あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

桜が見ごろの妙正寺川、神田川沿いから雑司ヶ谷鬼子母神へ(東京・新宿ほか)

2019-04-11 21:42:48 | 江戸・東京を歩く
 2019年4月7日(土)

 埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの、第262回例会に参加した。今
回も前月と同様に都内で、集合は西武新宿線の下落合(しもおちあい)駅。


 妙正寺(みょうしょうじ)川の行方を確かめ、あわせて川と坂道を楽しもうという企画
である。10時10分にスタートした。

 北口を出て線路を渡り南へすぐ、神田川の西側にある「せせらぎの里公苑」に入る。東
京都下水道局落合水再生センターの北側上部に造られた公園で、ソメイヨシノがまさに見
ごろ。



 シダレザクラやチューリップなども咲き競う。



 北向きから東方へとカーブする神田川の両岸もソメイヨシノの花に覆われている。カー
ブの終わる辺りで神田川を離れた。


 下落合駅東側の踏切を北に抜け、西から流れてきた妙正寺川が、都道8号・新目白通下
の暗渠(あんきょ)に入るところを確かめる。
     


 新目白通りを横断し,正面の斜面にある東長谷寺(ひがしはせでら)の薬王院へ。
         
 広い境内は植栽も豊富。早くも咲き出したボタンがあり、ミツバツツジやドウダンツツ
ジ、シャクナゲなどが花開き、モミジの若葉も気持ち良い彩りを見せる。
     



 東側に接した「下落合野鳥の森」もモミジなど新緑が豊富で、ヤマブキが花いっぱい。


 東側すぐ先には氷川神社があり、ケヤキなどが新緑の彩りを見せる。


 次の交差点で新目白通を渡り、西武新宿線の南側へ。神田川の橋を渡り、右岸近くの住
宅地を少し進み、数本のソメイヨシノの咲く宮田橋公園で小休止した。


 住宅地や東京富士大前から東電の変電所北側に回る。


 商店や食堂、喫茶など並ぶ賑やかな「さかえ通り商店街」を進み、JR山手線と西武新
宿線の下を東に抜けると高田馬場駅前である。


 西武線の高架下沿いに進んで神田川右岸に出て、川沿いを東進する。
     
 右岸の橋際などにはソメイヨシノがあちこちに咲き、新目白通と明治通が交差する高戸
橋へ。


 橋から上流を望むと、左に神田川が、右に暗渠から出た妙正寺川がひとつになる合流地
点だった。


 ここは、早稲田方面からの都営荒川線の線路が新目白通から右カーブして明治通に回り、
北に向かう地点でもある。


 目白通を都電学習院下停留所際まで進み、東へ少しで氷川神社へ。


     
 東側正面の鳥居近くには、上部を切られた古木のソメイヨシノが、そしてヤマブキとボ
ケが混じりあって咲いていた。


 すぐ先の交差点際は、御府内八十八ヶ所29番と豊島八十八ヶ所41番札所で真言宗豊
山派の南蔵院である。

 「名作怪談乳房榎ゆかりの地」の標識もあり、本堂はコンクリート造りの2階部分。

 花の寺と呼んでもいいようで、境内にはクリスマスローズ、シャガ、スイセン、何種も
のチューリップや見慣れぬ花も咲き競う。
    

         

    

 数本のソメイヨシノも見頃で、境内は緑と花に満ちあふれていた。
     


 そばの交差点際に『「山吹(やまぶき)の里」の碑』の説明板が立ち、そばに古い石碑
がある。
     
 この辺り新宿区山吹町一帯は、太田道灌が鷹狩りの際に雨にあった時の故事にちなむ場
所のひとつで、山吹の里はほかに荒川区町屋(まちや)、横浜市金沢区六浦(むつうら)、
埼玉県越生町(おごせまち)などの説があることも記されていた。碑は貞享3(1686)
年造立の供養塔を転用したものだという。


 南側の神田川の面影橋(おもかげばし)際に出て、両岸をソメイヨシノが咲き競う左岸
沿いの遊歩道を進む。
         

 川沿いに、新宿区の地場産業である染色の伝統を伝える「東京染(そめ)ものがたり博
物館」があり、週末は休館日だが花どきなので今日は開館していた。

 ここは、東京染小紋(そめこもん)と江戸更紗(さらさ)を中心に、染色の技法や作品
を語り継ぎ、粋でモダンな感覚を織り込んだ工房活動を紹介している新宿区立のミニ博物
館(入館無料)。

 先頭グループは行ってしまったが入館して、型紙や絵柄の本、染小紋や江戸更紗の製品
の数々、そして直売品などを観覧した。




 次の橋で神田川から離れてひとつ北側を並行する道を進み、途中のコンビニで飲み物な
どを求める。後ろ足に飾りを付けた大きな亀が、路傍を歩いていてビックリ。
    

 その先の角の東北側が、今日の昼食地の「文京区立肥後細川庭園」。12時35分に着
いた。

 幕末、ここは肥後熊本藩54万石細川家の下屋敷、抱え屋敷で、明治15(1882)
年からは細川家の本邸だったところ。昭和36(1961)年に都立公園として開園し、
昭和50(1975)年に文京区に移管されたという。


 正門を入ると、松聲閣と呼ぶ建物が目に入る。中門の先には大池と呼ぶ池があり、周辺
には趣ある松や灯籠などが配され、背後には豊富な樹林が広がる。





 モミジやケヤキなどがやわらかな新芽の彩りを見せ、その中にソメイヨシノが花を見せ
ていた。

 昼食の場所を探しながら松聲閣↑横から池の北西側斜面に上がる。展望のよい一角にシー
トを広げ、眼下の池や周辺の新緑などを眺めながら乾杯して昼食とする。







 ゆっくりと展望とおしゃべりを楽しみ、記念撮影して14時に公園を出た。




          
 公園の東南端から、北に延びる急坂、胸突坂(むなつきざか)を上がる。東側は関口芭
蕉庵で、西側には大イチョウの立つ水神社が祭られていた。
          

 肥後細川庭園に続く西側斜面上部は永青(えいせい)文庫で、南北朝時代から現在に至
る歴代細川家約700年に収集された細川家の歴史資料や文化財、近代日本画、中国の考
古品、陶磁器などを収蔵しているという。

 都道8号・目白通に出て西へ、永青文庫に接して「和敬塾」がある(門からの眺め)。

 首都圏の大学で学ぶ男子学生のための学生寮で、海外からの留学生を含め500名が共
同生活を送っているようだ。

 西側の坂が幽霊坂で、和敬塾の建物沿いに今度はこの坂を下り、肥後細川庭園の入口際
に戻る。

 その先、目白台一丁目の住宅地を鍵型に進み、次の豊坂(とよさか)を上がる。坂下に
豊川稲荷神社があることから名付けられたようで、坂を上がった目白通の交番際で小休止
した。通りの北側は日本女子大である。

 次の小布施坂(おぶせざか)は通過し、すぐ先はV字状に分かれた日無坂と富士見坂だ
が、左側の細くて階段もある日無坂(ひなしざか)を下った。


 坂下の高田一丁目を西進して往路で訪ねた南蔵院際まで進み、最後の宿坂(しゅくざか)
を上がる。
     

 中ほどで横断する十字路の北西側は、「目白(めじろ)不動」で知られる金乗院(こん
じょういん)である。

 中世この辺りに関所があったことから「宿坂」と呼ばれるようになったと思われ、天保
7(1836)年出版の「江戸名所図会(ずえ)」には、金乗院や「宿坂関旧址(しゅく
さかのせききゆうし)」が描かれているという。

 金乗院の創建は天正年間(1573~92)と考えられ、当初は中野・宝泉寺の末寺だ
ったが現在は護国寺の末寺とか。

 コンクリート造りの本堂の右手にある目白不動堂には、目白不動明王が祭られ、「目白」
の地名発祥の地である。

 
          不動堂に祭られた目白不動明王
         

 目白不動明王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の中で随一として名高く、
目白の号は寛永年間(1624~44)に3代将軍徳川家光の命によるといわれているよ
うだ。

         
 本堂前に寛文6(1666)年造立の倶利伽羅(くりから)不動庚申塔が、南側ソメイ
ヨシノの下には寛政12(1800)年造立の鐔塚(つばづか)がある。


     
 金乗院本堂と目白不動参拝後、宿坂を上がり、目白通を横断して鬼子母神の表参道を進
む。都営荒川線の雑司ヶ谷(ぞうしがや)駅横を通過して、雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじ
ん)境内へ。

 雑司ヶ谷鬼子母神は、天正6(1578)年、稲荷の森といわれた当地に村の人々が堂
宇を建て、近くの東陽坊に祭られていた鬼子母神像を祭ったのが始まりのようで、鬼子母
神堂は国の重要文化財に指定されている。


 細い参道の両側にはケヤキの高木が並び、淡い若葉を見せていた。お堂の左手前には、
樹齢600年以上、幹周8m、樹高30mで、都の重要文化財のイチョウの古木が目に入
る。
     

 ここが今日のゴール、15時46分に散会した。帰路はJR目白駅と池袋駅方面へと分
かれた。

 桜が見頃の妙正寺川と神田川沿い、肥後熊本細川家下屋敷の面影残す回遊式の肥後細川
庭園、そして神田川左岸沿いの由緒ある坂道の上り下りと、都心とは思えぬ変化に富むウ
オーキングを楽しんだ。

(参加 13人、天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万)、東京西部、歩行地 
 新宿区、文京区、豊島区、歩数 16,100)





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