つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

お納めのあとで  長文なので、お時間のお有りの時におよみください。

2025年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
年末にお立ち寄りくださいましたお客様、といってもいつもの後輩のKさんですが、私のお願いに応えて少し前にメールをお送りくださいました。

お納めいたしました山口薫の作品についてです。(上の画像の作品です)

もう少し早くご紹介させていただくべきでしたが、もう~素晴らしい内容で~
私が書かせていただきます記事が霞んでしまうような嫉妬を覚えましたので(;'∀')タイミングを見計らっておりました。

私自身も山口薫について書かせていただくのは、今週が最後になると思いますので、総決算としてKさんのお便りにご協力をいただきますね。


昨日はお邪魔しました。
年納めに薫を観ることができ、嬉しかったです。

お話の中で、「今回の展覧会で薫作品を求めた人達の感想」が気になるとのことでしたので、お話のついでにこちらに書かせていただきます。

個人的な見方にはなりますが、私は画家というのは眼の前の対象にフォーカスする上で「本質追求型」と「自己投影型」に分けられると思います。これには一定のグラデーションが掛かっているので、例えば鳥海青児は前者より、森芳雄はどちらかといえば後者、山口薫は後者よりといった感じでしょうか。
もちろん画家である以上、描く対象は大事でそこに集中しているのはみな同じだと思いますが、対象の本質に迫るというところをシビアに突き詰めるのか、それとも対象に自己投影するのかでは、資質的な面からするとかなりタイプが違うように思います。
鳥海青児は質感やフォルムに対する執拗なこだわりを感じます。晩年に縄文の埴輪などを対象にしたのは、単に骨董コレクターである側面を超えてのことでしょう。
森芳雄の主な対象は人物。よりプライベートな領域に入ってきます。
山口薫は作品や時期によるかも知れませんが、安直な言い方をすれば詩的な叙情性に溢れています。

この作品には「辻中君思い出の庭 思い出の山」とあるように過去の思い出を投影しています。辻中君は大切な親友であったと思いますが、これを描いたきっかけが何であったのか私には分かりません。ただ現実から目を背けたくなるようなときに、何か良い思い出を回顧したり、ノスタルジーに浸りたくなるのでしょう。
青春時代は無防備に人を信じたり恋したりできる唯一の時間。そんなときに色々なことを共有できた親友というのは薫にとってかけがえのない存在であったでしょう。
そのノスタルジーを画面に丁寧に投影しています。とてもプライベートな絵ですが、どこか甘美な思い出は静かに青いマチエールに溶けて静かに佇んでいます。

戦前に三年ほどパリに滞在して、本場の絵画に触れて多くの画家の個性を目の当たりにした薫は何を感じたのでしょうか。
自己を投影しつつも観るものを脅かさない。それが薫の個性であったように思います。

「多情なものは今の時代に合わない」というのはその通りだと思います。いわゆる芸術家はいろいろなものを犠牲にして作品を残します。その一方で倫理的な面で問題を抱える人もいました。薫の場合はお酒でしょうか。作品はそうした行為に対する免罪符的な面もあったと思います。
しかし今の時代はそれを許しません。だからこそ多情な作品を残すことには大きな意義があるのでは思います。


いかがでしたでしょうか。
鳥海、森芳雄、山口薫についての分析はさすがだなぁと思い、とくに山口薫についての自己を投影しつつも観るものを脅かさない。それが薫の個性であったように思いますという一文には感心をいたしました。

確かに、この観る者をおどかさない。或いは侵さないというところにこそ、山口薫作品の本質があり、私はこの数か月その事ばかりを考えてきたのだろうと思います。

つまり、自己投影の入り口から、芸術の本質である美の真理へ。
「私」から「普遍」へ。

まさにそれが、日本近代芸術の抱える最大の問題であり、山口薫は独り、果敢にそれを模索した画家であったように思うのです。(もしかしたら、森芳雄も同じであったかもしれず、成功したかはわかりませんが、彼の場合もっと極端に細い道のりを選んでいたのかもしれないと思いました)このことについては、先の芸術新潮の中で居松篤彦さんも「山口薫は少女や馬、牛といった題材を、具象と中小の絶妙な間で抒情とたたえつつ表現しています。画壇にも欧米の美術動向にもおもねらず、日本人としての知性と独自性を持ち、自ら道をきわめた作家の一人と思います」と述べられています。

さて、Kさんの文章の中の「多情なものは時代に合わない」とありましたのは年末ご一緒にお話をさせていただくなかで確か私がお伝えした言葉だと思います。

ちょうど、私が今信頼している作家さんが「今の日本のエリートたちには感情というものが感じられない。むしろ、それを軽蔑し、情緒を断ち切ることが上等だと思っている。全くいやになる」というようなことをおっしゃっていたのを覚えていたからだと思います。


前の記事の「自転」につながることだとも思いますが、近代日本絵画のお値段が下がってきたことにはそれなりの意味があり、情緒、芸術性を本当に理解できるのは、もはや想像の乏しい正義感のみに突き動かされている政治、経済界に君臨する方達ではなく、生活をする大衆、市民の私たちであり、その方達のもとに作品たちが納まってゆくことが自然であるからではないのか?と考えはじめていたのです。

今は皆疲れてしまっているといえばそれまでかもしれませんが、日本って「情 なさけ」の国ではなかったのかな?と時々思うのです。




だらだらと本当に長くなってしまい失礼申し上げました。

山口薫の作品の本当の素晴らしさは、一緒に暮らしてみて初めてわかる。
という実感をきっとKさんはお持ちくださったのだと大変嬉しく思い、お正月の間、私も再び生活と芸術について考えることができました。

決して山口薫、近代日本絵画の魅力についての結論には至りませんが、その途中経過として記事を書かせていただいたことを幸せに思っています。

おつきあいいただきありがとうございました。





















コメント
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