愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 451  歌と漢詩で綴る 西行物語-4  伏見すぎぬ

2025-01-20 09:41:35 | 漢詩を読む

 先に、義清(ノリキヨ、西行)に関して、藤原頼長の日記『台記(タイキ)』(閑休449)中の記事、≪……そもそも西行は、もと兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士なるをもって法皇に仕えたり。……≫、を紹介しました。

 すなわち、義清は、18歳(1135)で家業と言える兵衛尉に任官し、ほどなく鳥羽院の北面の武士として出仕、院の御所を警備するようになります。今回読む歌は、その頃の作と想像される一首で、馬を駆って遠乗り、馬術を磨いているところを思わせます:

 

伏見すぎぬ 岡の屋になほ 止まらじ 

  日野までゆきて 駒こころみん   

 

 スタートは、御所でしょうか。南下して、瞬く間に伏見を過ぎ、鴨川沿いの岡屋も横目に見て突っ走り、日野まで…、風を切って一気に走り抜ける二十歳前後の青年・義清である。パカパカツ、パカパカツ、パカパカツ、…と躍動する馬のヒズメの音も身近に聞こえるようである。 

 今回の歌は、乗馬を詠む特異な歌で、端的に西行の特徴をよく表しているように思われる。西行の歌は、総じて、

・いわゆる“歌語”ではなく、“俗語”がよく用いられており、

・歌に、いわゆる“宮廷歌”にはない、“人間味”が感じられる、と評されている。

  以後、西行の歌を読むに当たって、記憶に留めておきたい点と言えよう。

 

和歌と漢詩 

ooooooooo      

<和歌>

伏見すぎぬ 岡の屋になほ 止まらじ 

  日野までゆきて 駒こころみん [山家集1438]

    [註]〇伏見:山城国伏見、現 京都市伏見区; 〇岡の屋:地名、宇治黄檗の西、宇治川の右岸辺り; 〇日野:岡屋を経て醍醐へ行く途中の地名; 〇駒こころみん:馬の耐久力を試してみよう。

 (大意)伏見は過ぎた、岡屋でも留まらず、日野まで走り続けて、愛馬の持久力を試すことにしよう。 

<漢詩>

 驗馬耐勞       馬の持久力を驗(タメ)す  [下平声十一尤韻]

伏見已経過、  伏見(フシミ) 已経(スデ)に過(ス)ぐ、

岡屋仍不留。  岡屋(オカヤ) 仍(イマナオ) 留不(トドマラ)ず。

猶策到日野,  猶(ナオ)策(ムチウ)ちて日野に到(イタ)らん,

驗馬耐勞優。  馬の耐勞(ガンバリ)優(スグレ)るを驗(タメ)さん。

 [註]〇策:むち打つ; 〇耐勞:労苦に耐えられる。

<現代語訳>

  馬の持久力を驗(タメ)す 

伏見は疾うに過ぎた、

岡の屋でもやはり留まることはない。

猶も 馬に鞭打ち日野まで走り続けん、

馬が耐えうる力の勝れるを試そう。

<簡体字およびピンイン>

     验马耐勞     Yàn mǎ nàiláo 

伏见已経过、 Fújiàn yǐjīng guò,

冈屋仍不留。 gāngwū réng bù liú. 

犹策到日野,Yóu cè dào rìyě,  

验马耐劳优。yàn mǎ nàiláo yōu.  

ooooooooo     

  漢訳に当たって、歌の内容のスピード感は損なわぬよう心掛けた。また「駒こころみん」については、“馬の持久力、あるいは耐久能(耐勞)を試そう”と解釈して漢訳した。しかし時代背景、義清の性格等々を考慮するなら、その解釈だけでは物足りなく思える。義清の心の内に分け入ってみよう。

 この歌における馬の“遠乗り”は、遊興・観光のための“遠乗り”ではなかろう。まず、青年なればこその心に染まぬ諸々の悩みや苦慮すべき事柄に直面し、あれやこれやと堂々巡りに自問自答を繰り返す状況に置かれていた。そんな折、気分転換に“馬の遠乗り(駒こころみん)を”、と心の内の整理のために駒に跨り、駆け抜けた(1案)。

 義清は、代々“武”を以て家業とし、特に上皇院を警護する北面の武士である。日常、日夜“技”を磨き、事ある際へ備える必要のある立場にある。自らの乗馬術を磨く訓練の一環として、“駒よ、さあ行くぞ(駒こころみん)”と、駒に跨り、駆け抜けた(2案)。以上、“駒こころみん”の意図・内容は、単純でなく、多くのことを想像させてくれます。読者のみなさんは如何様に読みますか?

 先ず第2案について考えます。伏見・岡の屋・日野…と、一気に息も切らせず、地名が挙がる調子には、遠距離を一気に走り抜けようとする気概が感じられます。とともに、このような“遠乗り”は、訓練の一環として頻繁に行われていたように想像される。

 なお、当時、武技や芸事など、“一つの道に専心、心を入れて修行すれば、常人の及ばない域にまで達することができる”という、いわゆる“道(ドウ)”の概念が生まれつつあったようである。青年・義清には、武技を極めようと励む一武人の姿が想像されます。

 この歌には、 義清の“一途に物事を考え、決行し、貫き通すという人間性が現れているように感じられ、後々、出家、求道・歌の道と貫き通した生涯が重なってみえる。義清・西行を語り尽くす一首と言えるのではなかろうか。

 第一案については、話がもっと進んだ段階で、世の中の状況や義清の置かれている環境など明らかになった所で、振り返って考えてみたいと思っております。

 

井中蛙の雑録

〇出家された、いわゆる遁世歌人・西行の歌を読んでいて、“抹香臭さ”を感じさせない、むしろ“人間臭”・“人間味”を強く感じます。思い当たる節が多く、読んでいて飽きない点でしょうか。

 

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閑話休題 450  歌と漢詩で綴る 西行物語-3  君が住む

2025-01-13 10:03:17 | 漢詩を読む

 当時の京極太政大臣・藤原宗輔が中納言のころ、鳥羽院の離宮・南殿の中庭一杯に菊の花を献上、植栽した。花が満開の頃でしょう、公重(キミシゲ)の少将が、菊を主題にして歌会を催していて、西行にも加わるよう促された。それに応じて、西行が詠まれたのが、次の歌である:

 

君が住む 宿の坪をば 菊ぞかざる

  仙(ヒジリ)の宮とや 言ふべかるらん [山家集 466]

 

  藤原宗輔の中納言は、保延2 (1136)~6 (1140)年3月の間での職位であることから、明らかに西行として出家(1141年10月15日、23歳)する以前に当たる。

現時点で、明らかに出家前の歌として確認されているのはこの歌のみのようである。少なくとも出家以前に、西行の歌才が世に認められていたことを示す証左と言えよう。

  

和歌と漢詩 

ooooooooooooo      

<和歌>

  (詞書) 京極太政大臣 中納言と申しける折、菊をおびただしき程に仕立てて、鳥羽院にまいらせ給いたりけり。鳥羽の南殿の東面の坪に、ところなきほどにうえさせ給いたりけり。公重(キミシゲ)の少将、人々すすめて菊もてなされけるに、加わるべき由ありければ:

君が住む 宿の坪をば 菊ぞかざる

  仙(ヒジリ)の宮とや 言ふべかるらん [山家集 466]

    [註]〇君:鳥羽上皇; 〇坪:殿舎の間の中庭; 〇仙の宮:仙洞御所、上皇や法皇のいる所、菊の縁で「仙」という。

 (大意)わが君のお住いになる宿の中庭を、菊が一杯に飾られていることだ。これこそまさに、仙の宮-仙洞御所というに相応しい。

<漢詩>   

    賞菊花在宮殿庭    宮殿庭の菊花を賞す       [下平声九青-下平声八庚通韻]

菊花凌亂滿中庭, 菊花 凌亂(リョウラン) 中庭に滿(ミ)つ,

聞言大臣憶君情。 聞言(キクナラク) 大臣 君を憶(オモ)うの情。

應是定名仙洞院,應(マサニ)是(コ)れ 仙洞院(センノトウイン)と定名(ナヅ)くべし,

吾君住在宮殿横。 吾が君 住在(スマ)う宮殿の横。

 [註]〇大臣:京極太政大臣藤原宗輔中納言; 〇憶君情:菊を献上し庭一杯に植えた、鳥羽院への思い; 〇定名:名を付ける、命名する; 〇仙洞院:仙洞御所、菊に因んで名づけられた御所。

<現代語訳>

 宮殿中庭の菊花を賞す

菊花が中庭一杯に咲き乱れており、

中納言が忠君の情を以て献上して植えた菊であるという。

正に仙洞御所と名付けらるべきところで、

吾が君の住まわれる宮殿横の中庭である。

<簡体字およびピンイン>

    赏菊花在宫殿庭    Shǎng júhuā zài gōngdiàn tíng 

菊花凌乱满中庭, Júhuā língluàn mǎn zhōngtíng,    

闻道大臣忆君情。wén dào dàchén yì jūn qíng.     

应是定名仙洞院,Yīng shì dìngmíng xiāndòng yuàn,

吾君住在宫殿横。wú jūn zhù zài gōngdiàn héng.      

ooooooooooooo  

  鳥羽の南殿とは、白河・鳥羽両院の離宮。洛南鳥羽の賀茂川沿いに広大な地域を占め、北殿・南殿・東殿などがあった と。現 京都市南区上鳥羽および伏見区下鳥羽・竹田・中島の一帯、「鳥羽離宮跡公園」としてある。

     義清の曽祖父・佐藤公清以後の父系について整理しておきます。公清以後3代に亘って左衛門尉および検非違使であった。一方、祖父の代から大徳寺家に仕え、知行地として紀伊国・田仲荘の経営に当たっている。

  義清は、15,6歳のころ徳大寺実能(サネヨシ)に出仕。18歳(1135年)時、佐兵衛尉に任官し、間もなく鳥羽院の北面の武士として出仕、院の御所を警護するようになる。その頃、先に触れた、徳大寺公重の菊の会に招かれている。

 “公重の少将”とは徳大寺公重のことである。同氏は、主君・徳大寺実能(サネヨシ)の甥で、実能の猶子となったようである。義清とはほぼ同年配で、職の上でも近い仲であった。

  なお、義清と同年生まれの平清盛も、同時期に鳥羽院の北面の武士として出仕しており、同僚であった。

 

井中蛙の雑録

〇周囲では、皆さん長い休日が続き、 巻き込まれて一緒に楽しませて貰った。内では、本日より、忙しい世界が幕開けする。外では、まだまだ安心できる状況にはない。国内外、落ち着くまでには、時間を要するか。

 

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閑話休題 449  歌と漢詩で綴る 西行物語 2. そらになる

2025-01-06 10:31:12 | 漢詩を読む

  平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した西行(サイギョウ、西行法師、1118~1190)の和歌を鑑賞、また漢詩訳を試みつゝ、その生涯を概観し、人間・西行像を描けるべく務めていていきます。

  俗名は佐藤義清(ノリキヨ)で、鳥羽院の北面武士であったが、23歳の時に出家して西行(僧名 円位)と号し、僧侶として旅に身を置く。旅行きは、時に、今でいうボランテイアとして、社会活動・勧進をしながら、和歌を詠む歌人としての旅であった。

  まず23歳の若さで出家する心を固め、これまで交流のあった人々の前でそれを公表したことを詠った歌を読みます。兼ねて東山のさるお寺にはよく出入りしていたが、偶々、そこで“寄靄述懷 (霞に寄せて懷いを述べる) ”をテーマにした歌会が催されていた。その折、詠んだ歌で、未だ義清の頃の歌である: 

 

  そらになる 心は春の かすみにて

                 世にあらじとも おもひ立つ哉   [山家集723] 

 

  向後、先ず、若い頃の西行(義清)、中でも出家に至る状況あるいはその動機・理由等々、さらには出家後の活動について、遺された歌を鑑賞しながら漢詩化を進め、西行像を構築すべく務めていきます。

 

和歌と漢詩 

ooooooooooooo      

<和歌>

  世にあらじと思い立ちけるころ、東山にて人々、寄靄述懷と云(イフ)事をよめる

そらになる 心は春の かすみにて

  世にあらじとも おもひ立つ哉  [山家集723]

 [註] 〇世にあらじ:出家する、隠遁する; 〇おもひ立つ:出家を思い

  立つ、“たつ”は“霞”の縁語。

 (大意) (現世の諸々のしがらみを捨て)、心は春霞のような“空”の状態にあって、

  出家を思い立ったことだ。

xxxxxxxxxxxxxxx  

<漢詩>

 想起桑門心   桑門の心 想起(オモイタ)つ   下平声十二侵

曾経拜訪東山寺,曾経(カツテ) 東山の寺を拜訪(タズネ)たことあり,

寄靄述懷説素襟。今日「寄靄述懷」の歌会で、素襟(ココロノウチ)を説す。

心不在焉似春靄,心不在焉(ココロココニアラズ) 春の靄(カスミ)に似て,

想起自白桑門心。桑門の心を想起(オモイタ)ち、自白(ジハク)す。 

 [註] 〇桑門:出家すること;  〇寄靄述懷:「靄に寄せて懷(オモイ)を述べる」と題 する歌会; 〇素襟:本心、ありのままの心; 〇心不在焉:成語、心ここにあらず; 〇自白:はっきりと自分の考えを表明する; 〇桑門:出家して修行する人。

<現代語訳>

 出家を思い立つ

曽て東山のお寺には何度か訪ねたことがある、

この度、「寄靄述懷」と銘打つ歌会に遭遇、思いを述べる。

心ここになく、さながら春霞の如き’空’の状態にあって、

出家することを思い立ち決心したことを、表明した。

<簡体字およびピンイン>

 想起桑門心   Xiǎngqǐ sāngmén xīn

曾経拜訪東山寺, Céng jīng bàifǎng dōngshān sì,

寄霭述怀说素襟。 jì ǎi shùhuái shuō sù jīn. 

心不在焉似春霭, Xīn bù zài yān sì chūn ǎi,

想起自白桑门心。 xiǎngqǐ zìbái sāngmén xīn.  

ooooooooooooo  

  歌の上3句と下2句の繋がりは難解である。詞書を加味するなら、「出家すると思い立って、心中諸々の憂いが消え、心が春霞のごとく“空”になっています」ともとれる。

 同時代の公家・藤原頼長の日記『台記(タイキ)』中、義清(西行)の出家2年後の記事[永治(1142)2年3月15日]に、次の記載がある。出家前後の動静について参考となる多くの情報が含まれているようであり、此処に引用しておきます:

 

≪西行法師来りて曰く、一品経(イッポンギョウ)を行ふにより、両院以下、貴所皆下し給ふなり。料紙の美悪を嫌わず、ただ自筆を用いるべしと。余(ヨ)不軽(フギョウ)を承諾す。また余 年を問ふ。答えて曰く、廿五なりと。去々年(オトトシ)出家せり。廿三。そもそも西行は、もと兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士なるをもって法皇に仕えたり。俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世せり。人これを歎美せるなり≫ (「壷齋散人ブログ」から)。

 

 西行が出家したのは23歳の時であることが判ります。また引用部最後の文から、西行は、強いて出家を考えるような世を儚む生活環境にあったわけではなさそうである。兼ねてより仏道に関心を示していて、“寄靄述懷”の集まりにおいて、出家の意思を公表した次第のようである。ただ出家を決心させた動機については、興味のある点として残りますが、追って触れることにします。

  最後の部、“家富み……”について付け加えるなら、佐藤氏は代々、紀の川中流の右岸にあった摂関家の所領で田仲荘と呼ばれる肥沃な農地の在地領主としてその経営を任されていた。すなわち、中央にいる荘園領主に代わって、年貢・荘地・荘民の管理を行っており、経済的には富裕であったのである。

  なお上記『台記』中の個々の話題点については、追々関連する話題に触れる際に参照・解説していきます。  

 

井中蛙の雑録

〇 先ず、出家した時点から開始しました。“歌の巨人”と評される西行の出家前―“青少年時、育つ頃” ―の状況に特に興味があり、暫く、出家前/前後の歌を中心に読んでいきます。

〇これまでに『百人一首』(文芸社、2022)(全100首)、源実朝著『金槐和歌集』(投稿検討中)(110首)および紫式部著『源氏物語』(70首)について漢詩化を試みています。いずれも、本ブログ投稿済み。

 

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閑話休題 448  歌と漢詩で綴る 西行物語 1. 颂春

2025-01-01 08:52:29 | 漢詩を読む

  新年 明けましておめでとうございます。昨年は『源氏物語』の和歌を対象に話を進めて参りました。多くの読者が読まれていることを知るにつけ勇気づけられ、感謝の気持ちで一杯です。

  今年は、ユニークな和歌の巨人・西行(1118~1190)の歌を対象にして、その漢詩化を進めつゝ、『歌と漢詩で綴る 西行物語』と銘打ち、“読みつゝ、西行の生涯が思い描かれるような構成に”  を念頭に進めていくつもりでいます。今年もご愛読、ご声援頂きますようお願い致します。

新シリーズを開始するに当たって、先ずは新年のご挨拶方々、西行の家集『山家集』から目出度い次の春の歌を選び、“颂春”と題した漢詩を添えて、 “仕事初め”と致します:

   門(カド)ごとに 立(タ)つる小松に かざられて

     宿(ヤド)てふ宿に 春はきにけり (『山家集』 春・5) 

  西行は、俗名佐藤義清(ノリキヨ)、出家後は西行(法師、僧名は円位)と号し、生涯、旅に身をおき、歌を詠んだ人である。生涯に約2,300首の和歌を詠まれたとされ、二十一代集の勅撰集で計265首、中でも新古今集中94首と、入撰数第一位とされている。家集に『山家集』など、自選、他撰の多くの歌集がある。

 

和歌と漢詩 

ooooooooooooo     

<和歌>

門ごとに 立つる小松に かざられて

  宿てふ宿に 春はきにけり  [山  春・5] 

 [註] 〇かざられて:飾り付けられて; 〇宿てふ宿に:軒並みにどの家でも。

 (大意) 家々の門には“門松”を立てて飾り、新春の訪れを言祝ぎ、

  また、来たる一年の計を胸に気も新たにするのである。

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩>

 颂春       新春を言祝ぐ  [上平声一東韻]

每門松枝礼意崇, 

 門(カド)每(ゴト)に 松枝(カドマツ)を立てゝ 礼意(レイイ)崇(タカ)く, 

乾坤淑氣日曈曈。

 乾坤(ケンコン) 淑氣(シュクキ) 日(ヒ)曈曈(トウトウ)たり。

人人歓喜春来到, 

 人人 全(スベ)てが 歓喜(カンキ)す 春の到来, 

来者謀蔵在胸中。 

 来者(コレカラサキ)の謀(ハカリゴト) 胸中(ムネノウチ)に蔵(ヒ)めて。  

  [註] 〇颂春:新春を褒めたたえること; 〇礼意:礼の精神;

 〇乾坤:天と地; 〇淑氣:新春の和やかな雰囲気; 〇曈曈:日が出て明るくなるさま; 〇来者:未来、将来; 〇謀:考え、はかりごと、“来者謀”は “一年の計”; 〇蔵:秘める、隠す。

<現代語訳> 

 新春を言祝ぐ 

家ごとに門松を立てゝ 新春の礼を重んじ、

天地に和やかな雰囲気満ちて 朝日輝く。 

どの家でも春の到来を喜び、 

「一年の計」を胸に思い描く。

<簡体字およびピンイン>  

  颂春                        Sòng chūn 

每门松枝礼意崇,  Měi mén sōng zhī lǐ yì chóng,

乾坤淑气日曈曈。  qiánkūn shū qì rì tóng tóng

人々欢喜春来到,  Rén rén huān xǐ chūn lái dào,  

来者谋蔵在胸中。 Lái zhě móu cáng zài xiōng zhōng

ooooooooooooo 

 西行の父系は、平将門の乱を鎮め、平泉の栄華を築き、また“むかで”退治の伝説で知られる俵藤太ごと、藤原秀郷(ヒデサト)に繫がるとされる。さらにその先は、大化の改新の先駆けをなした藤原鎌足・不比等に繫がるようである。

  なお西行の家は、代々左衛門尉(サエモンノジョウ)であったことから、西行の曽祖父・公清(キンキヨ)の頃、佐藤の姓を名乗るようになったとのことである。

 

井中蛙の雑録

〇これまでに、『百人一首』を対象にして、多くの歌人の歌の読み比べ、次いで紫式部(『源氏物語』)および源実朝(『金塊和歌集』)個人の歌複数をじっくりと鑑賞しつゝ、その漢詩化を試みてきました。

ここに西行の歌を取り上げます。これまでとは異なった“歌世界”が展開されるものと期待しているところです。楽しみつゝ、進めていこうと思っています。

〇 読者のコメントを頂けると有難く思います。いろいろな見方、考えが加わると、より充実した内容になるものと思っています。

〇過ぐる一年は、内外ともに騒々しい一年でした。来る年々、平穏・平和な時であってほしいもの と念じている次第です。

 

 

 

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閑話休題 447  漢詩で読む『源氏物語』の歌  (五十四帖 夢浮橋)

2024-12-20 11:05:39 | 漢詩を読む

五十四帖 夢浮橋 (ゆめのうきはし) (薫 28歳)

 薫は横川の僧都を訪ねる。特に親しい間柄と言うわけではなかったが、女一之宮の病に際し、僧都の修法で著しい効果を上げられたことから、薫は大きな尊敬を払うようになっていた。薫は、僧都に事情を語る。浮舟と薫の関係を知った僧都は驚き、浮舟を出家させたことを後悔する。

 薫は、僧都の話を聞き、死んだと思っていた人が生存していることを知り驚く。薫は浮舟との再会を望み、まず、僧都に手紙を書いてもらい、兼ねて引き取り面倒を見ている浮舟の異父弟・小君を使いに出すことにした。

 翌朝、薫は小君を使者とし、小野の浮舟のもとへ向かわせる。小野では、尼君が、ご姉弟でしょう、座敷へ通しましょう と言うのに、浮舟は、出家した姿を見られたくないと思い、小君に逢おうとしない。

 浮舟は、もし生きているなら母にだけは会いたいが、小君にも逢おうとは思わない。また僧都が手紙に書いてある人には、人違いだとして、私はいないことにしてしまいたいです と言う。

 薫からの手紙もあったが、浮舟はそれを開いて見ようともせず、尼君が開いて示した。昔のまゝの手跡で、紙の香も怪しいまでに匂う。次の歌が添えられてあった:

 

 法(ノリ)の師を 訪ねる道を 知るべにて

   思わぬ山に ふみまどふかな   (薫)   

 

 “この人をお見忘れになったでしょうか。行方を失った方の形見にそば近く置いて慰めに眺めている少年です” と小君のことも書かれてあった。

 小君は、恋しい姿の姉に再会する喜びを心に抱いて来たのであったが、落胆して大将邸へ帰った。小君が要領を得ない風で帰って来たのに失望し、薫は、悲しみが却って深まり、いろいろと想像されるのであった。浮舟が誰かに囲われているのではないか などと。

 

五十四帖の歌と漢詩 

ooooooooo     

法の師を 訪ねる道を しるべにて 思わぬ山に ふみまどうかな 

 [註]「訪ねる道」:山路を訪ねることと、仏の道を尋ねることと両方に通じる。

 (大意) 仏法の師と思い尋ね来て、仏の道を道標(ミチシルベ)にしようとしていたのに、                                          あなたの生存を知り、思いがけない恋の山道に迷い込んだことよ。 

 

xxxxxxxxxxx   

<漢詩>   

 情網           情(コイ)の網(ヤミジ)           [下平声二蕭韻]

訪師尋仏法, 師を訪ね 仏法(ブッポウ)を尋ね,

応期得道標。 応(マサ)に期す 道標(ミチシルベ)を得るを。

不図知爾在, 図(ハカ)らずも爾(ナンジ)の在を知る,

迷入路迢迢。 迷い入りし路 迢迢(チョウチョウ)たり。

 [註]〇情網:恋の闇路; 〇仏法:仏の道; 〇迢迢:遥かに遠いさま。   

<現代語訳> 

  恋の闇路

法の師を訪ねて、仏道についての教えを請い、

その道しるべを得ようとしたのだ。

図らずも、そこで汝が生存していることを知り、

遥かな恋の山道に迷い込んでしまったよ。

<簡体字およびピンイン> 

  情网           Qíngwǎng

访师寻佛法, Fǎng shī xún fófǎ,

应期得道标。 yīng qī dé dàobiāo. 

不图知尓在, Bù tú zhī ěr zài,  

迷入路迢迢。 mírù lù tiáotiáo.

ooooooooo     

<漢詩で読む『源氏物語』の歌> 完

 

井中蛙の雑録

〇各帖 歌1~4首を選んで漢詩表現にしつゝ、54帖からなる長編『源氏物語』の概要を‘語って’きました。曲がりなりにも終えることが出来ました。“愛”/“もののあわれ”を詠う和歌を、堅物“漢詩”に“翻って語る”ことの難儀を思い知った次第です。果たして、歌の“思い”が如何ほど伝えられたか、読み直して反省の材料としたいと思っております。

〇一足先に、NHK大河ドラマ『光る君へ』は終了しました。『源氏物語』即「歌物語」と捉えている筆者にとっては、「もう一工夫があっても……」と‘ないものねだり’の思いもありますが。多くの事柄を勉強させてもらいました。中でも、当時の風俗・習慣などは、紙上、筆の記載では得難く、貴重な‘活きた’情報を得ることができました。

〇次のテーマは、<西行の歌の漢詩化>に挑戦してみようと、目論んでおります。

 

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