昨年は直前の腰痛で参加できなかった中山道ウオーク、今年は節目
となる第10回を迎えた。今回は3月28日(土)に京都・三条大橋をスタ
ートし、4月13日(月)に軽井沢までの前期コースである。
私は4月1日から4日までの区間参加で、関ヶ原宿から大井宿(恵那
市)までを歩いた。岐阜県南部、美濃地方を西から東へ、ほぼ横断した
ことになる。
==============================
2009年4月1日(水)
=関ヶ原宿から加納宿(岐阜市)まで=
![](http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/22/19.336,136/36/54.06&scale=1000000)
前夜宿泊した尾張一宮駅前のビジネスホテルを出て、7時45分にJR
東海道線関ヶ原駅に着き、皆さんと合流する。
駅前で準備体操をして、8時ちょうどに出発、駅前を南に進んですぐに
中山道に入り、関ヶ原宿を東に向かう。
家並みが少なくなったあたりで国道から旧道に入ると、わずかだが松
並木が残っていた。
このあたりは、関ヶ原合戦の徳川家康最初の陣地があったところだと
いう。
旧道は車もほとんど通らないので歩きやすく、一面のナノハナがまだ色
彩の乏しい風景に彩りを添えてくれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/a7/42d34f87fbc6d26649d1f2d73ab88b59.jpg)
隣の垂井町に入って間もなく、国指定史跡の垂井一里塚がある。石段
の上に小さい社が祭られ、ソメイヨシノもあったが、花は2~3分咲きくらい
だった。
垂井宿には、ところどころに古い商店や住宅、「旅籠」と記された宿、土
蔵づくりの家なども残り、本流寺の前には、明治天皇垂井御小休止所の
石標が立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/3f/dc7f42a493e3089a359322b23a66eab0.jpg)
町並みを東に抜け、相川の相川橋を渡る。毎年恒例のようで、5月の
端午の節句を前にたくさんのこいのぼりが川の上で泳いでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/43/e7cfab97c581956685c7bf65b1d9b78d.jpg)
今日の参加者は16人だが、カメラマンが6人もこちら側に構え、10人
の顔しか見えない。
橋の先、支流との合流点付近は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分
岐点にあたり、垂井追分の道標が立つていた。自然石の道標は宝永6
年(1709)建立で、中山道の道標の中では、7番目に古いという。
青野一里塚跡にはりっぱな石の常夜灯があるが、塚の面影はない。
この北側には美濃国分寺跡があるようだが、寄らずに通過した。
「中山道青墓宿」の道標を過ぎ、JR東海道線の踏切を過ぎると、交差
点に「昼飯町」の表示が目につく。
近くの如来寺前の説明板によれば、大阪の海から拾い上げた仏像を、
長野の善光寺に納めることになり、一行がこのあたりで新緑の美しい
景色に見とれて昼飯をとったので、このあたりを昼飯(ひるめし)というよ
うになったとのこと。のちに読みを改め、現在は「ひるい」と読んでいる
ようだ。
間もなく赤坂宿。ソメイヨシノが咲き始めた塚があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/0a/3ab0dfd3f3c9928280bc3b5bb1c4a46d.jpg)
兜塚(かぶとづか)と呼び、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)、杭
瀬川の戦いに戦死した東軍、中村隊の武将、野一色頼母を葬り、その鎧
兜を埋めたと伝えられているようだ。
赤坂宿にも古い建物が幾つか残り、本陣跡は公園になっていて、皇女
和宮の碑も立つ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/c8/cc52e4f92ac1311858cad08d9aa39b81.jpg)
赤坂宿本陣は、岐阜県内では中津川に次いで大きく、1861年10月、
皇女和宮が降嫁する際にも宿泊したという。
赤坂宿を抜けた小さい川のほとりに常夜灯が立ち、赤坂港跡バス停が
ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/d7/a34ff357d0e5569588690088c314d183.jpg)
杭瀬川のもとの流れで、大正時代までこの川に数百の船が上下してい
たところらしいが、今は全くその面影はない。
田園地帯に出て小さい流れを横断する。両岸のソメイヨシノが、かなり
開花していた。
赤羽町に入り、平野井川の堤防に上がる。堤防にはナノハナが咲き、ソ
メイヨシノも五分咲きくらい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/0b/5b1d2e2c5b8f1c98254f00563f2f2abd.jpg)
雲が増えて風が冷たくなり、パラパラと雨も落ちてきたが、本降りには
ならなかった。
少し先の和宮記念公園とも呼ぶ小簾紅園(おずこうえん)で休憩。日本
庭園のモミジの新芽が、秋のような彩り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/95/cb3fed1838ef5a3648aef6714fb6ec48.jpg)
ここは呂久渡船場跡で、皇女和宮は船中から色鮮やかな紅葉を眺めて
歌を詠まれており、その歌碑も立つ。
水量豊富な揖斐(いび)川の鷺田橋を渡る。両岸の広葉樹は芽吹きはじ
めで、やわらかな彩りを見せる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c4/23aa3782522daa51ac7f02de7b3cea96.jpg)
ナノハナの続く田園地帯を進み、りっぱな市庁舎らしい建物や学校の横
を進む。このあたりのソメイヨシノは満開間近になっていた。一体は柿の
産地で、まだ芽吹き前の柿畑が多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/90/33003b19e84fb630e1381b642430f676.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/6f/ad1778a4931a9a8ee3913d8db41760a4.jpg)
穏やかな流れを見せる川沿いを少しで美江寺(みえじ)宿へ。街道沿いの
民家はいずれもりっぱで、庭木も豊富な家が多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/22/47a2a5aec369151e5fc02d19bad9a88c.jpg)
鍵の手にある美江神社に13時近くに着き、昼食とする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/fb/b5b6d05eedca838d8f106e25760cb696.jpg)
境内の一隅に、中山道美江寺宿跡の説明板があった。 〈続く〉
となる第10回を迎えた。今回は3月28日(土)に京都・三条大橋をスタ
ートし、4月13日(月)に軽井沢までの前期コースである。
私は4月1日から4日までの区間参加で、関ヶ原宿から大井宿(恵那
市)までを歩いた。岐阜県南部、美濃地方を西から東へ、ほぼ横断した
ことになる。
==============================
2009年4月1日(水)
=関ヶ原宿から加納宿(岐阜市)まで=
前夜宿泊した尾張一宮駅前のビジネスホテルを出て、7時45分にJR
東海道線関ヶ原駅に着き、皆さんと合流する。
駅前で準備体操をして、8時ちょうどに出発、駅前を南に進んですぐに
中山道に入り、関ヶ原宿を東に向かう。
家並みが少なくなったあたりで国道から旧道に入ると、わずかだが松
並木が残っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/5e/f7d8e11bf51b534a8f18f3669a03487a.jpg)
このあたりは、関ヶ原合戦の徳川家康最初の陣地があったところだと
いう。
旧道は車もほとんど通らないので歩きやすく、一面のナノハナがまだ色
彩の乏しい風景に彩りを添えてくれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/a7/42d34f87fbc6d26649d1f2d73ab88b59.jpg)
隣の垂井町に入って間もなく、国指定史跡の垂井一里塚がある。石段
の上に小さい社が祭られ、ソメイヨシノもあったが、花は2~3分咲きくらい
だった。
垂井宿には、ところどころに古い商店や住宅、「旅籠」と記された宿、土
蔵づくりの家なども残り、本流寺の前には、明治天皇垂井御小休止所の
石標が立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/3f/dc7f42a493e3089a359322b23a66eab0.jpg)
町並みを東に抜け、相川の相川橋を渡る。毎年恒例のようで、5月の
端午の節句を前にたくさんのこいのぼりが川の上で泳いでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/43/e7cfab97c581956685c7bf65b1d9b78d.jpg)
今日の参加者は16人だが、カメラマンが6人もこちら側に構え、10人
の顔しか見えない。
橋の先、支流との合流点付近は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分
岐点にあたり、垂井追分の道標が立つていた。自然石の道標は宝永6
年(1709)建立で、中山道の道標の中では、7番目に古いという。
青野一里塚跡にはりっぱな石の常夜灯があるが、塚の面影はない。
この北側には美濃国分寺跡があるようだが、寄らずに通過した。
「中山道青墓宿」の道標を過ぎ、JR東海道線の踏切を過ぎると、交差
点に「昼飯町」の表示が目につく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/1d/eda322fe173e9014a56b8be767f8cc03.jpg)
近くの如来寺前の説明板によれば、大阪の海から拾い上げた仏像を、
長野の善光寺に納めることになり、一行がこのあたりで新緑の美しい
景色に見とれて昼飯をとったので、このあたりを昼飯(ひるめし)というよ
うになったとのこと。のちに読みを改め、現在は「ひるい」と読んでいる
ようだ。
間もなく赤坂宿。ソメイヨシノが咲き始めた塚があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/0a/3ab0dfd3f3c9928280bc3b5bb1c4a46d.jpg)
兜塚(かぶとづか)と呼び、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)、杭
瀬川の戦いに戦死した東軍、中村隊の武将、野一色頼母を葬り、その鎧
兜を埋めたと伝えられているようだ。
赤坂宿にも古い建物が幾つか残り、本陣跡は公園になっていて、皇女
和宮の碑も立つ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/c8/cc52e4f92ac1311858cad08d9aa39b81.jpg)
赤坂宿本陣は、岐阜県内では中津川に次いで大きく、1861年10月、
皇女和宮が降嫁する際にも宿泊したという。
赤坂宿を抜けた小さい川のほとりに常夜灯が立ち、赤坂港跡バス停が
ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/d7/a34ff357d0e5569588690088c314d183.jpg)
杭瀬川のもとの流れで、大正時代までこの川に数百の船が上下してい
たところらしいが、今は全くその面影はない。
田園地帯に出て小さい流れを横断する。両岸のソメイヨシノが、かなり
開花していた。
赤羽町に入り、平野井川の堤防に上がる。堤防にはナノハナが咲き、ソ
メイヨシノも五分咲きくらい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/0b/5b1d2e2c5b8f1c98254f00563f2f2abd.jpg)
雲が増えて風が冷たくなり、パラパラと雨も落ちてきたが、本降りには
ならなかった。
少し先の和宮記念公園とも呼ぶ小簾紅園(おずこうえん)で休憩。日本
庭園のモミジの新芽が、秋のような彩り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/95/cb3fed1838ef5a3648aef6714fb6ec48.jpg)
ここは呂久渡船場跡で、皇女和宮は船中から色鮮やかな紅葉を眺めて
歌を詠まれており、その歌碑も立つ。
水量豊富な揖斐(いび)川の鷺田橋を渡る。両岸の広葉樹は芽吹きはじ
めで、やわらかな彩りを見せる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c4/23aa3782522daa51ac7f02de7b3cea96.jpg)
ナノハナの続く田園地帯を進み、りっぱな市庁舎らしい建物や学校の横
を進む。このあたりのソメイヨシノは満開間近になっていた。一体は柿の
産地で、まだ芽吹き前の柿畑が多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/90/33003b19e84fb630e1381b642430f676.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/6f/ad1778a4931a9a8ee3913d8db41760a4.jpg)
穏やかな流れを見せる川沿いを少しで美江寺(みえじ)宿へ。街道沿いの
民家はいずれもりっぱで、庭木も豊富な家が多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/22/47a2a5aec369151e5fc02d19bad9a88c.jpg)
鍵の手にある美江神社に13時近くに着き、昼食とする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/fb/b5b6d05eedca838d8f106e25760cb696.jpg)
境内の一隅に、中山道美江寺宿跡の説明板があった。 〈続く〉