前回の「大成有楽不動産のペテン体質」において、私が住むマンションでは経済性を無視した意思決定が行われていることを述べたが、本稿ではその非経済的要因とは何かを論じる。
5年前、私がこのマンションに入居した時、数々の問題点があることに気づいた。そして、それらの問題点を管理組合の総会で話題にしたが、まったくらちが明かない。その理由は、総会の役割は理事会が提出した議案にイエスかノーかの決を採る事であり、議案に書いてないことは総会で決めることはできないからである。
そして、議案を決めるのは実質的には管理会社であり、理事会はほとんど管理会社の指示通り動いているに過ぎない。もっとも、この傾向は当マンションだけのことではなく、大多数のマンションに共通することである。
そこで、改善を実現するには自分自身が理事になるしかないと考えるに至った。幸いにして、組合員に二人の賛同者(A氏とB氏)を得た。しかし、私には問題点があった。それは、私の区分の法的所有者は家内であり、私ではないこと。管理規約によれば、区分所有者でないと理事の資格がない。だから、いったん家内に理事になってもらい、配偶者を理事の有資格者にするように規約を変更して、その後に私が家内と交代して理事になる作戦を立てた。そして家内に次の理事に立候補するよう説得した。一方、A氏にも同じような問題があり、立候補できない。やむをえず、B氏と私の家内だけが次の役員に立候補することになった。理事は3人だから1人足りないが、それは理事会がなんとかするだろう。
こうして、次の総会の議案に2名の立候補者(B氏と私の家内)の理事選任の件と記された。ところが、なんとその議案が総会で否決されたのである。善意の立候補者を理由もなく否認するとは、とんでもない暴挙だ。
そして、後日改めて前理事長(C氏)と他2名(D氏とE氏)が立候補し、臨時総会でその3名が理事に選任され、前理事長のC氏が理事長として留任することになった。明らかにだれかが裏で動いて、B氏と私の家内が理事になることを阻んだのである。
では、なぜB氏と私の家内(実質的には私自身)が排除されなくてはならなかったのか。あくまで私の推測に過ぎないが、私とB氏が総会において活発に意見を述べたことが古株連中の気に障ったということだと思う。すなわち、「新入りのくせにでかいツラするな」ということである。
昔の村落では、住民全員が生活共同体を構成していたから、異端者は村八分にされ、日常生活に支障がおきた。その村八分に似たことが当マンションで起きたのである。本稿ではそうした閉鎖的精神構造を「ムラ社会」と呼ぶことにする。
ちなみに、前回述べた私の「機械式駐車場廃止」案を取り上げなかったのは、前理事長C氏の後任として理事長に選任されたD氏である。D氏は組合が私の家内(とB氏)の代わりに選んだ二名の理事の一人であるから、D氏は心情的に私の提案を取り上げるわけにはいかなかったのだろう。
それ以降も、私のいくつかの提案はすべて無視された。改革とはそれまでの慣習を打破することであり、現理事たちおよび元理事たち(総会出席者の中には元理事が何人かいる)のメンツを潰すことになるからだ。また、組合という「ムラ社会」では、一般組合員は他の構成員に反対して恨まれることは避けたいという意識が働く。
B氏と私の家内の理事就任を阻んだのも、「ムラ社会」意識である。そして、その底流には、聖徳太子以来今でも日本社会に根強く受け継がれている「和」の精神がある。「ムラ社会」では、損得勘定よりも「和」が優先されるのだ。
都会では「ムラ社会」意識は希薄だが、地方では今なお“他所(よそ)者排斥意識”が強固に残っている。町会であれ村会でもあれ、またPTAの会合であれ、出席者はボスの意向に従う。一見多数決により、円満に合意が形成されたように見えても、実態はそうではない。これが地方における多数決の現実である。