あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

多摩湖南岸に広がる狭山丘陵を歩く(東京・東大和)

2020-03-19 16:54:32 | 江戸・東京を歩く
 2020年3月17日(火)

 相変わらず毎日のニュースの中心は新型コロナウィルスで、外出もままならぬ日が続く。
今日は2週間ぶりに市外へ、少しだけ電車に乗ってのウオーキングに出かけることにした。

 市外と行っても、わが所沢市からは、都県境の狭山丘陵を超えた南側、2月24日(月)
に歩いた東村山市の西側になる。

 西所沢駅から西武狭山線、西武山口線、西武多摩湖線と乗り継いで5駅、駅間距離では
8.1㎞の武蔵大和(むさしやまと)駅に10時07分に下りた。


 3分後に出発して駅下のコンビニで弁当を求め、都道123号・東村山東大和線を西へ。
線路敷きの築堤斜面にナノハナとショカッサイが花開く。


 都立狭山公園の南端で多摩湖自転車歩行者道を横切り、前川を渡る。左岸上流の民家に
色濃い桜が咲いていた。


 貯水池入口交差点際に、狭山三十三観音霊場15番札所の清水観音堂があるが、柵があ
り入れない。

 狭山観音霊場は狭山丘陵付近に点在し、一説には天明8(1788)年に創設されたと
いわれているようだ。


 近くに、昭和時代から続いているかと思われる小さなたばこ屋さんが残っていた。その
先には、ユニークな建物の豆腐店がある。


 狭山三丁目交差点で都道に分かれ、住宅地を西北に進む。民家の庭先にスイセンがきれ
いな彩り。


 間もなく、真言宗智山派、圓乗院のどっしりした山門前に着いた。

 圓乗院の創建当時の古記録は焼失しているようだが、歴代塔には、賢誉法印(平治元
(1159)年没)を始祖とする記録があるとか。鐘楼門は寛延2(1749)年の造立
という。

 鐘楼門を入ると、花に飾られた可愛らしいお地蔵さんが数体迎えてくれた。
         

 境内はよく手入れされた植栽に囲まれ、さらに階段を上がった正面にコンクリート造り
の本堂が構え立つ。


 境内斜面には、お釈迦様↓、仏足石、聖観音像など.何れもきれいな花で飾られていた。
     

 本堂左手前には平安時代に真言宗を再興した興教大師像が、さらに左手斜面には、たく
さんのお地蔵さんが並んでいる。


    
 その横のソメイヨシノが咲き出した木の下を進み、西北に延びる豊富な雑木林の続く都
立東大和公園に入る。
     
 東大和公園は、宅地開発から守ろうとした地元住民による自然保護活動により残された
貴重な場所。都立公園では初めての丘陵地公園として、昭和54(1979)年に開園し
たという。
     
 園内は起伏に富み、コナラ、アカマツを主体とする雑木林で覆われ、広さは約20㏊と
のこと。

  いまはまだ枯れ枝だが、間もなく芽吹きが始まりそうな落葉広葉樹林に遊歩道が延び
ている。

 このような狭山丘陵の雑木林では昔から、15~20年に1回のサイクルで伐採し、薪
(まき)などの材料に活用していた。

 その切り株からは新しい目が再生するので森林資源を持続的に利用でき、これを「萌芽
更新(ほうがこうしん)」と呼び、この森でも続けられているよう。入ってすぐ、昭和61
(1986)年度更新の立て札がある。
     

 よく手入れされた林の下には陽が差し込み、可愛らしいウグイスカグラが咲き出した。 



 分岐点を北に進むと、アカマツの多いアカマツ広場である。
     


 分岐点に戻り緩やかに下り、森の遊び場と呼ぶ子供用遊具のある一角が東大和公園の西
端になる。


 公園の案内板近くには、数本のヒュウガミズキやサンシュユが咲いていた。
    

 東大和公園の西側に接して二ッ池公園がある。広さは約3,000㎡で、池は前川の源流
部で、昭和30(1955)年代前半までは周辺にあった「狭山田んぼ」の用水だったと
か。水田がなくなった後、昭和53(1978)年に公園として生まれ変わったという。


 池の東側の広場のクヌギが、たくさんの花を付けていた。



 池の南西側斜面には、アセビが花開く。
    

 湖畔二丁目の住宅地の南側を西進し、陸橋の諏訪山橋下を南に抜ける。奈良橋川を渡っ
て都道5号・青梅街道の奈良橋交差点に出て、住宅地の中を西北に進んで再び奈良橋川を
渡る。


 庭先にびっしりとアセビの咲く民家前を過ぎると、山すそに立つ雲性寺が見えてきた。

 雲性寺は永享11(1439)年に堂宇建立と伝えられ、山門は箱根本陣の一の門とし
て使われていたものをもらい受け、昭和26(1951)年に設置したとか。

 山門下には庚申塔や馬頭観世音塔、板東・秩父・西国百ヵ所巡礼供養塔などが立ち並ぶ。

 馬頭観世音塔は寛政9(1797)年、百ヵ所巡礼供養塔は明和9(1772)年と刻
まれていた。


 本堂の中には、正徳6(1716)年造立で珍しい形の庚申塔が安置されていて、「阿
字庚申」と呼ばれているという。


 本堂の右手、庫裡(くり)前の植え込みにはたくさんのボタンが並び、芽がかなり膨ら
んでいた。
         

 本堂の左手に狭山三十三観音霊場18番札所の観音堂があり、、本尊は十一面観世音菩
薩のよう。

観音堂は、昭和26(1951)年に所沢市山口の仏像院から譲り受けて改修したという。

 観音堂前から西側の通りに出た。火の見やぐらの立つ三差路から、すぐ先の三差路を北
に進んで東大和市立郷土博物館前へ。

 だが、博物館は新型コロナウィルスの感染拡大防止で、ほかの多くの施設と同様に休館
していた。

 館の敷地南東道路際に、「いのしし」という野外彫刻の展示がある。
     
 狭山丘陵では昔、イノシシに多くの作物が荒らされていて、江戸時代には大がかりなし
し退治も行われていたようで、それらのことを伝える「東大和のよもやまばなし」から、
イノシシをイメージする作品として平成6(1994)年に制作したという。

 東側の道路を北へ、博物館の背後から階段を上がり、北側に祭られた八幡神社に向かう。

 神社の手前の大和八幡幼稚園では、幼児の元気な声が響く。その横を進んだ突き当たり
の森が八幡神社である。


 八幡神社の創立年代は不詳のようだが、太古より鎮守と公称し、天正3(1575)年
に再興と記されているよう。

 境内は杉などの豊富な樹林に囲まれていて、典型的な鎮守の森の雰囲気を残している。

 拝殿の右手にある小屋に、神社入口の階段横にあったという樹齢約270年と推定され
る杉の大木の根が保存されていた。


 近くの杉木立の中に、市史跡「八幡谷戸遺跡」の説明板があり、昭和53(1978)
年の調査で、縄文時代中期の土器や石器、竪穴式住居跡が良好に保存されていることが分
かったと記されていた。
     


 参道を南に戻り、そばの林に入ると、目の前が開けて展望台があった。郷土博物館の屋
上で、ロープが張ってあったが入り、南面から西側にかけての展望を一望した。


 その辺りから西に広がる森林一帯は市立狭山緑地で、ボランティアによる管理が行われ、
ヤマユリやリンドウなども咲くという。

 市立狭山緑地は、土地所有者から土地を借用する方式で開園し、少しずつ公有地化する
よう事業を進めているようだ。

 緑地内には、狭山丘陵の自然を生かした木道や園路が約1,500mにわたり整備され、
散策できるようになっている。
     
 その遊歩道を西に向かう。案内図が何か所かあり、分岐点には道標も立ち、現在地がど
こか確認できる。ベンチなどの置かれた広場も幾つかあった。


          

 少し進んで緩やかな階段を上がると、上部はよく手入れされたモウソウ竹の竹林。
     


 その先は休憩広場で、南西側に熊野神社への道標があったので少し南側に下って神社に
行く。

 熊野神社の創建時期は不明のようだが、古文書によれば16世紀~17世紀には、この
地に社殿があったと記されているとか。


 境内には力比べに使われた3つの力石があり、重さは75㎏、96㎏、121㎏だとい
う。


 高台なので、木立の少ない一角からは南西側の展望が得られる。


 休憩広場に戻り、木道の道を西北へと下る。下りきったところにも休憩広場があった。


 再び木道の上り道となり、登りきったところは「アカマツ広場」となっていたが、周囲
にアカマツは見られない。

     
 さらに南南西へと木道を下って上がり、道標に従い厳島神社に行くと、社殿は杉木立の
下にひっそりと建っていた。
     

 北側の広葉樹林の中には、芽吹きが始まった木も見られる。
 


 遊歩道の西南端には西口展望広場があり、南西から西方に大山(おおやま)から丹沢山
塊、そして奥多摩へとやや霞む山並みが望まれた。



 北に少しの西口広場で遊歩道は終わり、多摩湖南面を東西に走る多摩湖自転車歩行者道
に入る。



 車道の上をまたぐ豊島橋を進み、その先の休憩舎に13時11分に着き、昼食とする。


 そばのモミジも芽吹きが見られた。
 

 北側の三差路で多摩湖自転車歩行者道に分かれた。多摩湖の2つの貯水池の間を走る車
道を下り、上の貯水池の堰堤(えんてい)際に新しく設けられた自転車と歩行者専用道へ。

 東側には下の貯水池の湖面や、西武遊園地の大観覧車など↑が望まれる。


 上の貯水池の取水塔が間近に望まれ、湖面西方には奥多摩の山並みが見える。


 東北側には埼玉西武ライオンズの本拠地、メットライフドームの上部が。


 堰堤の北端まで進む。湖の北側を走る車道との交差点際に、東京市水道の恩人という中
島鋭治先生を称えた昭和11(1936)年建立の大きな石碑が立っていた。
     


 すぐ北、鹿島台交差点際の歩道には、紅白の桃が咲き出していた。
         

 道路の北側斜面に、崩れかけたかやぶき屋根の長屋門が見える。何度か見ているが立ち
寄ったことが無いので回ってみた。

 「慶性門」の掲額があり、かつて多摩湖上貯水池の西部にあった慶性院の山門という。

 寺院の門としては珍しい長屋門で、村山貯水池(多摩湖)の建設に伴い大正11(1922)
年に寺は現在地の芋窪に移転したが、山門はそのまま取り残され、昭和29(1954)
年にここに移転したよう。

 そのときの調査で、ケヤキの大柱らの墨書により、文久元(1861)年の建立と分か
ったとか。

 平成3(1991)年には東大和市が修復を行ったというが、以来すでに30年近く経
過しており、かやぶき屋根が崩れかけているのもうなづける。

 鹿島台交差点から北に向かって下り、埼玉西武ライオンズの第2球場や新しい建物の横
を進む。


 西側には、山口千手観音の山門や三重塔などが望まれたが、今日は立ち寄るのを省く。


 メットライフドームが間近の、西武狭山線と山口線の西武球場前駅に14時05分に着
いた。


(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 所沢、歩行地 東京・東大和市、埼玉・
 所沢市、歩数 14,100)




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ハクモクレンが咲き出したがあの大きな木は?(埼玉・所沢)

2020-03-11 16:58:36 | 所沢だより
 2020年3月11日(水)

 今日は、あの東日本大震災の発生から9年になりました。私は当日は首都圏には居らず、
3度目の四国遍路の途中でした。

 四国遍路も終盤、あと2日ほどで結願(けちがん)というところで、この日は香川県高
松市内の霊場を巡っていたので、14時46分の発生時刻にも揺れは全く感じず、夕方市
内のビジネスホテルに着いてから初めて大地震のことを知り、大変驚きました。

 東北を始め東日本は大変なことになったと知り、夜半まで埼玉と東京にいた家族にメー
ルで安否確認したことを思い出します。

 今日のテレビでは、復興の様子や追悼の番組が放映されていますが、昨年10月の台風
19号で再び大きな災害を受けたところもあったようで、改めて災害の恐ろしさを知り、
新型コロナウィルスの収束も見えぬ昨今とあわせ、安らかな日々が国内外ともに訪れる日
の早からんことを祈るばかりです。

 話は変わり、この春は近年にない早い春の訪れのようで、市内のハクモクレンがかなり
咲き出しているので、所沢市西郊のあの大木も見ごろかと期待して、市内ウオーキングの
今日のルートはその確認に向かうことにしました。

 国道463号パイパスを西進する途中でも、見頃のハクモクレンが。




 小手指ヶ原交差点を過ぎると人家が少なくなり、幅広いパイパスの向こう側、南側に咲
くナノハナが望まれます。背後のウメの花はほとんど散っているよう。




 その近くに咲くのはユキヤナギでしょうか。




 さて、期待のハクモクレンの大木はと、誓詞橋交差点でバイパスに分かれて所沢西郵便
局方面への市道に入ったのですが、なんだが枯れ枝のよう。


 畑のあぜ道を入って近づいてみたら、今年は花の付きが極端に少なく、花はパラパラと
見えるだけで、咲き出してはいましたがこれでは見ごろになっても寂しい花になりそう。



 昨年の気象条件によるのでしょうか、思いがけないことで残念です。


 ちなみに、この木の昨年、2019年3月20日の花の模様はこちら

 3年前の2017年3月22日はこちらを

 さらに進んで所沢西局で切手を購入し、北側の戸建て住宅地を抜けることにしました。
途中の民家のムラサキモクレン。


         

 別の民家のハクモクレンは見頃に。


         

 さらに進むと、ミツバツツジの咲くお宅も


    

 小手指駅北口から国道463号を東進し、西所沢2丁目の市営住宅ではコブシが咲き出
していました。


    

 今日は最高気温も18℃を超えたようで、花の季節も近そうです。





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信楽高原鐵道の信楽焼製干支切符(滋賀・甲賀)

2020-03-08 18:21:58 | 鉄道
 2020年3月8日(日)

 今日は、カントリーウオークグループの3月例会の日でしたが、新型コロナウィルスの
感染拡大防止のため中止となりました。朝から冷たい雨でもあり、中止はよかったかもし
れません。

 さて、昨夜のNHK総合テレビ「ブラタモリ」の舞台は滋賀県甲賀市(こうかし)で、そ
の後半は、同じNHK総合テレビで今月末まで放映予定の朝ドラ「スカーレット」の舞台で
もある信楽焼の里・信楽(しがらき)でした。
 
 私は信楽には行ったことがありませんが、ブラタモリを見ていて思い出したのが、そう
だ、信楽高原鐵道で以前発行した信楽焼製の干支(えと)切符があったなと思い出し、今
朝探したら見つかりました。

 信楽高原鐵道は、昭和62(1987)年の設立で、7月13日からJR西日本の信楽線
を引き継いで信楽線として開業しました。

 路線は、起点でJR草津線と近江鉄道本線に接続する貴生川(きぶかわ)駅から信楽駅ま
での14.7㎞に6駅あり、全線が甲賀市内です。

 地図と時刻表を見たら、貴生川駅から次の紫香楽宮跡(しがらきぐうし)駅までの距離
は全線の半分以上の9.6㎞もあるのに、その先5.1㎞にある4駅の駅間は0.6㎞か
ら2.2㎞までと短くなっているという、かなり珍しいと思われる駅の配置です。

 その信楽高原鐵道では、平成元(1989)年12月1日に信楽焼の干支切符の発売を
開始し、以後毎年発売を続け、干支が一巡する平成14(2002)年まで続いており、
それを私は毎年購入していました。

 購入した干支切符を発行順に紹介します。最初は平成2(1990)年11月9日まで
通用のひつじ年の切符、以下順にご覧頂くことにします。
       
 この切符の大きさは、横10.3㎝、縦18.1㎝、厚さ1.6㎝、重量約364グラ
ムです。


 この年までは1,020円でした。

 とり年切符は平成4年12月6日までの通用期間、ここから1,200円になりました。
      

 いぬ年の切符は、横13.5㎝、縦13.5㎝、厚さ1㎝、重量約267グラム。


      

 これら干支切符は、当然ながらこれで乗車できるのですが、私は結局行く機会があり
ませんでした。


 うし年切符の通用期限は平成8(1996)年11月21日

 大きさ、横16.8㎝、縦12.6㎝、厚さ約1.2㎝、重量約430グラム

 これは、平成9年(1997)年の開業10周年記念乗車券で、1,360円でした。

 大きさ、横18㎝、縦9㎝、厚さ1㎝、重量約253グラム。







 この巳年切符が1番大きいと思われ、横12.6、縦16.9㎝、厚さ1.6㎝、重量
約387グラムです。
      

      
 一巡の最後、うま年干支切符は平成14(2002)年12月末日までの通用期間です。

 信楽焼の里にふさわしい焼き物製の切符で、このような焼き物の切符を私はほかには持
っていません。

 ただ、私自身のこの先を考えると、いつまで持っていてもいずれ廃棄されるかとも思わ
れ、欲しい方がおられたら譲ろうかなとも考えているところです。

 私の切符コレクションには、ほかに珍しい切符もあるので、それらも今後紹介したいと
思います。

 




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府中市の「古戦場と学びの道」を歩く(東京・府中)(後半)

2020-03-06 16:27:40 | 江戸・東京を歩く
 2020年3月3日(火) (続き) 

 郷土の森公園での食事を終えて13時ちょうどに出発する。


 北西側の新田川緑道に入るところに、「アド街ック天国」で紹介された和菓子の青木屋
の、郷土の森工場売店があったので立ち寄る。

 ほかの店と同じ商品のほか、製造工程で出てしまった2等品を求めやすい価格で直売し
ているという。ミニバームショコラというアウトレット商品らしいものをひとつ購入した。

 売店の背後には、ここが菓子の工場とは思えぬ大規模な工場の建物が見えた。


 新田川緑道をサントリー武蔵野ビール工場のそばまで進んで西南西方向へと回り込む。



 南北に延びる下河原緑道のそばまで進み、芝間通りに入って北北東に向かい、サントリ
ー武蔵野工場の西門前を過ぎる。




 中央自動車道下を北に抜けると、すぐ先が都指定史跡の「三千人塚」。
     
 道路際に「府中の名木百選」の「三千人塚のエノキ」があり、ちょうど剪定(せんてい)
作業中だった。
     

 三千人塚は、江戸時代の地誌「武蔵名勝図絵」などにも紹介された由緒ある塚のよう。

 平成17(2005)年の調査で、元弘3年の分倍河原の合戦で亡くなった3千人の戦
死者を埋葬したという伝承とは関係なく、江戸時代に造られたものと分かったという。

          
 「府中の名木百選」のエノキは、樹高13.5m、幹囲2.5mあり、今は枯れ枝だが
枝を大きく伸ばして立っていた。

     
 市立南保育所前交差点を右折して東への遊歩道へ。ケヤキの古木が続き、中ほどに幼児
の「電車ごっこ」像があり、この道は軌道敷の跡地と記されている。
            
 もと国鉄東京競馬場線の廃線跡で、中央線の国分寺駅から東京競馬場前駅までの旅客線
があったが、武蔵野線の開業に伴い昭和48(1973)年3月末で廃止されたらしい。


 右手には矢崎町防災公園がある。一見普通の公園のようだが、園内には手押しポンプの
防災井戸、普段はベンチになっているかまどベンチ・スツール、災害用仮設トイレ、耐震
用貯水槽など災害時に役立つ設備が用意されているという。


 設定コースは、北へ進めばすぐ先に見える府中本町駅がゴールだが、まだ13時半過ぎ
なので、もう少し東側も回って府中本町駅に向かうことにした。

 JR南武線の下をくぐって線路の東側へ。駅から東京競馬場への高架橋下を抜けるとす
ぐ、競馬場の北西側に天台宗安養寺があった。

 安養寺は、川越の喜多院と同様に慈覚大師により開山されたとか。永仁4(1296)
年に勅命により再興され、江戸時代には寺領15石の朱印状を拝領し、末寺10数ヵ寺を
擁していたという。

 桜並木の参道を進み山門を入る。突き当たりは観音堂で、背後間近に東京競馬場の観覧
席が望まれる。

 本尊の観音菩薩は浅草寺の分体とか。多摩川三十三所観音霊場第5番札所である。 


     


 正面上部に大正8(1919)年奉納の新宿や浅草の商店や旅館の方々のものと、私が
生まれて間もない頃の大師講講中からの掲額が目に入る。     



 本堂は南向きで、そばに「府中の名木百選」で樹高18m、幹囲2.9mの「安養寺の
モミノキ」が立っていた。
     


 北側に隣接するのが真言宗豊山派の妙光院。小さい山門を入り、朱塗りの仁王門をくぐ
った正面が宝形造(ほうぎょうづくり)の本堂である。



 妙光院は真如法親王が貞観元(859)年に開山し、江戸時代には幕府からは寺領15
石の朱印状を拝領しており、当時は末寺20数ヵ寺を擁したとか。多摩八十八ヶ所観音霊
場第23番札所である。

 本堂の右手前には、やはり「府中の名木百選」に選定された樹高25m、幹囲3.9m
の「妙光院のイチョウ」が立っていた。

     
 本堂左手奥には金比羅堂↑があり、隣接して庫裡らし建物があるが、無人なのか閑散と
している。シダレウメの咲く横から山門を出た。


 北へと緩やかに上がり、西側の鳥居を入って大国魂(おおくにたま)神社へ。


 大国魂神社は、第12代景行天皇41(111)年創立という古社。大化の改新後に武
蔵国司が国内諸社の巡拝等により国内の諸神を祭ったので「武蔵総社」と称したとか。

 鎌倉幕府から江戸幕府に至るまでの代々には幕府の崇敬厚く、江戸時代には社領500
石の朱印状を拝領したという。


 拝殿は北向きで、拝殿右手には東京都酒造組合に加盟する9社の銘酒が奉納されていた。







 仁王門には、新型コロナウィルスの感染症予防の張り紙がある。
     
 仁王門を出ると、樹高20m、幹囲2.6mの「府中市の名木百選」に選定された「大
国魂神社のモミの木」が立っていた。
     

 仁王門の北東側にある鼓楼(ころう)は、嘉永7(1854)年の再建。太鼓で時を知
らせる建物で主として寺院に設けられているが、この鼓楼は当初の原型を保っていて、神
社では数少ない貴重な建物のよう。


     
 西側参道際にある寝殿造りの手水舎には、立派な彫刻が施されていて、ほかではあまり
見られない豪華な造り。


    

 手水舎の横から西に延びる六所口通りを進み、府中本町駅には14時25分にゴールし
た。


 今回のコースは、昨年11月17日(日)のカタツムリ歩行同窓会で訪ねたところもあ
るが、初めての場所もたくさん巡った。


 気づいたことは、府中市内には緑道や遊歩道が多いこと↑、緑道以外の一般道にも歩道
があり、さらに小さい公園でもトイレがあるなど、安心してウオーキングできる環境が整
っていることが感じられた。

 使用したウオーキングマップは、縮尺1万分の1なので2万5千分の1地形図にも表示
されていない細い道なども表示されていて、さらに街道や通り、遊歩道などの名、トイレ
の場所、交差点名など、歩く人のための情報がかなり細かく記されているので、大変使い
やすかった。

 そのマップには、また幾つものコースが紹介されているので、それらも歩いてみたい。

(天気 晴後快晴、距離 9㎞、地図 「府中市 水と緑のネットワーク ウオーキング・
 マップ」、歩行地 府中市、歩数 16,800)




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府中市の「古戦場と学びの道」を歩く(東京・府中)(前半)

2020-03-05 18:44:25 | 江戸・東京を歩く
 2020年3月3日(火)

 全国の学校が臨時休校とするよう要請された翌日、ひな祭りの今日は新型コロナウィル
ス感染の恐れが少ない、短時間で行ける場所へウオーキングに出かけることにした。

 思いついたのは、3日前の2月29日(土)のテレビ東京「出没!アド街ック天国」で
紹介された、東京・府中市の分倍河原(ぶばいがわら)周辺。

 昨年秋、入手した「府中市 水と緑のネットワーク ウオーキング・マップ」の「古戦場
と学びの道」コースを中心に歩くことにした。


 JR武蔵野線の始発駅で南武線とも接続する府中本町駅に10時10分に着き、5分後
にスタートした。

 北口を出て階段を下り、西に延びる緩やかなカーブの細道を進む。御殿下公園の北側で
鎌倉街道へ。


 路傍に、文政5(18322)年造立の庚申塔が立っていた。
    

 北側の市立三小は休校のはずだが、校庭には子どもたちの姿が見える。


 次の交差点を右折、北への道路沿いにハクモクレンが開花していた。
    

 踏切際を左折すると、すぐ先がJR南武線の分倍河原駅である。


     
 南側、片町公園際に「新田義貞公之像」がある。新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府
の興亡をかけて火花を散らした、元弘3(1333)年5月の分倍河原合戦をモチーフと
したものとか。
     
 分倍河原合戦の史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに後世に伝えるため、
昭和63(1988)年5月に設置したもの。制作は文化功労者で日本芸術院会員の富永
直樹氏という。

 傍らには新しい歌碑も立っていた。
 

 片町公園から南へすぐ、MINANOと書かれてビルを抜ける。その一角に、「アド街
ック天国」で10位だった和菓子店・青木屋の店舗が目につく。


 再び鎌倉街道に出て、京王線の分倍河原駅南側で高架下を西に抜ける。すぐ先の分量橋
際から南に延びる雑田川緑道へ。流れに水は無く涸れていた。


     


 緑道は少し先で左に分かれ、その先は車道を進んで中央自動車道の高架下を抜ける。南
側の新田川分梅公園からは、木々の続く新田川緑道を西進する。



 屋根にこけの生えた東屋(あずまや)の先に「分倍河原古戦場」碑が立ち、そばにその
説明板もあり、元弘3(1333)年5月の新田義貞と執権・北条軍との分倍河原とその
周辺での戦いのことが記されていた。
     


 ちなみに「分倍河原の合戦」が、「アド街ック天国」の第1位であった。


 緑道が右折する手前、分梅(ぶばい)第5公園のところで緑道に分かれて南に向かう。

 緑道のミモザが花開き、公園ではピンクの梅が花いっぱい。



 立派な土蔵のある民家の横を進み、住吉文化センター構内を南に抜ける。そばの住吉町
公園には、休校中の学童やその母親などが何組も時を過ごしていた。



 京王線の高架下を抜けて中河原駅そばまで進み、V字状に折り返して東南東に延びる下
河原緑道へ。

 緑道中央部に紅梅が咲き、幼児2人の彫刻もある。





 下河原通りと交差する手前は南町第3公園で、その南西側には八幡神社が祭られていた。
ここで緑道を離れる。
     


 南西側すぐの南町交番前公園には白梅が花を残し、たくさんのボケが開花し始めている。



 中層住宅の立ち並ぶ南町アパート横を進み、東京多摩郵便局↑と読売新聞社府中支局↓の
2つの大きな建物の間を抜けて、多摩川左岸堤防上の「府中多摩川かぜのみち」と呼ぶ自
転車と歩行者の遊歩道へ。



 河川敷には、昨年10月の集中豪雨で流されたらしい倒木が何10本も見えるが、現在
の流れは中央部のわずかな部分のみに望まれる。



 それらを眺めながら東へ700m前後進む。北側の建物は防災科学技術研究所の観測施
設のよう。

 地下2,700mを超える深さに地震計が設置されていて、東京直下地震の発生メカニズ
ム解明に役立っているのだという。


 東側の広大な緑地は「府中市郷土の森公園」である。南側車道沿いの桜並木の向こうに
何本もの梅が花を見せているが、入口は公園の東南端を回った北側にあるので回り込む。

 ちなみに、府中市郷土の森公園は「アド街ック天国」の第2位であった。


 公園の中央部を貫くT字路の近くに観光物産館がある。入館して地元農産物や食料品な
どを眺める。




 観光コーナーでパンフレットを眺め、牛乳を求めて喉を潤しひと休みする。


 梅林に回るための唯一の入口である郷土の森博物館の入口に行くが、新型コロナウィル
スの感染拡大防止のため、昨日から臨時休館になっていて、残念ながら入れない。

 当然ながら博物館も入館できず、このコースのテーマのひとつ「学びの道」も閉ざされ
たことになるが仕方ない。


 T字路の北東側に入ると、芝生広場の白梅が何本か花を見せていた。


 そばに、ハス池になっている修景池があり、ハスの姿はまだ無いが、池の南側に「ハス
博士大賀一郎先生」胸像がある。


     
 大賀一郎博士は、戦災にあい終戦直前の昭和20(1945)年6月に府中に移り住み、
亡くなるまでの20年間を市内で過ごされたたとのこと。

 その間、2千年前のハスの発芽や当麻寺(たいまじ)に伝わる曼荼羅の研究など多くの
成果を残され、2千年前の蓮は大賀ハスとして現在も国内各地に花を咲かせている。





 修景池の北側には、「緑光燦舞」と呼ぶ彫刻がある。写真は南側↑からと北側↓から。


 池の北西側、広い芝生広場に回り、トイレのそばの休憩棟に12時45分に入り、ベン
チで昼食とした。     (続く)





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