。そして、美咲が「うん」という顔をするのを確認して進路を決めていた。
だから美咲は、少し油断していた。直ぐ横を新型のハイブリッドカーが通っていったのに目が取られた。
美咲のお父さんは、お坊さんなので、檀家周りをするときに便利なように、軽自動車に乗っている。チマちゃんが、図書室の文芸部で「でんでらりゅうば」をやっているのを聞いて、美咲は自分の家の軽自動車を思い出した。「でんでらりゅうば」のCMでやっている、まさに、その車が我が家の車だったのである。
――あんな、ワンボックスのハイブリッドカーなら、家族みんなの他に、千尋や友だちを誘ってドライブができる。湘南の海沿いを、ゆったり江ノ電といっしょに走るのなんかいいなあ、と思ったりしていた。
で、ナナを繋いでいるリーダーを持つ手が緩んだ。
ナナは、それを待っていたかのように、美咲の手を離れ駆け出した。
「ナナ、どこへ行くのよ!?」
駆け出したといっても、好き放題という感じではなかった。まるで美咲を誘導するように、交差点や、曲がり角に来ると立ち止まり、美咲の姿が見えると「ワン」と吠える。と、言うよりは声を掛けて、先へ行く……。
気がつくと、町はずれの鎮守の森まで来ていた。
「ナナ、ここ鎮守さまじゃないの……それも、こんな奥まで」
ここの鎮守のご神体は、鎮守の森の奥つきにある楠の巨木である。樹齢は千年ちょっとといわれ、伝説では、小野小町が歳をとって、この町にたどり着き、住み着いたところがここになっている。小町は、世界三大美女の一人に数えられているが、その晩年は明らかではない。ただ卒塔婆小町といわれるほどに長生きし、不遇のうちに世を去ったことが、ほぼ定説になっており、京都には「小野小町百歳の像」などと、おぞましげなモノまである。
ナナは、やっと、そのご神木の根元で立ち止まった。
クーン……甘えた声で、ナナは美咲を待っていた。
「なによ、もう夕方だよ、たそがれ時だよ。こんな時間に、こんなところで遊ぶのなんてごめんよ……ん?」
美咲は、周囲に人の気配を感じた。森の中から、数十人の人が美咲を中心に、じわりじわりと寄ってくる。
「なによ、あなたたち!」
その人の輪は、美咲を囲んで二十メートルほどの円を描いて立ち止まった。
カー!
カラスが一羽、鋭い声を残して飛び去った。美咲を取り巻く人々に驚いたのか、その鳴き声で、みんなが立ち止まったのか、はっきりとしなかったが、美咲が気がつくと、楠の根方に一人の少年がナナを従えて立っていた。
「……卓真君?」
「こんな時間に来てもらってごめんね、美咲ちゃん」
山田卓真は、ナナの頭を撫でながら、言葉を続けた。
「なに、時間はとらせないから。ほんの五分ほどボクに付き合ってもらいたい」
卓真の言葉は優しかったが、なにか底知れぬ怖ろしさを感じさせた……。
「い、いったいなによ……」
美咲の声は、恐れとトゲをを含んでいた。ザっと音がして人の輪が、一回り縮まった。
「シッ」
卓真が、一声かけると、その人の輪は停止した。よく見ると、その人たちの中には、美咲の知っている人が何人かいた。卓真を学校に連れてきた婦警さん。クラスメートのヨッチン、カナちゃん。コンビニのレジの男の子、道路工事中のガードマンのおじさん。子どもの頃通っていたスイミングスクールのインストラクターのお姉さん……でも、なんか変だ。みんな視線は、美咲に向いているが、どこか虚ろで、リアルではあるんだけど、CGで作ったような違和感がある。インストラクターのお姉さんなんか水着で裸足のままというのも、大いに変だ。
「こいつらは人間じゃない。適合しないんで式神に置き換えてある」
「……なに、それ」
「ボクは式神じゃない。ちゃんとした山田卓真だよ」
「……うそよ。わたしが知っている卓真君とは様子が違う……と、思っていたけど、これで決定的ね」
「フフ、それは誤解だよ。ボクは卓真……ただし、生まれ変わった卓真って言うか、卓真のいいところを引き延ばして置き換えたものだけれどね。卓真であることには違いないよ」
ザワっと風が吹いて、森の木々といっしょに式神たちがそよいだ。
「やはり、美咲クンはすばらしい。今、木々や式神たちがそよいだのは、キミがおののいたからだよ。やはりキミは、ボク以上の適合者だ」
ナナが嬉しそうに、シッポを振った。
「ナナも喜んでいるよ」
「……まさか、ナナも!?」
「ナナは実験だったんだよ。上手くいったんで、今度は人間でやることになったんだけど、適合者が少なくてね」
「それで、卓真クンが……?」
「そして、次は美咲クン、キミの番なんだよ……」
卓真は、そう言うと、小さな鏡を取りだし、美咲に照らした。美咲は、そのバックミラーほどの鏡に写っている自分の姿を見つけた。とたんに、その鏡を中心として、周りの風景が捻られるように歪みはじめた。
「だめ、その鏡を見ちゃ!」
アリコ先生の声が響いた。
「ア、アリコ先生!?」
卓真は慌てているようだった。
「そこに居る千尋は……」
「オリジナルよ、わたしは、あいつのような真似はしないわ」
「そんな……話しが違う」
「美咲、離れて!」
反射的に美咲は、その場を離れ、アリコ先生の方に寄った。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
アリコ先生の裂迫の九字護身法の声がして、雷鳴、閃光が走り、式神たちはボロボロの人型の紙切れになり、卓真とナナは楠に叩きつけられて気絶してしまった。
「先生、これは……」
千尋も同じ思いだったが、声に出すことはできなかった。
「今おこったことは二人とも忘れてもらうわね。ただ、このことは、これで収まるわけじゃないから、あいつに対する結界を張っておくわね」
アリコ先生は、そう言うと、二人の頭に手をかざし、素早く呪文を唱えた。
気づくと、千尋は自分の寝床で目を覚ました。昨日、アリコ先生の肩を揉んで、そのお礼にドーナツをゴチになった……それからの記憶……あるにはあるんだけど、ボンヤリ屋の千尋には、少し不自然なくらいハッキリしていた。ドーナツ屋の前で先生にお別れを言って、帰る道すがら出会った人や車まで覚えている。隣のオバチャンとは、数日後に迫った運動会の話しをした。家の玄関には右足から入り、カバンを持ち替えて、右手でドアを閉めたこと、お母さんが「遅くなるんだったら電話ぐらいしなさい」と、キッチンでぼやいたこと、オジイチャンの皮肉なマナザシ。ま、そんなこともあるか。と、千尋は朝の支度にかかった。
美咲も同様だった。ナナをいつものように散歩に連れて行って、帰ってきた。もともと記憶力はいいほうなんだけれど、昨日の散歩以後のことには少し違和感があった。
「行ってきまーす」
玄関を開けると、ナナが目に入った。いつものように「いってらっしゃい」と言うように、行儀良く「ワン」と一声。一瞬「あれ?」と思ったが、通りに出て、少しスピードを出した自転車のチリリンというベルの音を聞いて、身をかわしたら、いつもの美咲に戻っていた。
ただ、鎮守さまの神主だけが、境内一面に散らかった人型の紙くず掃除に、誰に言うともなく文句を言ってホウキをせわしなく動かしていたのだった……。
つづく
上からアリコ(^&^)!その13
『なにか、心当たりあるの?』
「で、その答は?」
アリコ先生が、小首をかしげた。
カワイイ仕草なんだけど、アリコ先生が本気になったときのクセであることは、この物語の終わりのころに、千尋は気づく。
「答は、くちびるです」
「クチビル!?」
加藤先輩がすっとんきょうな声をあげた。
「大正解!」
アリコ先生の拍手につられて、部員一同も拍手した。卓真は、シオらしく照れている。こんな卓真を見るのは始めてだった。
「でも、どうしてくちびるなの?」
「え……あ、そんな気がしたんです。なんでだろう、先生の質問を耳にしたら、頭に浮かんできたんです。でも、訳は分かりません」
「……神さまが教えてくれたのかな。ま、いいや。わたしが解説するわね」
アリコ先生は一瞬眉根を寄せたが、にこやかにあとを続けた。
「千尋、くちびるを付けて『母』って言ってごらん」
「ええ……えと、ママ」
みんなが笑った。
「もう少しハハて音を意識して、言ってみて」
「えと……ファファ」
「そう、今の千尋の発音が正解。平安時代の人はハ行の発音ができなかった。エ段やイ段も苦手。それはちょっと前の沖縄の方言に残ってた。だから蛇のことを……」
「ハブって言うんですね!」美東先輩が先回りした。
「そう。ま、そんなこんなで、昔のことが分かるわけよ」
文芸部は、こんな調子だった。
主にアリコ先生が、文学の裏話的なことを話してくれて、興味を持ったものが作品を読んで感想を言い合う。
千尋が一番おもしろかったのは、『走れメロス』の裏話。
千尋が知っているメロスは、こうだった。親友セリヌンティウスのために、メロスは駆けに駆けて、王との約束の時間に間に合い、親友の死刑直前に間に合って帰ってくる。約束と友情の物語。
だが、この物語のモチーフはとんでもない話しである。
学生時代の太宰治は、友だちと連れだって、熱海かどこかの温泉宿に居続けでドンチャン騒ぎ。何日目かに、旅館の番頭が「とりあえず、ここまでの宿泊代を……」と頼みに来る。
「よしわかった!」
みんなが懐をさぐるが、みんなお互いの懐に頼りすぎ、全員のお金を集めても足りない。
そこで太宰は胸を張る。
「東京に知り合いの偉い先生がいる。その先生にお借りしてくるから、みんな待っていてくれたまえ」
太宰はたくさんのセリヌンティウスたちを残して東京へ……行ったきり帰ってこなかった。
残されたセリヌンティウスたちは、宿泊代のために、旅館でこき使われ、やっとの思いで東京に帰ってきて、太宰に詰め寄った。
「津島(太宰の本名)ひどいじゃないか!」
セリヌンティウスたちの怒りはもっともであるが、このときの太宰の答が、こうだ。
「君たちは、たかが待つ身だったじゃないか。待たせる者の苦悩なんか、わかるもんか!」
アリコ先生は、話しが上手い。まるでその場にいたかのように話してくれる。メロスはラノベぐらいしか読まない千尋でも小学校で習って知っていた。で、改めて読み直すと、小学校の時の百倍ぐらいおもしろかった。
その日、クラブが終わった後、千尋だけ残された。
「ごめん、千尋が学校から一番近いから、ちょっと肩もんでくれないかなあ」
「あ……いいですよ」
千尋は少しためらって引き受けた、あんまり自信はないのだ。アリコ先生の肩は、本当に凝っていた。特に左の肩が。
「ああ、効く効く~」
「そうですか、家ではヘタクソで通ってるんですよ」
「こういうのにも相性があるんでしょうね」
アリコ先生に言われて、千尋は自分を見なおすような気になった。
「卓真、ちょっと変だったでしょう」
「え、ええ。先生もそう思います?」
「うん、あれはただの変わりようじゃなかったわ。留置場に来た従姉妹の話も変でしたし」
「そうよね、自分から話しといて、最後は忘れてんだもんね……ウウ、そこそこ、効くう~!」
窓から、テニス部の声じゃなくて、黄色いチアガールの子たちの声が聞こえてきた。
「運動会、もうすぐですね。今日も部活の前に、体育委員会で打ち合わせやってたんですよ」
「昔は、運動会って秋の行事って決まったもんだったけどね……月日と腹のたつのは早いね」
アリコ先生は、ギャグを飛ばしながら、年寄りのようなことを言った。
「ねえ、千尋の身の回りで、卓真みたいにゲキカワしちゃった人の話なんか聞いたことない?」
「さあ……あ」
「なにか、心当たりあるの?」
「人じゃないんですけど……」
千尋は、美咲の家のナナのことを思い出していた……。
つづく……。
上からアリコ(^&^)!その12
『フフ、降参かな?』
下足室で靴を履きかえようとして、声をかけられた。
「今日は、クラブばなかと?」
「あ、忘れてた」
履きかけのローファーに足を取られて、つんのめってしまった。
「忘れとっとね」
楽しそうにチマちゃんが言う。
「体育委員会に出てたら忘れちゃった。チマちゃんも来る?」
「チマちゃん、軽音こっちだよ」
階段の上の方から声がした。
「あ、今から行くと。じゃあね」
どうやら、チマちゃんは、自分で居場所を探しにいけるようになったようだ。ちょっと寂しい気もしたが、それだけチマちゃんが学校に馴染み始めているということで、喜ぶべきだと思い直して、千尋は図書室に向かった。
「いんどぅれの、おほぉん時にかふぁ知らねどぅも、にょんご、こぅういあまたさんぶらいたまいける中に、いとぅ、やんごとぅなききふぁにふぁあらねんどぅも……」
――アハハ。
みんなが笑った。
「なんですか、それ?」
美藤先輩が聞いた。
「源氏物語のイントロのところを、平安時代の発音でやってみたのよ」
「なんだか、とってもゆっくりで、東北弁みたいですね」
カチューシャの美奈先輩が、思ったままを言った。
「そう、いいところに気づいたわね!」
パチンと指を鳴らして、アリコ先生。
「東北弁なんかに、昔の日本語の名残が残ってんのよ。いいこと、たとえば、濁音の前には、必ず〈ん〉が入るの。〈いずれ〉は〈いんずれ〉だし、〈にょうご〉は〈にょんご〉で、〈ゆうべ〉は〈ゆんべ〉てな感じ」
「あ、それ、うちのヒイジイチャン今でも言いますよ」
これは、部長の加藤先輩。
「でも、先生、なんで、そんな昔の言葉がしゃべれるんですか?」
この素朴な質問は、単細胞な分だけ鋭い千尋である。
「お勉強したからよ」
「でも、そんな昔の日本語が、どうやって分かるんですか?」
興味を持った千尋が食い下がる。
「いい質問ね。そういう単純な疑問好きよ。脳みそがシンプルでなきゃ出てこない質問」
「あ……それって、あんまし誉め言葉に聞こえないんですけど……」
頭を掻く千尋に、三人の先輩の笑いがおこる。
ちょうど、そのときテニス部の「がんばろー!」の声が、すぐ外のテニスコートから聞こえてきた。テニス部は試合が近く、「がんばろー!」にも気合いが入っている。
文芸部にテニス部ほどの緊迫感はないけど、先輩や千尋の目は、気合いの入った光があった。
「昔の資料で分かるのよ。例えば、桃山時代の日本語をポルトガル語に訳した辞書にね、屏風のことを〈BYONBO〉と書いてあるの」
アリコ先生がホワイトボードに書いた。
「……ビョンボって、読むんですか?」
「そうよ、それから、こんなことからも分かるの。平安時代のナゾナゾ、分かるかなあ?」
アリコ先生は、イタズラっぽく、四人の部員を見渡した。
――父には一度も会わず、母には二度あうものはな~んだ?
ホワイトボードには、そう書かれた。
「ええ、オヤジには一度も会わずに、オフクロには二度あうもの……?」
加藤先輩が腕を組んだ。他の三人も頭を捻った。テニス部の〈がんばろー!〉が、文芸部への応援に聞こえてきた。
「フフ、降参かな?」
アリコ先生が、勝ち誇ってにやついた時に、ドアが開いて声がした。
「その答、僕が言ってもいいですか」
みんなが振り返ったドアのところに卓真が真面目な顔で立っていた。
「卓真、キミは、懲戒も解けたし、もうわたしにつき合わなくってもいいのよ。それとも、純粋に文芸部に興味が出てきたのかなあ?」
「興味があるから来たんです。いけませんか」
無心な言葉だった。卓真には、もう皮肉でひねくれた印象は無かった。
「いいわよ……ただし『去る者はいない』は、分かってるわよね」
千尋がビビッた言葉を、アリコ先生は確認した。千尋は、もう、ビビリも後悔もなかったけど、卓真に、わざわざ確認するのが、少し気になった。
「答、言っていいですか」
「いいわよ。でも、答が正解だったら、入部は認めない」
――え!? その場のみんなが意外そうな、ズッコケたような顔になった。アリコ先生と卓真の目が一瞬鋭く絡んだような気がした。しかし、それは、ほんの刹那のことで、アリコ先生の次の言葉で千尋の、この感覚は消えてしまった。
「アハハ、うそうそ。卓真がずいぶん変わっちゃったから、ちょっとからかっただけ。どうぞ、答を聞かせてちょうだい」
卓真の顔がほころんだ。
「じゃ、正解を言います」
卓真が、少し大げさに息を吸い込み、みんなは、卓真の口元に注目した。
――ファイト!
タイミングよく、テニス部の張り切った声がした……。
つづく
上からアリコ(^&^)!その10
『そんな子、来なかったよ』
「わたしが、いてもいいんですか?」
アリコ先生からの携帯に、千尋はたずねた。
――ええ、本人が、そう言ってるから。じゃ、わたしが、ちょっと話した後で連れていくわね……あ、お祖父さまもご一緒でいいって。じゃあね。
アリコ先生は、けして大きな声じゃないけど、よく通る。オジイチャンは、アリコ先生の最後の一言を聞き逃さなかった。
「その卓真とかいうのは、どんなやつなんだ……!?」
興味津々のオジイチャンは、千尋に覆い被さるように聞いてきた。
五分ほどかけて、事のあらましを伝えたころに、アリコ先生は卓真を連れてやってきた。
「まあ、そこに座って」
「まずは、お詫びからです」
椅子を勧めたアリコ先生に遠慮……したのではなく、卓真は、きっぱりと言った。
「先生にはお詫びしたけど、君達にも迷惑をかけてしまったね。ごめん、誤ります」
卓真は六十度ほど頭を下げた。
「なかなか礼儀正しい青年じゃないか。千尋の話と、ちと印象が違うなあ」
「オ、オジイチャン!」
千尋は、あわててオジイチャンの口を封じようとした。
「阿倍野さんのお祖父さんでいらっしゃいますか?」
「そうだよ。これでも若い頃は修羅場をくぐり抜けてきたからね、人を見る目はあるつもりだよ」
「ありがとうございます」
卓真は、過不足のない礼を言って、うながされた椅子に座った。窓からの日差しが良いあんばいに壁に反射して、卓真の横顔を柔らかく際だたせた。それは初対面だと、とても好ましく、自然に見えたが、昨日までの卓真を知っている千尋には奇異に見えた。
「あ……やっぱり変にみえるかなあ、僕?」
「あ……いえ、そ、そんなこと」
卓真と同じだけの間を空けて、千尋は意味のない返事をした。
「変に見えるよね」
「うん、見える」
アリコ先生は、そう言いながら、卓真にお茶をいれてやった。
「すみません、藤原先生」
「フフ、昨日までは、アリコって呼び捨てだったのにね」
「それは、もう言わないでくださいよ」
「じゃあ、その変貌のあらましを、千尋にも言ってあげて」
卓真の話は、なんだか神がかっていた。
夕べ、祖父が従姉妹を連れて、留置所に面会にきてくれた。従姉妹とは五年ぶりだった。両親を事故で失って、荒れ始めてからは、祖父を除いて相手にしてくれる友だちも、親類さえもいなくなった。この一つ年下の従姉妹も、その一人で、卓真の意識の中では、とうに赤の他人であった。
それが、祖父の横で、しゃべりはしないが、ニコニコと頬笑み、二人の話を聞いていた。
面会が終わりに近くなったとき、衣類を差し入れてくれた。
「ケンカして、汗かいてるでしょ。お風呂は無理だろうけど、せめて着替えぐらいと思って」
そのときの従姉妹の眼差しは、今まで見たこともないような優しさに溢れていた。
「お、おう」
ぞんざいに返事だけはしておいたが、そんなものに着替える気などサラサラなかった。
留置所にもどると、なんだか寒気がして、従姉妹の言った通り、ケンカの汗が利いてきたのかと思い、差し入れの衣類に着替えた。少しラベンダーの香りがしたような気がした。そして……眠りに落ちてしまった。
朝、目覚めると、心がザワザワとしてきた。いや、このザワザワで目が覚めたのかもしれない。最初にやってきたのは、後悔と贖罪の念であった。
――なんて、オレは……僕はイヤな奴だったんだろう。
世界中に謝りたい気持ちになった。
「おまえ、どうしちゃったんだよ……?」
看守の巡査に声をかけられて、初めて気づいた。制服をちゃんと着て、床の上で正座をしていた。
「俺が、日勤についてから、おまえずっとそうやってるぞ。朝飯食えよ。ほら……」
「ありがとうございます」
素直に礼を言う自分に、少しだけ驚いたが、直ぐにそれが自然に思えてきた。
朝食をとるため、差し入れ口まで、立って、ほんの二三歩歩いてみたが足も痺れていない。正座なんて、ここ何年もやったことがないのに……でも。箸を持ったときには自然に納得できた。
そして、調書をとられたあと、直ぐに保釈になった。
祖父が迎えにきてくれた。祖父一人だったので、夕べの従姉妹のことを聞いた。
「なに言ってんだ、夕べは俺一人。あの子らはお前のこと毛嫌いしてっから来るわけねえじゃねえか」
「え……」
刹那、そう思ったが、すぐに「そうだったんだ」と納得していた。
そして、卓真の説明が終わったあと、千尋は、もう一度聞いてみた。
「で、その従姉妹の子は?」
「え……なんの話?」
「だから、差し入れに来てくれた従姉妹の子ですよ」
「そんな子、来なかったよ」
オジイチャンといっしょに、千尋は「?」という顔になった。
アリコ先生は、平然とした顔をしている。糺すの森のお香の匂いが強くなったような気がした。
「で、保釈になったのに、なんで覆面パトが付いてるんだね」
警察にはうるさいオジイチャンが聞いた。
「ああ、これから怪我をさせた相手に謝りにいくんです。またケンカになっちゃいけないんで、警察の人が付いてきてくれているんです。じゃあ、これから、そっちの方をまわりますので、これで失礼します」
そう言うと、卓真は立ち上がり、再び礼をすると部屋を出ていった。
「警察は、これに便乗して、不良グル-プに釘を刺しておくつもりでしょうな……」
したり顔で、オジイチャンは呟いた。千尋はアリコ先生といっしょに窓から、玄関の車寄せに目をやった。
「あ」
思わず声が出てしまった。
「千尋も気づいた、あの私服の婦警さん、影が薄いでしょ」
そう言われれば、中年のオバサン(警察だったんだ)の影は、その側にいる刑事さんの影の半分の濃さも無かった。
しかし、千尋が声をあげたのは、そのことでは無かった。
また、チマちゃんのあれが、切れ切れに聞こえてきたからである。
――でんでれりゅうば出てくるばってん、でんでられんけん、出てこんけん……。
これは、アリコ先生にも聞こえてはいなかったようだ……。
つづく
上からアリコ(^&^)!その九
『その香り……糺すの森』
「うーん……」
部屋着に着替えてリビングに行くと、オジイチャンが、短冊片手に唸っていた。
「どうかした、その短冊?」
千尋は、冷蔵庫から牛乳のパックを取りだした。そして、コップに注いで、最初の一口をグビリとやったところ。で、オジイチャンが叫んだ。
「これは、羽仁恭子の字だ!」
千尋は、むせかえってしまった。
「ゲホ、ゲホ、びっくりするじゃない、オジイチャン」
「千尋、この短冊、どうした?」
「いま着替えたとこなのに、トレーナーが牛乳だらけダヨ……ったく」
千尋は、また着替えに、部屋に戻った。着替え終わって、ドアを開けた。
「ワッ! 何回ひとを驚かせんのよ!?」
開けたドアの真ん前にオジイチャンが立っていた。
「この短冊だ!」
「それは、部活の顧問の先生にもらったの」
オジイチャンの前をすり抜けて、冷蔵庫の前に飛び散った牛乳を拭きにいった。
「これは……その先生は、なんて名前だ?」
「藤原有子だよ」
それから、オジイチャンの質問攻めに遭った。
で、明くる日、オジイチャンを学校に連れていくハメになった。無論いっしょに行くわけではない。あらかじめアリコ先生の都合を聞き、OKが出たので、放課後やってきたオジイチャンを先生がいる司書室に連れて行った。
「似ている……」
オジイチャンの第一声。
「千尋ちゃんの、お祖父さんでいらっしゃいますの?」
「はい、阿倍野道明(どうめい)と申します。道に明るいと書きます」
「似てらっしゃるわ……」
アリコ先生は、お茶を入れながら、唄うように、楽しげに言った。
「わたしがですか?」
「フフ、そうですよ」
早くも、オジイチャンはアリコ先生のペースにはめられそうになっていた。いつも押し出しの強いオジイチャンなので、千尋には驚きだった。よく見ると、お祖父ちゃんの目には、千尋が今までに見たことのないトキメキが息づいていた。
「誰に似ているのですか?」
「安倍晴明さん」
「あ……」
オジイチャンは、隠れんぼをしていて、一番に見つけられたような子のような顔になった。
「どうかなさいました?」
「ゲホ、ゲホ……これは失礼」
オジイチャンは、お茶にむせかえった。千尋はざまあみろと思ったが、こんなオジイチャンを見るのは初めてだったので、おもしろかった。
「我が家には家系伝説がありましてね、わが阿倍野家は、大阪に土着した安倍晴明の子孫だと言われております」
「え、そうだったの?」
千尋には初耳だった。
「いや、単なる言い伝え。迷信のたぐいなので、千尋には言ったこともありません。そういうのは、わたしの趣味にあいませんのでね」
「でも、似てらっしゃいますよ。一見穏やかそうで、自我が強そうなところ」
先生は、安倍晴明の友だちのようなお気楽さで言った。
「あ、無論、『占事略決』なんかの古文書からのイメージですけど」
「は、はあ……」
オジイチャンは、額の汗を袖で拭った。オバアチャンに叱られる、オジイチャンのクセである。
「フフ、で、わたしは誰に似てますの?」
「あなたは、ひょっとして羽仁恭子さんの娘さんか、お孫さんじゃないですか!?」
「いいえ、わたしは両親ともに藤原。いとこ同士の結婚でしたの」
「しかし、よく似てらっしゃる……」
「羽仁恭子なら、少しは知ってます。前世紀の七十年安保闘争や学園紛争で名前をはせた羽仁恭子、通称ピンクのバニー」
「ええ、帝都大保田講堂の激戦の最中に姿を消した、革アル派の女性闘士でした……ほら、この写真の、中央右の人物です」
千尋は、例の写真かと思った。ゲバ棒持って、ヘルメットにタオル。人相なんて分かるシロモノじゃ……なかった。少しピンぼけだけど、バリケードの片隅で、腕を組んでいるショ-トヘアーの横顔。確かに、アリコ先生の面影がある。
「この写真は……?」
「こっそり撮ったんです。むろんフィルムは、保田闘争の前に隠しましたが」
「なんのために……?」
「保田闘争の敗北は、民声派の全学バリケード封鎖反対のときに覚悟していました。でも、僕たちが生きて信じてやったことの証を残したかったんです。マル機に捕まって、年月がたてば、自分自身の覚悟や想いなんて、すぐに変質してしまいますからね」
「でも、なぜ羽仁恭子を?」
「……惚れていたんでしょうな。あのころは、記録の一部と割り切っていたつもりでしたが、このピンのぼけかた。ドキドキしておったんでしょう」
いい香りがしてきた。気が付くと、アリコ先生の机の上にお香が焚かれて、淡く香りが漂っていた。
「糺すの森ってお香……いい香りでしょ」
「なんだか、リラックスしますね。オジイチャンの話しなんて、ふだん五分も辛抱して聞けませんからね」
「フフ、だと思って」
アリコ先生は、そう言ったが、千尋はオジイチャンの気持ちを落ち着かせるためだと思った。それにしても、いつの間に、お香なんて焚いたんだろう。部屋に入ってきたときは匂っていなかったように千尋は思った。
「……わたしは、保田講堂が落ちる前に羽仁さんだけは逃がそうと思っていたんです。他の同志も口にはしなかったが、同じ思いだったと思いますよ」
「いい人だったんですね。羽仁恭子さんは……ところで、稲井豊子という女の人はご存じありません?」
「ああ、稲井君なら……」
オジイチャンが言いかけたとき、司書室の電話が鳴った。
「はい……警察の方……玄関の前に。分かりました」
「先生、ひょっとして卓真……さんのこと?」
「おそらくね、ちょっと失礼します」
先生は、急いで、しかし優雅に部屋を出て行った。糺すの森の香りが強くなったような気がした。
千尋は、持ち前の好奇心で、窓から玄関のアプローチの方に目をやった。
そこには、覆面パトカーを前にして、刑事とおぼしきおじさんと、中年の女性……そして卓真が立っていた。
お香のせいだろうか、千尋には、卓真のトゲトゲしたオーラが感じられなかった……。
つづく