2018年12月19日(水)
師走も後半に入ったが晴天で寒さも緩むとの予報なので、ウオーキングに出かけた。
自宅から1時間10分で、JR青梅線羽村(はむら)駅に9時48分に着いた。6分後
に出発して東口にある西友で弁当を求める。
初めに、近くにある五ノ神社を目指して周辺を少し迂回したが見当たらず、駅前に戻っ
たらなんと西友と道路を隔てた東側だった。
神社の創建は推古天皇9(601)年と伝えられる古社。宝亀年間(770~80)に
熊野五社権現を祭ったところから五ノ神の地名が生まれたといわれるとか。駅東口一帯の
地名は五ノ神である。
現在の本殿は、青梅の宮大工・小林藤馬が嘉永2(1849)年に着工し、文久2
(1862)年に竣工されたと推察され、江戸時代後期のこの地方の社寺建築の特徴がよ
く伺えるようで、羽村市有形文化財に指定されていた。
神社の南側に、東京都指定史跡「まいまいず井戸」がある。まいまいずとはかたつむり
のこと、井戸に向かって降りる通路の形が似ていることから名付けられたもの。
鎌倉時代のものと推定され、昭和33(1958)年の町営水道開設まで使用されてい
たという。地表面の直径約16m、底面直径約5m、深さ約4.3mで、地表面から周壁
を約2周して井戸に達するようになっている。
駅に戻って自由通路で西口に出た。交番横から少し進むと羽村市観光案内所があったの
で入り、市内の地図などをもらう。
すぐ先の交差点で新奥多摩街道と旧鎌倉街道を横断し、右手高台の稲荷神社境内へ。
稲荷神社の創建時期は不明だが、江戸後期の「新編武蔵風土記稿」に「稲荷社」と記さ
れているとか。もとは南側の禅林寺西南にあったのを明治39(1906)年に移築し、
平成2(1990)年に拝殿覆殿など大改築したという。
境内西側からは、多摩川を挟んでこれから向かう草花(くさばな)丘陵や奥多摩の大岳
山などが望まれる。
西南側から道路に下り、道路の東側台地下の禅林寺(ぜんりんじ)へ。創建は文禄2
(1593)年、当地の島田氏の先祖、島田九郞右衛門が自分の寺として開基したとか。
禅林寺は、「大菩薩峠」の作者、中里介山(なかざとかいざん)の菩提寺でもある。
庫裡(くり)の前の案内図に従い、本堂左手から裏のヒノキ林を上がり、段丘上の細道を
50m余り進んだ墓地の一角にあった。
中里介山は、明治18(1835)年に近くの羽中(はねなか)四丁目の水車小屋で生
まれた。大正2(1913)年から長編小説「大菩薩峠」を書き続けたが、未完のうちに
昭和19(1944)年に59歳で没している。
境内には、「天明義挙(てんめいぎきょ)の碑」がある。江戸時代の三大飢饉のひとつ
天明飢饉の際、天明4(1784)年2月、羽村の名主・組頭を中心に近郷40か村を巻
き込んだ農民一揆の犠牲者9名を「義民」としてたたえて、明治27(1894)年に建
立されたという。
もとの道を次のY字路まで進むと、塔のある洋館風の建物がある。バス停の名から「東
会館」のよう。
左折してすぐで奥多摩街道に出た。玉川上水沿いを東へ、次の羽村堰入口交差点で玉川
上水を渡る。
右折して玉川上水と多摩川左岸の間を進むと、玉川上水の取入口の羽村堰(はむらぜき)
があり、取水された玉川上水にはかなりの水量で流れていた。
羽村堰は「投渡堰(なげわたしぜき)」と呼ばれる方式で、普段は主柱に丸太や木材を
渡して水流を堰き止めるが、増水時にはそれらを外して土手や水門の崩壊を防ぐ仕組みの
よう。
取水堰際に、牛枠(うしわく)(川倉水制(かわくらすいせい))の説明板とその実物
大模型がある。
牛枠とは治水技術のひとつで、水の勢いを弱め堤防が壊れるのを防ぐ仕組みのようだ。
多摩川左岸側には、羽村取水堰(投渡堰)が平成27(2015)年に「土木学会選奨
土木遺産」に選定された選定証があった。
周辺には東屋(あずまや)も設けられ、そばの松の木の傍らに、玉川上水を作った「玉
川兄弟の像」がある。玉川上水完成後、兄弟はその功労により「玉川」姓を与えられてお
り、手前が弟の清右衛門で、後が兄の庄右衛門だという。
玉川上水は、江戸の人口増加による飲用水不足の対処策として、老中松平信綱が町奉行
神尾元勝などに多摩川の引水を計画させ、承応2(1653)年に多摩郡羽村の庄右衛門、
清右衛門に命じて、ここに堰を設けて江戸までの水路を完成させたものである。
多摩川左岸沿いを南進し、羽村堰下橋を渡る。橋の近くに、どんど焼きに使われるらし
い針葉樹の生葉を集めた三角錐ができていた。
右岸を500m近く逆行し、羽村市郷土博物館に入る(入館無料)。堤防を挟んた多摩
川右岸河川敷にも、牛枠が数個並んでいた。
羽村郷土博物館は、羽村市の自然、風土、歴史、文化に関して資料の収集、保存、調査
研究を行い、その成果を展示や学習会、資料集の刊行などで公開しているとか。
常設展示室では、「多摩川とともに」「玉川上水を守る」「農村から都市へ」「中里介
山の世界」のテーマに分けた展示があり、企画展示室では特別展「御札と旅~羽村人の祈
り~」を開催中。
写真撮影は可だがネットへのアップは禁止とのこと。まいまいず井戸の模型、江戸時代
の玉川上水の水門、養蚕設備、現在の水門、中里介山の作品や資料など、ここならではの
貴重な展示を撮ったが、公開できないのが残念だ。
北側の屋外展示場には、赤門と旧下田家住宅がある。赤門は江戸時代中頃の創建といわ
れ、中里介山の大菩薩峠記念館の正門。記念館が閉館後の昭和59(1984)年にここ
に復元したとという。
旧下田家住宅は、市内羽西(はねにし)にあった下田氏の家を譲り受けたもの。弘化4
(1847)年の建築で、多摩西部の古い民家の造りをよく残し、1210点の生活用具
や養蚕用具などとともに、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
25分ほど観覧して、12時02分に郷土博物館を出た。西側の雑木林下を進むと、博
物館のもう一つの屋外展示、旧田中家長屋門がある。
もと丹木村(現八王子市丹木町)の千人同心田中郡次家の門で、門扉やくぐり戸、柱や
梁など200年以上前の建設当時のものも残っているようだ。
間もなく「羽村草花丘陵コース案内図」があり、山道に入る。次第に坂道となり木の段
などあり、上り詰めたところに小さな社の羽村神社が祭られている。
昔は浅間社と称され、西多摩村の南の山林にあったとか。
標高約220mのこの付近は浅間山と呼び、北側は絶壁で展望が良く、多摩川の流れを
見下ろし、その向こうに羽村市から東方の狭山丘陵などが一望できる。
すぐ南のピークが東屋のある浅間岳山頂で、標高235.2mの三角点がある。
その先しばらくは、南東に向かって立川国際カントリーゴルフ場との境界に沿った稜線
上を進む。周辺はクヌギなど広葉樹が多く、右手樹間からゴルフ場が見える。
夏の台風の強風で倒れたらしい倒木をまたぐ。ゴルフ練習場やゴルフ場のクラブハウス
が近づいた辺りで左手の樹林が切れ、眼下に多摩川の堰下橋や羽村堰、その向こうの住宅
やビル、狭山丘陵、下流の羽村大橋などの展望が開ける。
さらに目をこらすと、少しガスで霞む新宿副都心周辺だろうか、高層ビル群も望まれた。
間もなくゴルフ場入口付近の車道に出た。そこから車道を下ろうかと思ったが、その先
の石段を上がる山道に道標があり、目的地の妙見堂や大澄山(だいちょうざん)が記され
ていたので、そちらに上がることにする。
急な石段を上がると鳥居があるが社殿は無く、台座らしいところに「朝日山妙見堂」の
表示がある。もしかしたらここもこの夏の台風で壊されたのだろうか…。
前方に下り、さらに急石段を上がったりして林間を進むと右手の視界が開け、雲をまと
った富士山上部や丹沢や奥多摩の山並みなどが望まれる。
再び針葉樹林や竹林の間などを抜けて、羽村大橋の南側近くの都道250号に下った。
標識に従い羽村大橋の西側近くまで進み、変則五差路で折り返すようにU字状に回り、多
摩川右岸沿いの都道29号を南下する。
近くに八雲神社への標識があるはずだが見つからない。少し先で西側を平行する旧道に
回るが、その先にも無いので大澄山に上がるのはあきらめる。
そのまま進むと慈照寺の横に出た。13時55分に慈照寺の山門を入り、大きな本堂に
参拝する
慈照寺は、文治4(1188)年、畠山重弘の娘で畠山重忠の伯母にあたる円寿院のた
めに創建されたと伝えられ、天正18(1590)年の八王子城落城の際に伽藍は焼失し
たという。
本堂の左手手前には東京都天然記念物の「慈照寺のモッコク」が立っている。
通常モッコクは低木か小高木だが、この木は樹高21.5m、幹周2.4mあり、これ
だけの高さのものは珍しいようだ。
時間も経過したのでここで昼食をさせてもらうことにした。本堂左手から裏手の墓地に
回ると、頃合いの切り株があったので腰を下ろし、遅い昼食とする。
広い墓地は本堂裏手一帯に高台まで広がり日当たりも抜群で、永眠するには格別な場所
のように思えた。
切り株の横には8体のお地蔵さん↑が並び、さらに境内あちこちにお地蔵さんが祭られ
ていた。
14時17分に山門を出た。草花集落の次の十字路を左折し、Y字路を左に下って多摩
川の永田橋際に出る。
橋を渡り北に延びる車道を少しで、地図にない堰上明神社が。社殿は小さいが樹木は結
構あり、境内は永田児童遊園になっていた。
近くには、文政5(1822)年創業で銘酒「嘉泉」や「田むら」などの蔵元、田村醸
造場があり、白壁切妻屋根の大きな建物が数棟並んでいた。
すぐ先が、臨済宗建長寺派の長徳寺である。閉じた山門の右手から境内に入ると、正面
に大きな本堂が構え立つ。
「花の寺」のようで、本堂左手には四季に咲くたくさんの花の写真と時期が大きなパネ
ルになっている。12月はスイセンとツワブキのようだが、どこに咲いているのか目に入
らなかった。
傍らの鐘楼は重厚な四脚の独特の造り。門のそばには大きなアカマツがあり、手入れ中。
掲示板に「健康十訓」が掲示されていて、読むと納得させられる。
すぐ北のY字路で左折して玉川上水沿いを進む。左手前方が開けた多摩川左岸河川敷が
「福生(ふっさ)かに坂公園」になっていて、10数人の家族連れが訪れていた。
公園に下って再び多摩川左岸堤防に上がり、右手に斜面林を見ながら進む。前方羽村大
橋の向こうには、秩父の武甲山だろうか三角形のピークがよく見える。
老人ホームの先で堤防から下り、市立競技場の横から東側の斜面林に上がり、玉川上水
の新堀橋際へ。斜面林に覆われた玉川上水の流れを眺め、右岸沿いの遊歩道を逆行して南
に向かう。
流れに沿った右手の広葉樹林は福生加美水上公園になっていて、稜線上にも遊歩道があ
る。少し進むと「富士山の見える丘へ 徒歩1分」の表示があるので上がった。
富士山の方向は逆光だが、強風になびく山頂付近の雲と富士山上部が見えたので、そば
の立木の影から撮ってみた。
足下には小さい鐘があり、「富士山が見えたら 鐘を1回幸せを願って」と記されてい
たので1回だけ鳴らす。
すぐ先の斜面には「福生市指定史跡 玉川上水旧堀跡」の標石が立っている。上水の完
成から約90年経過した元文5(1740)年、多摩川の出水により市内で玉川上水の土
手がしばしば崩壊したので、約613mほど現在の新しい水路が造られたという。
近くには『中西悟堂「野鳥村」構想の地』の説明板もあった。日本野鳥の会を創設した
詩人で野鳥研究家の中西悟堂が、昭和19(1944)年に福生で暮らし、この付近に野
鳥研究所を兼ねた「野鳥村」の構想を持ったところのよう。第二次世界大戦の悪化などで
断念したが、中西の遺志を継承する活動は現在も続いているという。
そばの車の通れぬ加美上水橋を渡って玉川上水から離れる。橋のたもとに「加美大橋の
歴史」を刻んだ標石があった。
昭和2(1927)年2月、大正天皇の陵墓造営に必要な多摩川石を運搬するため、福
生駅から多摩川の羽村境まで1.8㎞の砂利運搬専用線が敷設され、通称「ガード下」と
呼ばれる鉄橋がここに架けられたとか。1日2回電気機関車が4~5両の貨車を引いて通
ったが、昭和34(1959)年に砂利運搬は停止したとのこと。
東進して福生四小前から南側の通りに回り、新奥多摩街道に面した福生神明社へ。
拝殿には、先ほど通過した田村醸造場の銘酒・嘉泉の菰樽が奉納され、拝殿前には芭蕉
の「春もやや けしきととのふ 月と梅」の句碑が立っていた。
境内西北側にご神木の2本のクスノキが目につく。約100前、地元の清水寛二氏が自
らの青梅農林高卒業記念に植樹されたものだという。
新青梅街道を福生一小横まで進んで福生駅前交差点を左折し、JR青梅線の福生駅に
16時ちょうどにゴールした。
(天気 快晴一時晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 青梅、拝島、歩行地
羽村市、あきる野市、福生市、歩数 23,500)
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師走も後半に入ったが晴天で寒さも緩むとの予報なので、ウオーキングに出かけた。
自宅から1時間10分で、JR青梅線羽村(はむら)駅に9時48分に着いた。6分後
に出発して東口にある西友で弁当を求める。
初めに、近くにある五ノ神社を目指して周辺を少し迂回したが見当たらず、駅前に戻っ
たらなんと西友と道路を隔てた東側だった。
神社の創建は推古天皇9(601)年と伝えられる古社。宝亀年間(770~80)に
熊野五社権現を祭ったところから五ノ神の地名が生まれたといわれるとか。駅東口一帯の
地名は五ノ神である。
現在の本殿は、青梅の宮大工・小林藤馬が嘉永2(1849)年に着工し、文久2
(1862)年に竣工されたと推察され、江戸時代後期のこの地方の社寺建築の特徴がよ
く伺えるようで、羽村市有形文化財に指定されていた。
神社の南側に、東京都指定史跡「まいまいず井戸」がある。まいまいずとはかたつむり
のこと、井戸に向かって降りる通路の形が似ていることから名付けられたもの。
鎌倉時代のものと推定され、昭和33(1958)年の町営水道開設まで使用されてい
たという。地表面の直径約16m、底面直径約5m、深さ約4.3mで、地表面から周壁
を約2周して井戸に達するようになっている。
駅に戻って自由通路で西口に出た。交番横から少し進むと羽村市観光案内所があったの
で入り、市内の地図などをもらう。
すぐ先の交差点で新奥多摩街道と旧鎌倉街道を横断し、右手高台の稲荷神社境内へ。
稲荷神社の創建時期は不明だが、江戸後期の「新編武蔵風土記稿」に「稲荷社」と記さ
れているとか。もとは南側の禅林寺西南にあったのを明治39(1906)年に移築し、
平成2(1990)年に拝殿覆殿など大改築したという。
境内西側からは、多摩川を挟んでこれから向かう草花(くさばな)丘陵や奥多摩の大岳
山などが望まれる。
西南側から道路に下り、道路の東側台地下の禅林寺(ぜんりんじ)へ。創建は文禄2
(1593)年、当地の島田氏の先祖、島田九郞右衛門が自分の寺として開基したとか。
禅林寺は、「大菩薩峠」の作者、中里介山(なかざとかいざん)の菩提寺でもある。
庫裡(くり)の前の案内図に従い、本堂左手から裏のヒノキ林を上がり、段丘上の細道を
50m余り進んだ墓地の一角にあった。
中里介山は、明治18(1835)年に近くの羽中(はねなか)四丁目の水車小屋で生
まれた。大正2(1913)年から長編小説「大菩薩峠」を書き続けたが、未完のうちに
昭和19(1944)年に59歳で没している。
境内には、「天明義挙(てんめいぎきょ)の碑」がある。江戸時代の三大飢饉のひとつ
天明飢饉の際、天明4(1784)年2月、羽村の名主・組頭を中心に近郷40か村を巻
き込んだ農民一揆の犠牲者9名を「義民」としてたたえて、明治27(1894)年に建
立されたという。
もとの道を次のY字路まで進むと、塔のある洋館風の建物がある。バス停の名から「東
会館」のよう。
左折してすぐで奥多摩街道に出た。玉川上水沿いを東へ、次の羽村堰入口交差点で玉川
上水を渡る。
右折して玉川上水と多摩川左岸の間を進むと、玉川上水の取入口の羽村堰(はむらぜき)
があり、取水された玉川上水にはかなりの水量で流れていた。
羽村堰は「投渡堰(なげわたしぜき)」と呼ばれる方式で、普段は主柱に丸太や木材を
渡して水流を堰き止めるが、増水時にはそれらを外して土手や水門の崩壊を防ぐ仕組みの
よう。
取水堰際に、牛枠(うしわく)(川倉水制(かわくらすいせい))の説明板とその実物
大模型がある。
牛枠とは治水技術のひとつで、水の勢いを弱め堤防が壊れるのを防ぐ仕組みのようだ。
多摩川左岸側には、羽村取水堰(投渡堰)が平成27(2015)年に「土木学会選奨
土木遺産」に選定された選定証があった。
周辺には東屋(あずまや)も設けられ、そばの松の木の傍らに、玉川上水を作った「玉
川兄弟の像」がある。玉川上水完成後、兄弟はその功労により「玉川」姓を与えられてお
り、手前が弟の清右衛門で、後が兄の庄右衛門だという。
玉川上水は、江戸の人口増加による飲用水不足の対処策として、老中松平信綱が町奉行
神尾元勝などに多摩川の引水を計画させ、承応2(1653)年に多摩郡羽村の庄右衛門、
清右衛門に命じて、ここに堰を設けて江戸までの水路を完成させたものである。
多摩川左岸沿いを南進し、羽村堰下橋を渡る。橋の近くに、どんど焼きに使われるらし
い針葉樹の生葉を集めた三角錐ができていた。
右岸を500m近く逆行し、羽村市郷土博物館に入る(入館無料)。堤防を挟んた多摩
川右岸河川敷にも、牛枠が数個並んでいた。
羽村郷土博物館は、羽村市の自然、風土、歴史、文化に関して資料の収集、保存、調査
研究を行い、その成果を展示や学習会、資料集の刊行などで公開しているとか。
常設展示室では、「多摩川とともに」「玉川上水を守る」「農村から都市へ」「中里介
山の世界」のテーマに分けた展示があり、企画展示室では特別展「御札と旅~羽村人の祈
り~」を開催中。
写真撮影は可だがネットへのアップは禁止とのこと。まいまいず井戸の模型、江戸時代
の玉川上水の水門、養蚕設備、現在の水門、中里介山の作品や資料など、ここならではの
貴重な展示を撮ったが、公開できないのが残念だ。
北側の屋外展示場には、赤門と旧下田家住宅がある。赤門は江戸時代中頃の創建といわ
れ、中里介山の大菩薩峠記念館の正門。記念館が閉館後の昭和59(1984)年にここ
に復元したとという。
旧下田家住宅は、市内羽西(はねにし)にあった下田氏の家を譲り受けたもの。弘化4
(1847)年の建築で、多摩西部の古い民家の造りをよく残し、1210点の生活用具
や養蚕用具などとともに、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
25分ほど観覧して、12時02分に郷土博物館を出た。西側の雑木林下を進むと、博
物館のもう一つの屋外展示、旧田中家長屋門がある。
もと丹木村(現八王子市丹木町)の千人同心田中郡次家の門で、門扉やくぐり戸、柱や
梁など200年以上前の建設当時のものも残っているようだ。
間もなく「羽村草花丘陵コース案内図」があり、山道に入る。次第に坂道となり木の段
などあり、上り詰めたところに小さな社の羽村神社が祭られている。
昔は浅間社と称され、西多摩村の南の山林にあったとか。
標高約220mのこの付近は浅間山と呼び、北側は絶壁で展望が良く、多摩川の流れを
見下ろし、その向こうに羽村市から東方の狭山丘陵などが一望できる。
すぐ南のピークが東屋のある浅間岳山頂で、標高235.2mの三角点がある。
その先しばらくは、南東に向かって立川国際カントリーゴルフ場との境界に沿った稜線
上を進む。周辺はクヌギなど広葉樹が多く、右手樹間からゴルフ場が見える。
夏の台風の強風で倒れたらしい倒木をまたぐ。ゴルフ練習場やゴルフ場のクラブハウス
が近づいた辺りで左手の樹林が切れ、眼下に多摩川の堰下橋や羽村堰、その向こうの住宅
やビル、狭山丘陵、下流の羽村大橋などの展望が開ける。
さらに目をこらすと、少しガスで霞む新宿副都心周辺だろうか、高層ビル群も望まれた。
間もなくゴルフ場入口付近の車道に出た。そこから車道を下ろうかと思ったが、その先
の石段を上がる山道に道標があり、目的地の妙見堂や大澄山(だいちょうざん)が記され
ていたので、そちらに上がることにする。
急な石段を上がると鳥居があるが社殿は無く、台座らしいところに「朝日山妙見堂」の
表示がある。もしかしたらここもこの夏の台風で壊されたのだろうか…。
前方に下り、さらに急石段を上がったりして林間を進むと右手の視界が開け、雲をまと
った富士山上部や丹沢や奥多摩の山並みなどが望まれる。
再び針葉樹林や竹林の間などを抜けて、羽村大橋の南側近くの都道250号に下った。
標識に従い羽村大橋の西側近くまで進み、変則五差路で折り返すようにU字状に回り、多
摩川右岸沿いの都道29号を南下する。
近くに八雲神社への標識があるはずだが見つからない。少し先で西側を平行する旧道に
回るが、その先にも無いので大澄山に上がるのはあきらめる。
そのまま進むと慈照寺の横に出た。13時55分に慈照寺の山門を入り、大きな本堂に
参拝する
慈照寺は、文治4(1188)年、畠山重弘の娘で畠山重忠の伯母にあたる円寿院のた
めに創建されたと伝えられ、天正18(1590)年の八王子城落城の際に伽藍は焼失し
たという。
本堂の左手手前には東京都天然記念物の「慈照寺のモッコク」が立っている。
通常モッコクは低木か小高木だが、この木は樹高21.5m、幹周2.4mあり、これ
だけの高さのものは珍しいようだ。
時間も経過したのでここで昼食をさせてもらうことにした。本堂左手から裏手の墓地に
回ると、頃合いの切り株があったので腰を下ろし、遅い昼食とする。
広い墓地は本堂裏手一帯に高台まで広がり日当たりも抜群で、永眠するには格別な場所
のように思えた。
切り株の横には8体のお地蔵さん↑が並び、さらに境内あちこちにお地蔵さんが祭られ
ていた。
14時17分に山門を出た。草花集落の次の十字路を左折し、Y字路を左に下って多摩
川の永田橋際に出る。
橋を渡り北に延びる車道を少しで、地図にない堰上明神社が。社殿は小さいが樹木は結
構あり、境内は永田児童遊園になっていた。
近くには、文政5(1822)年創業で銘酒「嘉泉」や「田むら」などの蔵元、田村醸
造場があり、白壁切妻屋根の大きな建物が数棟並んでいた。
すぐ先が、臨済宗建長寺派の長徳寺である。閉じた山門の右手から境内に入ると、正面
に大きな本堂が構え立つ。
「花の寺」のようで、本堂左手には四季に咲くたくさんの花の写真と時期が大きなパネ
ルになっている。12月はスイセンとツワブキのようだが、どこに咲いているのか目に入
らなかった。
傍らの鐘楼は重厚な四脚の独特の造り。門のそばには大きなアカマツがあり、手入れ中。
掲示板に「健康十訓」が掲示されていて、読むと納得させられる。
すぐ北のY字路で左折して玉川上水沿いを進む。左手前方が開けた多摩川左岸河川敷が
「福生(ふっさ)かに坂公園」になっていて、10数人の家族連れが訪れていた。
公園に下って再び多摩川左岸堤防に上がり、右手に斜面林を見ながら進む。前方羽村大
橋の向こうには、秩父の武甲山だろうか三角形のピークがよく見える。
老人ホームの先で堤防から下り、市立競技場の横から東側の斜面林に上がり、玉川上水
の新堀橋際へ。斜面林に覆われた玉川上水の流れを眺め、右岸沿いの遊歩道を逆行して南
に向かう。
流れに沿った右手の広葉樹林は福生加美水上公園になっていて、稜線上にも遊歩道があ
る。少し進むと「富士山の見える丘へ 徒歩1分」の表示があるので上がった。
富士山の方向は逆光だが、強風になびく山頂付近の雲と富士山上部が見えたので、そば
の立木の影から撮ってみた。
足下には小さい鐘があり、「富士山が見えたら 鐘を1回幸せを願って」と記されてい
たので1回だけ鳴らす。
すぐ先の斜面には「福生市指定史跡 玉川上水旧堀跡」の標石が立っている。上水の完
成から約90年経過した元文5(1740)年、多摩川の出水により市内で玉川上水の土
手がしばしば崩壊したので、約613mほど現在の新しい水路が造られたという。
近くには『中西悟堂「野鳥村」構想の地』の説明板もあった。日本野鳥の会を創設した
詩人で野鳥研究家の中西悟堂が、昭和19(1944)年に福生で暮らし、この付近に野
鳥研究所を兼ねた「野鳥村」の構想を持ったところのよう。第二次世界大戦の悪化などで
断念したが、中西の遺志を継承する活動は現在も続いているという。
そばの車の通れぬ加美上水橋を渡って玉川上水から離れる。橋のたもとに「加美大橋の
歴史」を刻んだ標石があった。
昭和2(1927)年2月、大正天皇の陵墓造営に必要な多摩川石を運搬するため、福
生駅から多摩川の羽村境まで1.8㎞の砂利運搬専用線が敷設され、通称「ガード下」と
呼ばれる鉄橋がここに架けられたとか。1日2回電気機関車が4~5両の貨車を引いて通
ったが、昭和34(1959)年に砂利運搬は停止したとのこと。
東進して福生四小前から南側の通りに回り、新奥多摩街道に面した福生神明社へ。
拝殿には、先ほど通過した田村醸造場の銘酒・嘉泉の菰樽が奉納され、拝殿前には芭蕉
の「春もやや けしきととのふ 月と梅」の句碑が立っていた。
境内西北側にご神木の2本のクスノキが目につく。約100前、地元の清水寛二氏が自
らの青梅農林高卒業記念に植樹されたものだという。
新青梅街道を福生一小横まで進んで福生駅前交差点を左折し、JR青梅線の福生駅に
16時ちょうどにゴールした。
(天気 快晴一時晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 青梅、拝島、歩行地
羽村市、あきる野市、福生市、歩数 23,500)
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