2011年12月23日
北からの寒気で真冬並みの寒さとなったが、10時過ぎに京成本線の市川真間(まま)
駅に降りた。予報では晴天のはずだが、空は一面雲に覆われていて風が冷たい。
北口から住宅の間を抜ける狭い車道を東に向かい、県道264号に出た。北に少しで、
工事中の国府台女子学院に相対するあたりにある「相田みつをギャラリー」に入る。
相田みつをの作品をたくさん展示販売するとともに、焼きたてのパンも販売しているが、
今日の目的は、やまさんから教えてもらった、正面のコーナーで開催中の「放浪のお絵描
きおじさん 第2回百田 稔(ももだみのる)作品展」である。
百田さんは、平成17年(2005)に58歳で定年退職後、東海道を皮切りに、中山
道、紀伊半島、九州・沖縄などを、絵を描きながらの歩き旅を続けて来られた。
それらの絵も展示されていたが、今回は10月4日から11月20日までの30日間、
北陸・能登半島など西舞鶴から直江津までの約808㎞を歩いて、1日1枚ずつ描いた絵
を展示していた。いずれの作品も、歩き旅でなければ得られないと思われる、味わい深い
絵ばかりだった。
ギャラリーを出て、近くの交差点から北西に向かう「文学の道」に入る。
桜並木の下に、市川ゆかりの文学者である北原白秋、幸田露伴、永井荷風など、90名
の作品にまつわる話や、万葉の歌を紹介した説明板が続いている。
真間川に突き当たり、川沿いを笹塚橋から手児奈(てこな)橋へ。
手児奈橋の南側には、浮島弁財天が祭られていた。
橋の北に真間小があり、通りの西側に相対する真間稲荷神社に入る。
創建は万延元年(1860)、昭和10年(1935)に現在地に遷座したのだという。
稲荷神社と池を挟んだ北側には、手児奈霊神堂のどっしりとした社殿が西を向いて立って
いた。山部赤人や高橋虫麻呂など万葉歌人に詠(よ)まれた伝説の美女・手児奈を祭るお堂
で、子授け・安産・良縁成就の神として知られ、ちょうど初参りの若いご夫婦が訪れていた。
境内の「縁結び カツラの木」は、昭和56年(1981)7月のほおずき市に、当時市
川市に在住していた、歌手のさだまさしさんが奉納されたものとか。
西側の道路際には、「万葉集の真間の手児奈の歌」の説明板が立っていた。
その道路の北側正面、台地に向かって急石段を上がると、広い境内の弘法寺(ぐほうじ)で
ある。
行基菩薩や弘法大師の建立伝説を持つ古寺で、仁王門には運慶作と伝えられる仁王像が立ち、
額の文字はは弘法大師の真筆と伝えられているという。
仁王門をくぐると正面に真新しいお堂があり、その近くに、樹齢400年といわれる「伏姫
桜(ふせひめざくら)」と呼ぶシダレザクラが目につく。
境内には桜やモミジ、シイなどの古木が多く、モミジがまだいくらか彩りを残していた。東
南の草地からは、市川市の中心部が一望できる。
境内裏手の墓地と、北側の千葉商科大の間を東に下る。市立二中の西側一帯の段丘にある緑
地が須和田公園で、中ほどに史跡須和田遺跡の説明板が立ち、弥生中期から平安初期の集落遺
跡だったことなどが記されている。
そばに復元した竪穴住居があるが、かやぶき屋根は失われ、円形に掘り下げた部分だけ残っ
ていた。
近くには、市川に10年間亡命生活を送った郭沫若(かくまつじやく)が、昭和30年
(1955)に再訪した際、旧知の人と交換した時の感慨を歌った、自筆の漢詩の詩碑がある。
公園の横を少し北進すると、郭沫若記念公園があり、その一角に市政施工70年の2004
年に移築復元した郭沫若記念館が、無料で公開されている。
郭沫若は、中国の著名な文学者で政治家でもあり、周恩来などと中国人民共和国建国に尽力
し、建国後は政務院副総理などに就任した。前述の昭和30年(1955)、中国文化視察団
長として来日したときに、亡命生活を過ごした市川市須和田の旧宅を訪れているという。
なお、市内に亡命したのは、蒋介石政権から追われる身となった昭和3年(1928)から
12年までの10年間である。
館内には、毛沢東や周恩来からの手紙(レプリカ)、少年時代の衣装、郭沫若ゆかりの写真
や図書、プロフィール、直筆の掛け軸など、多数の品々が展示されていた。
市川市は、郭沫弱の生地・中国四川省楽山市と姉妹都市を締結しており、30周年となった
今月、植樹したばかりという記念樹が、公園内に立っていた。
北東に向かい、国分集落の中ほどまで進んで下総(しもうさ)国分寺に行く。下総国分寺は、
天平13年(741)の詔勅により全国に建立された国分寺のひとつ。朱塗り鮮やかな南大門
は、たびたびの焼失で昭和53年に再建されたものとか。
堂々たる本堂の右手前に、すっかり葉の落ちたイチョウの高木が立っていた。その奥には、
市川七福神の毘沙門天の石造が祭られている。
道路を挟んだ東側には宝珠院があり、本堂に安置の本尊は「いちかわ薬師」と呼ばれる薬師
如来とか。境内に祭られた「いちかわ水子地蔵尊」の周囲に、人形などの玩具がたくさん奉納
されていた。
本堂前に大きなやかんがあるが、由緒などの説明は何も無い。
北側の三差路を左折して西に向かう。庚申堂の先まで進むと、広い草地の一帯が下総国分尼
寺(にじ)跡。国分尼寺跡公園になっていて、金堂跡には盛り土され礎石の位置が示されてい
るが、説明板などはなにも無かった。
高い時計塔のある和洋国府台(こうのだい)女子中の西を進み、すぐの十字路を左折して階
段を下る。台地下の住宅地を北へ、車道を横断して北側のじゅん菜池緑地に入った。
じゅん菜池緑地は、国府台と国分の台地の間に深く入り込んだ古くからの国分沼を、昭和
50年度(1975)から整備復元をはじめ、6年後に完成したもの。総面積は約8万5千㎡
という。
南北に細長い池の、西側の遊歩道を進む。池のほとりに近づくと、たくさんのカモが寄って
きた。
東側、中国分(なかこくぶ)の斜面林はほとんど落葉している。中間より先にある中の島を
渡り、東側の遊歩道を北端まで進んだ。
その北側には二つの小さい池があり、一帯を自然環境ゾーンとして、ジュンサイやヒツジグ
サ、コウホネ、アサザ、ショウブなど水生植物ほかを保護している。
二つの池の間の遊歩道には、落葉間近のモミジが残っていた。
緑地の北西端を出て、栗山の住宅地を県道一号(松戸街道)に向かって上がる。マンホール
のふたには、矢切(やぎり)の渡しとコアラの2種類が描かれていた。
県道に出て右折すれば、北総鉄道の矢切駅前広場。14時5分に着いた。広場の一角には、
「水上勉氏旧居跡」の石碑があり、昭和32年(1957)9月から34年10月まで、ここ
に住居を構えていたことなどが記されていた。
松戸街道の少し先にあったそば屋さんで遅い昼食をして、14時半過ぎ、地下を走る矢切駅
に下る。
(天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 船橋、松戸、歩行地 市川市、松戸市、歩数
10、800)
なお、冒頭で紹介した「放浪のお絵描きおじさん 百田稔さん」のブログは、ここをクリック
してご覧下さい。
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北からの寒気で真冬並みの寒さとなったが、10時過ぎに京成本線の市川真間(まま)
駅に降りた。予報では晴天のはずだが、空は一面雲に覆われていて風が冷たい。
北口から住宅の間を抜ける狭い車道を東に向かい、県道264号に出た。北に少しで、
工事中の国府台女子学院に相対するあたりにある「相田みつをギャラリー」に入る。
相田みつをの作品をたくさん展示販売するとともに、焼きたてのパンも販売しているが、
今日の目的は、やまさんから教えてもらった、正面のコーナーで開催中の「放浪のお絵描
きおじさん 第2回百田 稔(ももだみのる)作品展」である。
百田さんは、平成17年(2005)に58歳で定年退職後、東海道を皮切りに、中山
道、紀伊半島、九州・沖縄などを、絵を描きながらの歩き旅を続けて来られた。
それらの絵も展示されていたが、今回は10月4日から11月20日までの30日間、
北陸・能登半島など西舞鶴から直江津までの約808㎞を歩いて、1日1枚ずつ描いた絵
を展示していた。いずれの作品も、歩き旅でなければ得られないと思われる、味わい深い
絵ばかりだった。
ギャラリーを出て、近くの交差点から北西に向かう「文学の道」に入る。
桜並木の下に、市川ゆかりの文学者である北原白秋、幸田露伴、永井荷風など、90名
の作品にまつわる話や、万葉の歌を紹介した説明板が続いている。
真間川に突き当たり、川沿いを笹塚橋から手児奈(てこな)橋へ。
手児奈橋の南側には、浮島弁財天が祭られていた。
橋の北に真間小があり、通りの西側に相対する真間稲荷神社に入る。
創建は万延元年(1860)、昭和10年(1935)に現在地に遷座したのだという。
稲荷神社と池を挟んだ北側には、手児奈霊神堂のどっしりとした社殿が西を向いて立って
いた。山部赤人や高橋虫麻呂など万葉歌人に詠(よ)まれた伝説の美女・手児奈を祭るお堂
で、子授け・安産・良縁成就の神として知られ、ちょうど初参りの若いご夫婦が訪れていた。
境内の「縁結び カツラの木」は、昭和56年(1981)7月のほおずき市に、当時市
川市に在住していた、歌手のさだまさしさんが奉納されたものとか。
西側の道路際には、「万葉集の真間の手児奈の歌」の説明板が立っていた。
その道路の北側正面、台地に向かって急石段を上がると、広い境内の弘法寺(ぐほうじ)で
ある。
行基菩薩や弘法大師の建立伝説を持つ古寺で、仁王門には運慶作と伝えられる仁王像が立ち、
額の文字はは弘法大師の真筆と伝えられているという。
仁王門をくぐると正面に真新しいお堂があり、その近くに、樹齢400年といわれる「伏姫
桜(ふせひめざくら)」と呼ぶシダレザクラが目につく。
境内には桜やモミジ、シイなどの古木が多く、モミジがまだいくらか彩りを残していた。東
南の草地からは、市川市の中心部が一望できる。
境内裏手の墓地と、北側の千葉商科大の間を東に下る。市立二中の西側一帯の段丘にある緑
地が須和田公園で、中ほどに史跡須和田遺跡の説明板が立ち、弥生中期から平安初期の集落遺
跡だったことなどが記されている。
そばに復元した竪穴住居があるが、かやぶき屋根は失われ、円形に掘り下げた部分だけ残っ
ていた。
近くには、市川に10年間亡命生活を送った郭沫若(かくまつじやく)が、昭和30年
(1955)に再訪した際、旧知の人と交換した時の感慨を歌った、自筆の漢詩の詩碑がある。
公園の横を少し北進すると、郭沫若記念公園があり、その一角に市政施工70年の2004
年に移築復元した郭沫若記念館が、無料で公開されている。
郭沫若は、中国の著名な文学者で政治家でもあり、周恩来などと中国人民共和国建国に尽力
し、建国後は政務院副総理などに就任した。前述の昭和30年(1955)、中国文化視察団
長として来日したときに、亡命生活を過ごした市川市須和田の旧宅を訪れているという。
なお、市内に亡命したのは、蒋介石政権から追われる身となった昭和3年(1928)から
12年までの10年間である。
館内には、毛沢東や周恩来からの手紙(レプリカ)、少年時代の衣装、郭沫若ゆかりの写真
や図書、プロフィール、直筆の掛け軸など、多数の品々が展示されていた。
市川市は、郭沫弱の生地・中国四川省楽山市と姉妹都市を締結しており、30周年となった
今月、植樹したばかりという記念樹が、公園内に立っていた。
北東に向かい、国分集落の中ほどまで進んで下総(しもうさ)国分寺に行く。下総国分寺は、
天平13年(741)の詔勅により全国に建立された国分寺のひとつ。朱塗り鮮やかな南大門
は、たびたびの焼失で昭和53年に再建されたものとか。
堂々たる本堂の右手前に、すっかり葉の落ちたイチョウの高木が立っていた。その奥には、
市川七福神の毘沙門天の石造が祭られている。
道路を挟んだ東側には宝珠院があり、本堂に安置の本尊は「いちかわ薬師」と呼ばれる薬師
如来とか。境内に祭られた「いちかわ水子地蔵尊」の周囲に、人形などの玩具がたくさん奉納
されていた。
本堂前に大きなやかんがあるが、由緒などの説明は何も無い。
北側の三差路を左折して西に向かう。庚申堂の先まで進むと、広い草地の一帯が下総国分尼
寺(にじ)跡。国分尼寺跡公園になっていて、金堂跡には盛り土され礎石の位置が示されてい
るが、説明板などはなにも無かった。
高い時計塔のある和洋国府台(こうのだい)女子中の西を進み、すぐの十字路を左折して階
段を下る。台地下の住宅地を北へ、車道を横断して北側のじゅん菜池緑地に入った。
じゅん菜池緑地は、国府台と国分の台地の間に深く入り込んだ古くからの国分沼を、昭和
50年度(1975)から整備復元をはじめ、6年後に完成したもの。総面積は約8万5千㎡
という。
南北に細長い池の、西側の遊歩道を進む。池のほとりに近づくと、たくさんのカモが寄って
きた。
東側、中国分(なかこくぶ)の斜面林はほとんど落葉している。中間より先にある中の島を
渡り、東側の遊歩道を北端まで進んだ。
その北側には二つの小さい池があり、一帯を自然環境ゾーンとして、ジュンサイやヒツジグ
サ、コウホネ、アサザ、ショウブなど水生植物ほかを保護している。
二つの池の間の遊歩道には、落葉間近のモミジが残っていた。
緑地の北西端を出て、栗山の住宅地を県道一号(松戸街道)に向かって上がる。マンホール
のふたには、矢切(やぎり)の渡しとコアラの2種類が描かれていた。
県道に出て右折すれば、北総鉄道の矢切駅前広場。14時5分に着いた。広場の一角には、
「水上勉氏旧居跡」の石碑があり、昭和32年(1957)9月から34年10月まで、ここ
に住居を構えていたことなどが記されていた。
松戸街道の少し先にあったそば屋さんで遅い昼食をして、14時半過ぎ、地下を走る矢切駅
に下る。
(天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 船橋、松戸、歩行地 市川市、松戸市、歩数
10、800)
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