冨田渓仙のお軸を仕入れさせていただきました。
絹本、共箱 「洛西 花能寺図」
各季節、「花の寺」と呼ばれるお寺は京都には沢山ありますが、桜といえば、洛西 天台宗 勝持寺。
鳥羽上皇に仕えていた北面の士、佐藤藤兵衛義清が保延6年西暦1140年、この寺に於いて出家し、西行と名を改めて庵を結んだのも
この場所です。
西行は、隠遁の生活の慰めとして一株の桜を植えて吟愛したと言われ、世人はその桜を西行桜と呼ぶようになりました。
西行の桜好きはご周知の通り、また「西行桜」というお能も大変有名です。
都の外れ、西山にある西行の庵は桜の美しいことで有名でした。毎年、花見の客が訪れ、にぎわうのですが、庵主の西行は、静かな隠遁生活が破られることを快く思わず、能力(従者)に花見を禁止する旨を周知させるよう命じます。ところが、禁止令を知ってか知らずか、都の花見客が訪れ、案内を乞うてきました。西行も無下に断れず、庭に入るのを許します。
しかし静かな環境を破られてしまったという思いから、「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜のとがにはありける(花見を楽しもうと人が群れ集まることが、桜の罪だ)」と歌を詠みました。
その夜、西行が桜の木蔭でまどろんでいると、夢の中に老人が現れました。老人は、草木には心がないのだから、花に罪はないはずだ、と先ほどの西行の詠歌に異議を唱えてきます。西行は納得し、そういう理屈を言うのは、花の精だからであろう、と老人に語りかけました。老人は、自分は老木の桜の精であり、花は物を言わないけれど、罪のないことをはっきりさせたくて現れたのだと明かします。桜の精は、西行と知り合えたことを喜び、都の花の名所を紹介し、春の夜の一時は千金に値すると惜しみながら、舞を舞いました。
やがて時は過ぎ、春の夜が花の影から明け初めるなか、西行は夢から覚め、桜の精の姿は、散る花とともに静かに、跡形もなく消えていきました。
お軸の向かって右側に描かれた桜の大木が、西行桜。
勝持寺の鐘楼堂の横の西行桜は現在、三代目に当たるそうです。
渓仙の才能は、横山大観をして「千人に一人の逸材」と言わしめたことで良くわかりますが、
この「花の寺」という作品では特に、渓仙の思想、世界観を十二分に楽しむことができると思っています。
禅画、仏画にもその研究を広げ、旅にその生涯を費やしたとされる渓仙が、西行桜、つまり出家した西行の心境について
想像できなかったことはないだろうと考えています。
「桜に託す西行の思い」に寄り添うということです。
けれど、渓仙はあえて「桜を植えた西行の心」にはここでは触れず、
どちらかというと、先ほどの能の「西行桜」に現れた老木の精の心境に近い立場でこの作品を描いたように思えるのです。
夢に現れた老木の精は西行に
「非常無心の草木に浮世の咎はなし」と言い、「煩わしいと思うもまた人の心」と伝えます。
桜という春の花に、人の一生を重ねてみてしまうのも独りよがりな人の心。
人が人の世を煩わしいと思ってしまうのも、また独りよがりな人の心。
(冨田渓仙)
冨田渓仙の答えはいつも明快です。
桜の季節にもまだ咲く「椿」の赤の明るさと可愛らしさ。
ただひたすらに咲いて、次々に散っていく桜の季節はまだ肌寒く、
その大木の元には小さな焚き火を囲んで、子供と母親(今の私の心境からすると
これは孫たちとおばあちゃんであってほしいのですが)が微笑ましく描かれています。
桜は桜。
何千年を生きる大木のもとにあって、結局人は小さな小さな営みを繰り返し、
ほのかに温かい情愛を交わすのみ。
けれど、その微かな愛情、温かみこそ、人を人たらしめる答えそのものなのではないでしょうか。
軸の上方から下方へ。
西行はここに?と思えるような、幽玄な春の空と月。
遥かな山の優しい稜線。
西行桜の逞しい枝振り。
リズムを持って描かれる寺の屋根と塀。
そして、椿と桜並木。
人。
渓仙の作品の世界に触れ、心を奪われてしまうと、もう他の作品を持とうという気にはなれないというのが
本当のところのような気が致します。
喉から手が出るほど、私の欲しい作品ですが、これを持ってしまうともう全く仕事をしなくなってしまいそうなので
我慢をしなくては!と思っています。
ソメイヨシノのちり急ぎ〜5月にかけて、また展覧会ができれば良いと思っています。
渓仙の作品もいくつかご覧いただけるように頑張ります。
冨田渓仙 軸 「洛西 花能寺図」 絹本 共箱
東京美術倶楽部鑑あり ☆彡
大きさ 127.4×35.4㎝
軸全体 212×54.5(軸先)㎝