2020年1月4日(土)
令和初の正月元旦から所沢に初めて開場した、所沢七福神めぐりに出かけた。
リーフレットのコースは、西武池袋線・新宿線の所沢駅から西武狭山線の下山口駅へと
東から西へ向かっているが、私は最寄りの西武池袋線西所沢駅からとして、10時20分
にスタートした。
駅東側の踏切を渡り、線路の南側沿いを東進する。変電所手前で台地下に下り、釣り堀
を過ぎると最初の弁財天の寺・永源寺(えいげんじ)である。
弁財天は境内の西側手前、道路斜向かいの池の弁天堂に祭られていた。
永源寺の弁在天は室町末期の作とされ、お参りすることにより悪星退散、招福開運、金
運財運、芸術芸能の御利益があるという。
立派な山門があるが、開放的な境内には山門横からも入れる。
正面の本堂前に、七福神の御朱印入りの木箱があり、さい銭箱に300円を入れて御朱
印をいただいた。
曹洞宗永源寺は、応永年間(1394~1428)に武蔵国守護代の大石信重が創建し、
天文年間に北条氏照により中興されたとか。天正19(1591)年、徳川家康から寺領
三十石を賜ったという。
南東に進んでT字路の北の「じゅうにん坂」交差点を右折し、桜並木の柳瀬川左岸沿い
の車道を行く。
JAいるま野吾妻支店前を通過して間もなく、豊川稲荷神社の鳥居前へ。手前の山門を
入ると、大黒天の長久寺(ちょうきゅうじ)である。
長久寺は、元弘元(1331)年に玖阿弥陀仏により開山された所沢唯一の時宗の寺院。
本尊は阿弥陀三尊で、領主中根氏の崇敬が厚く、以来念仏道場として現在に至っていると
いう。
真新しい大黒天は山門を入り右手に祭られていた。御朱印はそばのケース内にあり、朱
印代を大黒天前のさい銭箱に入れて朱印をいただくようになっている。
正面に本堂があり、その右手前には時宗宗祖一遍上人(いっぺんしょうにん)像が立つ。
背後には特大のツツジが、上人を囲むように枝を広げていた。
境内には所沢市保存樹木のカシ、イチョウ、サクラなどがある。
境内東側に祭られた豊川稲荷は明治44(1911)年に愛知県の豊川稲荷から分霊さ
れたよう。
さらに東へ、久米境交差点を横断し、細い坂道で所沢街道・県道4号線に上がり西武新
宿線の上を秋津橋で越える。
少し先、「渕上山持明院入口」の標識に従い右折した突き当たりが、恵比寿天の持明院
(じみょういん)である。
持明院は、平安時代の元慶2(878)年に権大僧都寂寛の創建と伝えられているとか。
柳瀬川の深い渕の上にあるので、山号を渕上山(えんじょうざん)の山号としているよう。
本尊は不動明王で「秋津のお不動様」として親しまれ、民話「カッパの詫び状文」でも
知られているという。
本堂は堂々としたコンクリート造り。ま新しいえびす尊は本堂右手で本堂に背を向け、
にこやかに釣り竿を持っていた。御朱印は無人の庫裡(くり)前に用意されている。
本堂左手に新しい三界萬霊塔と明和5(1768)年造立の宝篋印塔(ほうきょういん
とう)が並び、背後には奥武蔵の山並みが望まる。
境内南側はびっしりと竹林に覆われていた。入口に近い境内南東側に、市の保護樹木の
イチョウと比較的新しい二宮金次郎像が目につく。
何組かの参拝者が境内東側に沿った細道を戻っていたので、その道から私も戻ることに
した。裏門から住宅地の中を左右折して、手押し信号際に出た。
西武新宿線の上を越えて久米境交差点まで戻り、南に延びる交通量の多い車道へ。柳瀬
川の二瀬橋を渡って東村山市に入り、信号のあるT字路を西に向かう。
柳瀬川の支流、北川の左岸沿いの遊歩道を進み、「ふれあい」と呼ぶ母子像のある小公
園の先から北に回り込む。
東村山市のマンホールふた
東京・埼玉の都県境に設けられた都立八国山緑地への林間の散策路に上がる。南側が東
村山市、北側が所沢市である。
少し上がると、北側に所沢の中心街に立つ高層ビル群、東側には東村山市の住宅などが
望まれる。
葉を落とした広葉樹林の間を少しで将軍塚がある。
狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、上野、下
野、信濃の8カ国の山々が望めたことから八国山(はちこくやま)と呼ばれ、この付近を
鎌倉街道が通っていた。
元弘3(1333)年、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞(にったよしさだ)
が、近くの小手指ヶ原(こてさしがはら)で幕府軍と対戦した際、この地に一時逗留して
塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられているという。
地形図上に標高88.9m三角点の表示があるので探したら、塚の東側に三等三角点が
見つかった。
少し先には、「狭山丘陵いきものふれあいの里」の案内図が、左手には「将軍塚」の標
柱が立っている。
間もなく北側に、戸建て住宅の並ぶ松が丘一丁目の住宅群への舗装路があったので入り、
中心部を北に抜ける。
北端付近を西進すると、丘陵を背にした大字久米(くめ)にある4つ目の七福神、福禄
寿神の佛眼寺(ぶつげんじ)である。
佛眼寺は、延暦21(802)年に法印法師が開基したと伝えられ、元亀年間(1570
~3)頃に中興開山された真言宗豊山派の寺院。明治維新までは北側の鳩峰八幡宮の別当
を務め、現在も神仏習合の名残が残されているとか。
南側の石段を上がると正面の本堂の右手に新しい福禄寿が、その横には、金色の大きな
一願観音が並んでいる。
御朱印は本堂前の箱にあり、朱印代のお布施はさい銭箱に入れるようになっていた。
その前面右手(東側)には十三重塔が立ち、その周囲を虚空蔵菩薩、大日如来、阿弥陀
如来、観音菩薩、文殊菩薩、不動明王などの鋳造仏が取り囲んでいる。
東側の木組みの門を出て北へ、坂を上がって携帯電話のアンテナが並ぶ先で山ろくを西
に入り、東向きに祭られた久米水天宮へ。
北側にある鳩峰(はとみね)八幡神社の摂社で、祭神は安徳天皇。安産・繁栄の神とし
て近在に知られ、明日、1月5日の大祭には多くの参拝者で賑わい、だるま市も開催され
るよう。
拝殿に参拝したら、10数個の小さいだるまが並んでいた。
北側林間を上がり、広い森に囲まれた鳩峰八幡神社にも参拝する。
鳩峰八幡神社は、延喜21(921)年に京都の石清水(いわしみず)八幡神社を分祀
(ぶんし)して勧請(かんじょう)したと伝わるとか。
元弘3(333)年に新田義貞が鎌倉討伐の折には戦勝を祈願したと伝えられ、境内に
は参拝の時に兜(かぶと)をかけた「兜掛けの松」や、鎧(よろい)を置いたところに祭
られた「鎧稲荷」の祠(ほこら)の旧跡がある。
境内から西へ続く林間の遊歩道をさらに進み、狭山丘陵の自然環境を保全するナショナ
ルトラスト運動「トトロのふるさと基金」で買い取った「トトロの森2号地」を過ぎる。
その前後には「鳩峰公園」と呼ぶ広葉樹林が続く。
送電線が交差する鉄塔の先に市の浄水場があり、その横を右左折して林を出ると、西北
に秩父の大持山、子持山や武甲山、外秩父の堂平山や笠山などが、北に小手指駅周辺の住
宅群などが望まれる。
西北に下った車道の西側が、5つ目の七福神、寿老人の光蔵寺(こうぞうじ)である。
真言宗光蔵寺の創建時期は不明のようだが、本尊阿弥陀如来の台座には「弘法大師御作、
慶長元(1596)年4月再興」などと記されているという。
山門を入った正面に東向きの本堂が構え立ち、新しい寿老人は山門を入りすぐ右手に立
っていた。
その右手には、日頃のストレス発散の相手をしてくれるという「聞くぞう地蔵尊」が右
耳を傾けて待っていた。
北に延びる車道を進み、手押し信号のところで左に入って北西へと斜面を上がり、次の
寺の本堂東側が見えたが入れない。住宅地を右左折して北側の車道に出てさらに南西から
東へと回り込み、布袋尊の本覚院(ほんかくいん)に入る。
本堂の手前右手には鉄柵に囲まれた弁天池があり、奥の弁天島に弁天様を祭る小さな祠
がある。南向きに建つ本堂の周囲に植栽は無く、大変開放的な境内。
真言宗豊山派の本覚院は、南北朝時代の庚暦2(1380)年に創建され、弘治元
(1555)年に中興されたという。
新しい布袋尊は本堂前右手に立ち、朱印代は横のさいせん箱に納めるようになっていた。
最後の海蔵寺へは、リーフレットでは南南東の荒幡富士を経由するようになっているが、
すっかり太陽が陰り薄寒くなってきたので、西に向かって最短ルートを進むことにした。
市立第二幼稚園横を入ってすぐ先で右折して西へ、その先は新興住宅地の中の右左折す
る道を選んで西進する。下山口駅からの車道に入って少しで、7番目の七福神、毘沙門天
の海蔵寺(かいぞうじ)へ。
山門は無く、ここも開放的な境内。本堂は最近の再建のようで真新しい。
海蔵寺は、近くの山口城主一族の岩岡民部小輔道岩入道により、小手指原の戦いや南北
朝の動乱で討ち死にした將士を弔うため、文明5(1469)年に創建されたとか。江戸
時代には、当山13世住職が大和国(奈良)大本山長谷寺の住職の座に就いたという。
ここも新しい毘沙門天は、本堂左手前に槍を持って立っていた。御朱印は本堂右手、無
人の庫裡に入り、志納料300円を納めていただくようになっている。
本堂手前東側にはニシキゴイの泳ぐ庭園があり、本堂左手にはお砂踏みで回れる様に配
置された六地蔵菩薩が祭られていた。
無事所沢七福神めぐりを終え、近くの下山口駅に向かう。先ほど合流したT字路を過ぎ、
柳瀬川の橋を渡る手前に桜淵延命地蔵堂があったのでお参りする。
西武狭山線唯一の中間駅、下山口駅には14時34分に着いた。
(天気 晴、距離 10㎞、地図 所沢・所沢七福神めぐり地図、歩行地 所沢市、東村
山市(少し)、歩数 18,800)
【参考】新しい所沢七福神めぐりの中で、ほかの七福神と異なるのは、
☆御朱印をいただくのは無人で、七福神のそばの箱や本堂前などに用意されているので、
予め300円ずつ用意しておかないと釣り銭をもらえぬことになる。
☆御朱印は色紙に押してもらうのではなく、印刷された寺ごとの色紙(横10.5㎜、
縦14.8㎜)なので、7枚合わせると一般的な大きさの七福神の色紙には貼りきれない。
いただいてきた御朱印を順次並べる。
また、2種類あるリーフレットに記されたコース地図は概略図なので、これだけで巡拝
するのは難しい。別に地形図(2万5千分の1所沢)や、市で発行している「ところざわ
ウオーキングナビの①西エリアと②中央エリア」などが必要かと思われる。
(これは私のようなガラケー人種に限られることで、スマホをお持ちの方は地図ナビゲー
ションで容易に任意の場所を調べられるのかもしれないが・・・)
ほかに、最初の寺、弁在天の永源寺の東、じゅうにん坂交差点から恵比寿天の持明院へ
と、持明院から柳瀬川の橋を過ぎる辺りまでの市道や県道は、車の交通量がかなりあるが
歩道が無くて細い側道だけなので、車には十分注意する必要がある。
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令和初の正月元旦から所沢に初めて開場した、所沢七福神めぐりに出かけた。
リーフレットのコースは、西武池袋線・新宿線の所沢駅から西武狭山線の下山口駅へと
東から西へ向かっているが、私は最寄りの西武池袋線西所沢駅からとして、10時20分
にスタートした。
駅東側の踏切を渡り、線路の南側沿いを東進する。変電所手前で台地下に下り、釣り堀
を過ぎると最初の弁財天の寺・永源寺(えいげんじ)である。
弁財天は境内の西側手前、道路斜向かいの池の弁天堂に祭られていた。
永源寺の弁在天は室町末期の作とされ、お参りすることにより悪星退散、招福開運、金
運財運、芸術芸能の御利益があるという。
立派な山門があるが、開放的な境内には山門横からも入れる。
正面の本堂前に、七福神の御朱印入りの木箱があり、さい銭箱に300円を入れて御朱
印をいただいた。
曹洞宗永源寺は、応永年間(1394~1428)に武蔵国守護代の大石信重が創建し、
天文年間に北条氏照により中興されたとか。天正19(1591)年、徳川家康から寺領
三十石を賜ったという。
南東に進んでT字路の北の「じゅうにん坂」交差点を右折し、桜並木の柳瀬川左岸沿い
の車道を行く。
JAいるま野吾妻支店前を通過して間もなく、豊川稲荷神社の鳥居前へ。手前の山門を
入ると、大黒天の長久寺(ちょうきゅうじ)である。
長久寺は、元弘元(1331)年に玖阿弥陀仏により開山された所沢唯一の時宗の寺院。
本尊は阿弥陀三尊で、領主中根氏の崇敬が厚く、以来念仏道場として現在に至っていると
いう。
真新しい大黒天は山門を入り右手に祭られていた。御朱印はそばのケース内にあり、朱
印代を大黒天前のさい銭箱に入れて朱印をいただくようになっている。
正面に本堂があり、その右手前には時宗宗祖一遍上人(いっぺんしょうにん)像が立つ。
背後には特大のツツジが、上人を囲むように枝を広げていた。
境内には所沢市保存樹木のカシ、イチョウ、サクラなどがある。
境内東側に祭られた豊川稲荷は明治44(1911)年に愛知県の豊川稲荷から分霊さ
れたよう。
さらに東へ、久米境交差点を横断し、細い坂道で所沢街道・県道4号線に上がり西武新
宿線の上を秋津橋で越える。
少し先、「渕上山持明院入口」の標識に従い右折した突き当たりが、恵比寿天の持明院
(じみょういん)である。
持明院は、平安時代の元慶2(878)年に権大僧都寂寛の創建と伝えられているとか。
柳瀬川の深い渕の上にあるので、山号を渕上山(えんじょうざん)の山号としているよう。
本尊は不動明王で「秋津のお不動様」として親しまれ、民話「カッパの詫び状文」でも
知られているという。
本堂は堂々としたコンクリート造り。ま新しいえびす尊は本堂右手で本堂に背を向け、
にこやかに釣り竿を持っていた。御朱印は無人の庫裡(くり)前に用意されている。
本堂左手に新しい三界萬霊塔と明和5(1768)年造立の宝篋印塔(ほうきょういん
とう)が並び、背後には奥武蔵の山並みが望まる。
境内南側はびっしりと竹林に覆われていた。入口に近い境内南東側に、市の保護樹木の
イチョウと比較的新しい二宮金次郎像が目につく。
何組かの参拝者が境内東側に沿った細道を戻っていたので、その道から私も戻ることに
した。裏門から住宅地の中を左右折して、手押し信号際に出た。
西武新宿線の上を越えて久米境交差点まで戻り、南に延びる交通量の多い車道へ。柳瀬
川の二瀬橋を渡って東村山市に入り、信号のあるT字路を西に向かう。
柳瀬川の支流、北川の左岸沿いの遊歩道を進み、「ふれあい」と呼ぶ母子像のある小公
園の先から北に回り込む。
東村山市のマンホールふた
東京・埼玉の都県境に設けられた都立八国山緑地への林間の散策路に上がる。南側が東
村山市、北側が所沢市である。
少し上がると、北側に所沢の中心街に立つ高層ビル群、東側には東村山市の住宅などが
望まれる。
葉を落とした広葉樹林の間を少しで将軍塚がある。
狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、上野、下
野、信濃の8カ国の山々が望めたことから八国山(はちこくやま)と呼ばれ、この付近を
鎌倉街道が通っていた。
元弘3(1333)年、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞(にったよしさだ)
が、近くの小手指ヶ原(こてさしがはら)で幕府軍と対戦した際、この地に一時逗留して
塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられているという。
地形図上に標高88.9m三角点の表示があるので探したら、塚の東側に三等三角点が
見つかった。
少し先には、「狭山丘陵いきものふれあいの里」の案内図が、左手には「将軍塚」の標
柱が立っている。
間もなく北側に、戸建て住宅の並ぶ松が丘一丁目の住宅群への舗装路があったので入り、
中心部を北に抜ける。
北端付近を西進すると、丘陵を背にした大字久米(くめ)にある4つ目の七福神、福禄
寿神の佛眼寺(ぶつげんじ)である。
佛眼寺は、延暦21(802)年に法印法師が開基したと伝えられ、元亀年間(1570
~3)頃に中興開山された真言宗豊山派の寺院。明治維新までは北側の鳩峰八幡宮の別当
を務め、現在も神仏習合の名残が残されているとか。
南側の石段を上がると正面の本堂の右手に新しい福禄寿が、その横には、金色の大きな
一願観音が並んでいる。
御朱印は本堂前の箱にあり、朱印代のお布施はさい銭箱に入れるようになっていた。
その前面右手(東側)には十三重塔が立ち、その周囲を虚空蔵菩薩、大日如来、阿弥陀
如来、観音菩薩、文殊菩薩、不動明王などの鋳造仏が取り囲んでいる。
東側の木組みの門を出て北へ、坂を上がって携帯電話のアンテナが並ぶ先で山ろくを西
に入り、東向きに祭られた久米水天宮へ。
北側にある鳩峰(はとみね)八幡神社の摂社で、祭神は安徳天皇。安産・繁栄の神とし
て近在に知られ、明日、1月5日の大祭には多くの参拝者で賑わい、だるま市も開催され
るよう。
拝殿に参拝したら、10数個の小さいだるまが並んでいた。
北側林間を上がり、広い森に囲まれた鳩峰八幡神社にも参拝する。
鳩峰八幡神社は、延喜21(921)年に京都の石清水(いわしみず)八幡神社を分祀
(ぶんし)して勧請(かんじょう)したと伝わるとか。
元弘3(333)年に新田義貞が鎌倉討伐の折には戦勝を祈願したと伝えられ、境内に
は参拝の時に兜(かぶと)をかけた「兜掛けの松」や、鎧(よろい)を置いたところに祭
られた「鎧稲荷」の祠(ほこら)の旧跡がある。
境内から西へ続く林間の遊歩道をさらに進み、狭山丘陵の自然環境を保全するナショナ
ルトラスト運動「トトロのふるさと基金」で買い取った「トトロの森2号地」を過ぎる。
その前後には「鳩峰公園」と呼ぶ広葉樹林が続く。
送電線が交差する鉄塔の先に市の浄水場があり、その横を右左折して林を出ると、西北
に秩父の大持山、子持山や武甲山、外秩父の堂平山や笠山などが、北に小手指駅周辺の住
宅群などが望まれる。
西北に下った車道の西側が、5つ目の七福神、寿老人の光蔵寺(こうぞうじ)である。
真言宗光蔵寺の創建時期は不明のようだが、本尊阿弥陀如来の台座には「弘法大師御作、
慶長元(1596)年4月再興」などと記されているという。
山門を入った正面に東向きの本堂が構え立ち、新しい寿老人は山門を入りすぐ右手に立
っていた。
その右手には、日頃のストレス発散の相手をしてくれるという「聞くぞう地蔵尊」が右
耳を傾けて待っていた。
北に延びる車道を進み、手押し信号のところで左に入って北西へと斜面を上がり、次の
寺の本堂東側が見えたが入れない。住宅地を右左折して北側の車道に出てさらに南西から
東へと回り込み、布袋尊の本覚院(ほんかくいん)に入る。
本堂の手前右手には鉄柵に囲まれた弁天池があり、奥の弁天島に弁天様を祭る小さな祠
がある。南向きに建つ本堂の周囲に植栽は無く、大変開放的な境内。
真言宗豊山派の本覚院は、南北朝時代の庚暦2(1380)年に創建され、弘治元
(1555)年に中興されたという。
新しい布袋尊は本堂前右手に立ち、朱印代は横のさいせん箱に納めるようになっていた。
最後の海蔵寺へは、リーフレットでは南南東の荒幡富士を経由するようになっているが、
すっかり太陽が陰り薄寒くなってきたので、西に向かって最短ルートを進むことにした。
市立第二幼稚園横を入ってすぐ先で右折して西へ、その先は新興住宅地の中の右左折す
る道を選んで西進する。下山口駅からの車道に入って少しで、7番目の七福神、毘沙門天
の海蔵寺(かいぞうじ)へ。
山門は無く、ここも開放的な境内。本堂は最近の再建のようで真新しい。
海蔵寺は、近くの山口城主一族の岩岡民部小輔道岩入道により、小手指原の戦いや南北
朝の動乱で討ち死にした將士を弔うため、文明5(1469)年に創建されたとか。江戸
時代には、当山13世住職が大和国(奈良)大本山長谷寺の住職の座に就いたという。
ここも新しい毘沙門天は、本堂左手前に槍を持って立っていた。御朱印は本堂右手、無
人の庫裡に入り、志納料300円を納めていただくようになっている。
本堂手前東側にはニシキゴイの泳ぐ庭園があり、本堂左手にはお砂踏みで回れる様に配
置された六地蔵菩薩が祭られていた。
無事所沢七福神めぐりを終え、近くの下山口駅に向かう。先ほど合流したT字路を過ぎ、
柳瀬川の橋を渡る手前に桜淵延命地蔵堂があったのでお参りする。
西武狭山線唯一の中間駅、下山口駅には14時34分に着いた。
(天気 晴、距離 10㎞、地図 所沢・所沢七福神めぐり地図、歩行地 所沢市、東村
山市(少し)、歩数 18,800)
【参考】新しい所沢七福神めぐりの中で、ほかの七福神と異なるのは、
☆御朱印をいただくのは無人で、七福神のそばの箱や本堂前などに用意されているので、
予め300円ずつ用意しておかないと釣り銭をもらえぬことになる。
☆御朱印は色紙に押してもらうのではなく、印刷された寺ごとの色紙(横10.5㎜、
縦14.8㎜)なので、7枚合わせると一般的な大きさの七福神の色紙には貼りきれない。
いただいてきた御朱印を順次並べる。
また、2種類あるリーフレットに記されたコース地図は概略図なので、これだけで巡拝
するのは難しい。別に地形図(2万5千分の1所沢)や、市で発行している「ところざわ
ウオーキングナビの①西エリアと②中央エリア」などが必要かと思われる。
(これは私のようなガラケー人種に限られることで、スマホをお持ちの方は地図ナビゲー
ションで容易に任意の場所を調べられるのかもしれないが・・・)
ほかに、最初の寺、弁在天の永源寺の東、じゅうにん坂交差点から恵比寿天の持明院へ
と、持明院から柳瀬川の橋を過ぎる辺りまでの市道や県道は、車の交通量がかなりあるが
歩道が無くて細い側道だけなので、車には十分注意する必要がある。
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