昨日は、どうしても観ておきたかった須田国太郎の展覧会に出かけてきました。
確か何年か前、佐橋が入院していた間に一人で碧南まで出かけたはず!
ご遠方からの皆さんだって行かれるのだもの、いくら方向音痴の私でも大丈夫!
と自信をもって出かけたのですが、早速乗換の刈谷駅で右往左往、googleに出てくる三河線って名古屋鉄道の線なのだと初めて知りました。知らなすぎ?
それにしても、佐橋とお別れしてからは、いままで以上に頭をさげることが多くなりました。
「まぁ~ありがとうございます」
「あのーすみませんが~」
「あっ、ごめんなさい」
多用し過ぎて、もはや発する言葉に心がこもっていないような気がいたします。反省⤵
碧南駅に着いてからの道のりは何となく覚えていましたし、近いので大丈夫だと思っていましたが、結局少し遠回りしてしまいました。
といっても、私はいつものように美術館の1階のカフェで酵素玄米をいただきました。自宅の炊飯器も酵素玄米炊き専用ですが、少し時間がかかるので面倒でこの頃なかなか作れません。酵素玄米は、お腹を綺麗にするので時々食べると体調がよくなります。
昨日はそういう方向音痴全開の日だったのですかね?この記事も横道に逸れました。
須田国太郎展はとても良い展覧会でした。
私にはあの大阪の佐伯展以来の大掛かりな展覧会鑑賞になりましたが、見応えがありました。
特に展示の第二、第三章は須田国太郎という画家をより身近に感じられる工夫がなされていたと思います。須田の撮影した写真にも見入りました。
ただ絵を見ているだけでは、須田国太郎の作品は随分遠く感じられるものだと思います。ある種の鈍さが須田作品の素晴らしさとなり、また鑑賞者を遠ざけるのですね。
「鈍さ」と言うと、選ぶ言葉が悪いのかもしれませんが、西洋絵画の古典的技術を学び、東洋人である自身の観念の世界の表出に努めた須田のその作品に、一貫して流れる「風格」はやはり須田国太郎という画家独自の世界観であると思えます。
けれど、またそこに「動き出してしまう心」を求めるのも鑑賞者の常であるように感じられてなりません。
大阪の佐伯祐三展で、佐橋の体調への心配もあり、その作品の哀しさに心がパンクしそうになって会場を後にした半年前。
名古屋の都会から小一時間電車に揺られ、あっという間の「地方」である碧南に須田国太郎展を訪ね、その風格に圧倒されながらも「もっと感動を」とせがんでいる今。
ふと今年の私はどこにいたのだろう?いるのだろう?と立ち止まります。
なぜ須田国太郎はもっと人物を描かなかったのだろうかと、ときどき展示に登場する人物像に感動しながら、そんなことを思っていました。
とくに幼いころから親しんだといわれるお能の登場人物を描いた作品は本当に素晴らしいものでした。
そして私にとっての須田の最高作品はやはりこの大原御幸です。
風景画に感じるあの風格、重厚さの扉を突き抜けて、真心に迫るものを感じます。
須田国太郎展はこの碧南を皮切りに大分、兵庫、広島、最後の東京世田谷美術館さんまで巡回される予定だとお聞きしています。皆様のお近くで開催されるようでしたらぜひお出かけいただきご感想をお寄せいただきたいと思います。
そうです!この東海海地方のみなさまもどうぞご感想をお寄せくださいね。
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