愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 455  歌と漢詩で綴る 西行物語-8  あはれあはれ

2025-02-17 10:31:51 | 漢詩を読む

 西行の出家前あるいは出家前後の作とされる歌について、出家の動機を探るべく、個々の歌を取り上げ、その漢詩化を進めつつ、内容の検討を進めています。出家の動機の一つとして、”失恋”が考えられており、前回に続き、”恋”に関わる歌を取り上げます。

 前回、自分を産み育てた親さえも恨めしく思う と、恋の苦しみを吐露する歌を読みました。今回の歌は:

 

あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 

  来む世もかくや 苦しかるべき 

 

 斯くも苦しい状況にあるが、今生は致し方のないことだ。だが、来世もそうであろうか、否、好転してほしいものだ と希望を訴えているように思われます。

 

和歌と漢詩    

oooooooooooo     

<和歌>

あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 

  来む世もかくや 苦しかるべき    [山710]

 [註]〇2,3句:現世はたとえどんなに恋に苦しもうと、ままよ、それはそれで仕方がない。

 (大意) ああ、ああ、この世は斯くも苦しいのであるが、それはそれでも仕方ない。そうだとしても、来世もこのように苦しまなければならないのであろうか。

<漢詩>

 現世嘆息   現世の嘆息    [下平声八庚韻] 

唉唉使余厄, 唉(アア)唉(アア) 余(ワレ)を使(シ)て厄(クルシ)める,

沈沈吾恋情。 沈沈(チンチン)たる吾が恋情。

現世真無奈, 現世では真(マコト)に無奈(シカタナシ),

只恐來世縈。 只(タ)だ恐る 來世に縈(マトイ)つくを。

 [註]〇唉唉:(溜息をつく声)ああ;〇厄:悩む、苦しむ; 〇沈沈:沈んでいるさま; 〇無奈:しようがない、しかたない; 〇縈:まといつく、絡みつく。

<現代語訳>

 現世の嘆き

ああ ああ、わたしを苦しませる、

遂げられず、胸奥に沈んだ我が恋情。

現世では仕方ないとしても、

来世でも同じ苦しみが纏わりついてくるのであろうか。

<簡体字およびピンイン> 

 现世叹息         Xiànshì tànxí

唉唉使余厄,Ài ài shǐ yú è,    

沉沉吾恋情.  chénchén wú liànqíng.  

现世真无奈,Xiànshì zhēn wúnài, 

只恐来世萦。zhǐ kǒng láishì yíng

ooooooooooooo     

 “あはれあはれ”と、深く詠歎するフレーズから始まるこの歌は、架空の、創作的な内容というより、現実的状況を想像させる。非常に繊細な心の持ち主、青年・義清(ノリキヨ)の本音であるように思わせる。

 “恋”の話題になると、万葉から平安時代まで一貫して歌の底流にあったと思われる “もののあはれ” の“情、こころ” が思い起こされます。

 今回の歌を含めて、西行の歌でもその潜んでいる“こころ”が表現されていると思われ、“漢詩”化に当たって、最も難儀な点となる。旨く“漢詩”として表現できたか、心細い事ではある。

 

≪呉竹の節々-3≫ ―世情― 

 鳥羽上皇の勧めに従って、崇徳天皇は、4歳の体仁(ナリヒト)親王に、養子にした上で譲位し、近衛天皇としました。ただ、近衛天皇即位の宣命には、体仁親王について、「皇太子」ではなく、「皇太弟」と書かれてあったのでした。すなわち、崇徳天皇は、公式には「子」ではなく、「弟」に譲位したことになり、“院”となる要件を欠いていたことになります。

  公式には、近衛天皇の父は鳥羽上皇であり、鳥羽上皇が引き続き院政を行い、治天の君として実権を保持できることを示しています。鳥羽上皇は、崇徳天皇およびその後裔を追い出すことに成功したわけである。崇徳院は、怒りを胸に仕舞い、グッと抑え、機会はまだあろう、とその時期を待つべく、耐えています。 

 義清にとって、警護対象の鳥羽上皇、一方、年齢も近く、むしろ親愛の情を抱いているであろう崇徳天皇/上皇。上記の如き宮廷内の状況は、義清にとって快い状況ではなかったであろう と推測されます。(続く) 

 

井中蛙の雑録

〇先の≪閑話休題451  …「西行物語」-4   伏見過ぎぬ≫の稿において、義清の“馬の遠乗り”の出発点を“御所”と想定して書き進めました。しかし、出発点が“御所”では、牛車や人々の往来で混んでいるであろう大都市の“街路”を馬に鞭打ち駆けることになる。どうもシックリ行かない。

  以下の如く訂正致します。

―: スタート地点は、伏見近傍、桂川・鴨川の合流点辺り、現「鳥羽離宮跡」、旧白河・鳥羽離宮地内の“馬場”であろう。

 そこを出発、東南方へ走り [伏見] を過ぎ、向きをやゝ南にとり、宇治川に沿って [岡の屋] (現地図上、黄檗の辺り) に、そこで向きを北北東に変え、山麓を走り [日野] (現地図上、醍醐の辺り) に至る。片道の走行距離は、現在の道路事情でも12 km前後と推定される。やはり“遠乗り”である。

〇 “岡の屋”や“日野”の名称は、現行、市販地図帳では見当たりません。これらの地点の確定は、南京都の土地勘のある古い友人がやってくれました。地図上あるいはカーナビなどを使い、走行距離をも算出されました。

 現行地図上、颯爽と風を切って馬を駆る義清の姿が想像・追跡できて、歌の世界が活き活きと蘇ってきます。感謝!! ここにお礼を申し上げます。

〇 ヤーツ!ヤーツ! と馬に鞭打つ一青年・義清。出家前、若い頃の義清の颯爽たる姿である。

23歳で出家後は、恐らくは、菅笠を被り、手甲・脚絆に、ワラジ穿き、錫杖を杖つき、カラン カランと鳴らしながら、北は陸奥、西に四国、東は伊勢…と、歩み続けるお坊さん・西行法師です。向後の歩みは、逐一、本文の部で紹介していきます。乞う、御期待!

 

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閑話休題 454  歌と漢詩で綴る 西行物語-7  かかる身に

2025-02-10 09:24:32 | 漢詩を読む

 青年・義清(ノリキヨ、西行)は、もちろん恋もしたであろう。今回読む歌は、恐らくは思いが遂げられず、非常に悩んでいる状況の歌である。この自分を産み、育てた親をさえ怨みに思うほど、強烈な恋いに悩んでいる様子である:

 

かかる身に 生(オホ)したてけむ たらちねの 

  親さえ辛き 恋もするかな 

 

 普通、親に対しては、「ここまでよく育ててくれた」と、感謝の気持ちを抱くであろうと思うのであるが、むしろ恨みを思うほどに、恋の苦しみに襲われている と訴えている。想いが断たれ、衝撃を覚えた瞬時の失恋の胸の内を詠った歌とは思えない。

   相手に中々想いが伝わらず、縁がないとか、あるいは身分制度の明らかな当時、身分不相応で、手の届きようのない相手に恋情を抱き、心の整理が出来ずに悩んでいる、斯かる状況を想像させる歌のようである。

 

和歌と漢詩 

oooooooooooo     

<和歌>

かかる身に 生したてけむ たらちねの 

  親さえ辛き 恋もするかな  [山家集677] 、[御裳濯歌合26番右]

    [註] 〇生したてけむ:“生したつ”は育て上げる; 〇たらちねの:“母”“親”にかかる枕詞; 〇親さえ辛き:親さえ恨めしく思われる。

 (大意) このような身に育てゝくれた親さえ恨めしく思われるほどに恋の悩みに苛まれています。

 <漢詩>

 悩単思病  単思病(カタオモイ)に悩(ナヤ)む  [上平声十灰韻]

連親扶養我,我を扶養(ソダテ)し親 連(サエ)も,

也看可恨哉。可恨(ウラミ)に看(オモ)う哉(カナ)。

元是入情網,元(モト)は是れ 情網(ジョウモウ)に入り,

緣分尚未媒。緣分(エニシ) 尚(ナ)を未(イマダ) 媒せざるによる。

 [註]〇単思:片思い; 〇元是:もともと…による; 〇入情網:恋の闇路に入る; 〇緣分:縁; 〇媒:仲介する。 

<現代語訳>

 片思いに苦しむ

斯うなるまで私を育てゝくれた親でさえ、

恨めしく思はれることだ。

もとより、私は恋に落ちるも、

縁が未だ媒(ナカダチ)してくれないからである。

<簡体字およびピンイン>

 恼单思病         Hài dān sī bìng 

连亲扶养我,Lián qīn fúyǎng wǒ, 

也看可恨哉。 yě kàn kěhèn zāi.   

元是入情网, Yuán shì rù qíngwǎng,    

缘分尚未媒。 yuánfèn shàng wèi méi. 

ooooooooooooo     

 当時、義清の身の周りの状況を整理しておきます。

 義清は、徳大寺実能(サネヨシ)の随身(15,6歳)となり、後に鳥羽上皇の下北面の武士(19歳)となる。鳥羽上皇の后は、徳大寺実能の妹・待賢門院璋子(タイケンモンインショウシ)で、その第一皇子は崇徳(ストク、1119生)天皇、義清(1118生)より1歳年下である。

 すなわち、義清は、徳大寺家を介して、宮廷中枢との繋がりができ、良い関係にあったことが想像されます。 

 さて、義清が、親を怨むほどに、辛く思い果たせぬ恋の相手とはいかなる御方であろうか。後の世では、その一人として待賢門院璋子を擬する“説“が根強く、それを題材にした“物語”が多数語られています。恋を主題にした義清自身の歌、今回の歌も含めて、恋の相手として‘待賢門院璋子’を念頭において読んでも、さほど違和感を覚えないことは確かである。

 向後、なお他の恋の歌をも読み、考察を進めていきます。なお、義清の生きた世情については、次項≪呉竹の節々-x≫として整理していきます。

 

≪呉竹の節々-2≫ ―世情― 

 鳥羽上皇は、亡祖父・白河法皇と待賢門院璋子との間の子とされる崇徳天皇を嫌い、崇徳天皇を退位させ、さらにその皇子・重仁(シゲヒト)親王にも皇統を渡すまい と策を巡らします。

  鳥羽上皇には、今一人の后(キサキ)、藤原得子(トクコ、美福門院ビフクモンイン)がいて、その子に幼い体仁(ナリヒト)親王がいた。鳥羽上皇は、崇徳天皇に、「体仁親王を養子に迎え、後に天皇にたてる。さすれば自らは上皇として院政を行うことができるではないか」と持ち掛けます。

  院政とは、幼い天皇をその父や祖父が補佐すると言う名目で、政治の実権をにぎる支配の一仕組みである。白河上皇が始めたシステムとされる。即ち、摂政・関白として、摂関家に奪われていた実権を天皇家に取り戻す手立てでもある。

  崇徳天皇は、「なるほど 」と納得して、4歳の体仁親王を養子にして、その上で譲位しました。近衛天皇の誕生である。崇徳天皇は、自ら院として政治が続けられる と期待して、「……有難い……、わが父君は、……」と、喜ばれていたのである。しかしそこには“罠”が仕掛けられていたのでした。

(続く) 

 

井中蛙の雑録

〇先の≪閑話休題451  …「西行物語」-4   伏見過ぎぬ≫の稿において、義清の“馬の遠乗り”の出発点を“御所”と想定して書き進めました。しかし、出発点を“御所”では、牛車の往来で混んでいるであろう大都市の“街路”を馬に鞭打ち駆けることになる。どうもシックリ行かない。

  再検討を要する課題の一点である。

 

 

 

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閑話休題 453  歌と漢詩で綴る 西行物語-6  悪し善し

2025-02-03 10:38:08 | 漢詩を読む

 『山家集』中、前回の歌・“呉竹の節… ”に続いて載っている次の歌を読みます。義清(ノリキヨ、西行)の心情が率直に詠われているように思われる。すなわち、世の物事の善悪が解るだけに苦しい。気にせず、有るがままに生きれば、それなりに生きていけるものを と。

  

 悪し善しを 思いわくこそ くるしけれ  

  ただあらるれば あられける身を 

 

  青年義清は、潔癖症あるいは神経質な性質に思える。自ら気づき、自らを持て余しているようです。なお、此の頃の義清をして善し悪しを判断の対象とされ、自らを苦しませている課題は何でしょう? 

 

和歌と漢詩 

oooooooooooo     

悪し善しを 思いわくこそ くるしけれ

  ただあらるれば あられける身を  [山・1421] 

 [註] 〇思いわく:識別する、区別する; 〇ただ:普通に;   〇あらる:居ることができる、 生きていられる。 

(大意) 善悪を分別する能力があるのは、苦しいことだ。そのようなことに無関心で、普通に生きて行けば、それなりに生きていける身であるのに。

<漢詩>

 恨潔癖脾氣     潔癖な脾氣(タチ)を恨む  [上平声十一真韻]

能分辨世情善惡,  世情の善惡を分辨し能(アタ)うは,

卻使人陷痛苦頻。 卻(カエッ)て人を使(シ)て痛苦に陷らせること頻(シキリ)なる。

憶殺対斯無介意, 憶殺(シキリニオモ)う、斯(ソレ)に対して介意(キニカケル)こと無ければ, 

恰如其分可保身。  恰如其分(ソレナリニ) 身を保つことが可(デ)きようものを。

 [註]〇分辨:識別する; 〇憶殺:しきりに思う; 〇恰如其分:(成) 適切である、分相応である。

<現代語訳>

 潔癖な性質を恨む

世の事柄の善悪がよく解ると

却って苦しみを覚える機会が多くなるよ。

頻りに思うのだが、善悪に関して無関心であれば、

それなりに身を保つことが出来ようものを。

<簡体字およびピンイン>

 恨洁癖脾气    Hèn jiépǐ píqì   

能分辨世情善恶,   Néng fēnbiàn shì qíng shàn è, 

却使人陷痛苦频。   què shǐ rén xiàn tòngkǔ pín.  

忆杀对斯无介意,  Yìshā duì sī wú jièyì,  

恰如其分可保身。  qiàrúqífèn kě bǎo shēn. 

ooooooooooooo     

  義清が出家するに至る動機または理由は何であったのか。義清の歌を鑑賞するに当たって、まず取り組まなければならないのは、出家の動機・理由を探ることであり、延いては、西行の人間性を知ることに繫がると思われる。

  出家の動機・理由として、次の諸点が挙げられ、論じられている:

・厭世説 ―現世からの逃避

     ―友人の死

・失恋説

・純な求道

 さらに、歌の真意を理解するには、作者の生きた時代、作者の置かれた環境等々の理解が必須と思われる。それらの諸点を念頭に置きつゝ、個々の歌の理解とその漢詩化を進めるとともに、並行して、義清が生きた時代の種々相を≪呉竹の節々-x≫と題して、概観していきます。

 

≪呉竹の節々-1≫ ―世相―

 白河上皇が院政を敷いている中、鳥羽天皇(17歳)と藤原璋子(ショウシ/タマコ、19歳、後の待賢門院璋子タイケンモンショウシ)との間に第一皇子・顕仁(アキヒト、後の崇徳天皇)が誕生します(1119)。しかし鳥羽天皇はその誕生を喜ぶことなく、顕仁親王を「叔父子シュクフシ」だと言って、敬遠していた。

  実は、白河院と璋子との関係は、璋子が鳥羽天皇に嫁ぐ前に始まり、その後も続いていて、顕仁親王は、白河院の御子なのであった。即ち、鳥羽天皇の祖父の子である ということで、「叔父子」と称されたのであった。この関係は、当時、当事者はもとより、公然の秘密であったとのことである。

  鳥羽天皇と璋子との間には、男子五人、女子二人が誕生していたが、白河院は、顕仁親王を特に溺愛していた。1123年、顕仁親王が五歳になると、白河院は、21歳の鳥羽天皇を強引に退位させ、顕仁親王を崇徳天皇として即位させます。翌1124年、璋子は院号を宣下され、待賢門院と称されます。 

  1129年、白河院が崩御、享年77。堀河、鳥羽、崇徳3代に亘り治天の君として院政を行ってきており、大往生と言えよう。しかしその間、崇徳天皇初め、白河院よりであった人々に対する鳥羽院の怨念は尋常なものではなかった。

 鳥羽院の崇徳天皇に対する敵愾心は増々強まっていきます。後に大動乱「保元の乱」の起こる“芽生え”の期と言えよう。義清が徳大寺実能の元に出仕するのは、その頃でしょう。(続く) 

 [註]  72代 白河(シラカワ)天皇(1053~1129) 在位1072~1086 

    73代 堀河(ホリカワ)天皇(1079~1107) 在位 1086~1107

    74代 鳥羽(トバ)天皇(1103~1156) 在位 1107~1123

    75代 崇徳(ストク)天皇(1119~1164) 在位 1123~1141 

 

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閑話休題 452  歌と漢詩で綴る 西行物語-5  呉竹の

2025-01-27 10:17:22 | 漢詩を読む

  義清(ノリキヨ、西行)は、世上一般に考えられるような身の上の憂うべきこともなく、またその理由を語ることもなく、23歳で突然出家します。先に、“寄霞述懷”の歌会で、出家する心の内を打ち明けましたが、出家の理由については触れられていません。

 出家の動機・理由について、多くの先人・研究者たちが研究対象とされ、世情、恋愛、厭世等々挙げられているが、実態は未だ謎のままである。ただ、義清の心にそぐわぬ事柄あるいは希望に添わぬ事柄が存在していたであろうことは、遺された歌から想像される。

 以後、歌を読み、漢詩化を試みながら、出家の理由に繫がるであろうと想像される事柄、西行の心の内を探ってみたいと思います。まずは出家を思い始めたころの心境を詠じたであろうとされる一首(参考:寺澤行忠):

 

呉竹の 節繁からぬ 世なりせば 

    この君はとて さしいでなまし 

  

  すなわち、この世の中は、憂いを覚える事柄が多すぎて、いたたまれないよ ということであろうか。

 

和歌と漢詩 

oooooooooooo     

<和歌>

呉竹の 節しげからぬ 世なりせば 

  この君はとて さしいでなまし   [山家集1420]

 [註]〇呉竹の:「節」を言い出す枕詞。竹の節から、「ふし」となり、伏見、  うきふし、節(フシ)に、また節と節の間を節(ヨ)ともいうことから、夜、世、むなし にも掛かる。 

 (大意) もし世の中に憂きことがこれほど多くないならば、この君にこそは と言って、さし出(イデ)てお仕え申したいものを。

<漢詩>

 希求世安寧   世の安寧を希求す   [上平声十二文韻]

現世還如吳竹節, 現世(コノヨ )還(ナオ) 吳竹(クレタケ)の節の如くにして,

憂愁充滿心緒紛。 憂愁(ウレイ) 充滿し 心緒(オモイ) 紛(ミダレ)る。

否則宣言実在主, 否則(サモナクバ) 実在(マサ)に主こそ と宣言(センゲン)し,

拋頭露面侍奉君。 拋頭露面(ホウトウロメン)して 君に侍奉(ツカエ)ん。

 [註]〇呉竹:くれ竹、中国の呉(ゴ)から渡来した竹の意; 〇心绪:心の動き; 〇否則:さもなければ; 〇抛头露面:さし出でる、四字成句; 〇侍奉:仕える。

<現代語訳> 

 世の安寧を希求す

この世はなお呉竹の節に似て、

憂きこと多く 心穏やかでない。

さもなければ、正に主たるお方と 心に決めて、

さし出でて お仕えするものを。

<簡体字およびピンイン> 

  希求世安宁   Xīqiú shì ānníng  

现世还如吴竹节, Xiànshì hái rú wúzhú jié,  

憂愁充满心绪纷。 yōuchóu chōngmǎn xīnxù fēn.    

否则宣言实在主, Fǒuzé xuānyán shízài zhǔ,  

抛头露面侍奉君。 pāotóu lòumiàn shìfèng jūn.    

ooooooooooooo     

  義清の出家の動機・理由については、当人の告記がない以上、正確に判るわけはない。しかし遺された歌等の資料を基に詮索・類推することは、ファンにとっては苦でもあるが、また楽しみでもある。

  本稿では、義清が出家を決断するに至る間、身を置いた私的・公的環境を概観して、“呉竹の節しげからぬ”状況について思いを巡らしてみたいと思います。一言でその時期を表現するなら、やがて迎える大激動・保元の乱(1159)勃発の前夜の頃と言えようか。

  義清は15,6歳の頃、徳大寺実能(サネヨシ)に出仕、18歳(1135)に左兵衛尉に任じられ、鳥羽院に下北面武士として奉仕しています。

  徳大寺実能は、藤原不比等の次男・房前を祖とする藤原北家(閑院流)の裔で、実能に至る間、幾代かで女子が後宮に入り、外戚の地位を得て権力を得、北家嫡流=藤氏長者=摂政関白 と位置付けられるほどに栄えた。実能は、葛野郡衣笠岡(現京都北区)を拓いて山荘を営み、ここに徳大寺を建立した。家名・徳大寺の由来である。

 当時、実能は、左大臣の位にあった。一方、実能の妹に璋子(ショウシ / タマコ、後の待賢門院)がおり、鳥羽天皇(74代)の后である。その第一子に顕仁親王(後の崇徳天皇-75代)および第四子に雅仁親王(後の後白河天皇-77代)と続く。保元の乱に繫がる世の変化における立役者たちである。

  実能の妹・璋子は、男性を魅了するような、色香漂う美人であったようである。歴史の転換の裏で、いろいろな場面、局面で主役を演じさせられていたように思われる。

  以後、≪呉竹の節々-x≫と題して、歴史・世の流れを見つゝ、歌・漢詩に絡めて、義清出家の動機を探っていきたいと思います。

 

井中蛙の雑録

〇先のNHK大河ドラマ『光る君へ』における左大臣・道長(966~1027)の権力・栄華の様をつぶさに見させてもらいました。外戚の意義たるや絶大でした。

〇『光る君へ』から100余年の後、本稿の立役者の一人・左大臣・徳大寺実能(1096~1157)は、妹・璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の后、その第一皇子が崇徳天皇である。外戚として、道長同様に権勢を振るっていたものと想像されます。

 

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閑話休題 451  歌と漢詩で綴る 西行物語-4  伏見すぎぬ

2025-01-20 09:41:35 | 漢詩を読む

 先に、義清(ノリキヨ、西行)に関して、藤原頼長の日記『台記(タイキ)』(閑休449)中の記事、≪……そもそも西行は、もと兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士なるをもって法皇に仕えたり。……≫、を紹介しました。

 すなわち、義清は、18歳(1135)で家業と言える兵衛尉に任官し、ほどなく鳥羽院の北面の武士として出仕、院の御所を警備するようになります。今回読む歌は、その頃の作と想像される一首で、馬を駆って遠乗り、馬術を磨いているところを思わせます:

 

伏見すぎぬ 岡の屋になほ 止まらじ 

  日野までゆきて 駒こころみん   

 

 スタートは、御所でしょうか。南下して、瞬く間に伏見を過ぎ、鴨川沿いの岡屋も横目に見て突っ走り、日野まで…、風を切って一気に走り抜ける二十歳前後の青年・義清である。パカパカツ、パカパカツ、パカパカツ、…と躍動する馬のヒズメの音も身近に聞こえるようである。 

 今回の歌は、乗馬を詠む特異な歌で、端的に西行の特徴をよく表しているように思われる。西行の歌は、総じて、

・いわゆる“歌語”ではなく、“俗語”がよく用いられており、

・歌に、いわゆる“宮廷歌”にはない、“人間味”が感じられる、と評されている。

  以後、西行の歌を読むに当たって、記憶に留めておきたい点と言えよう。

 

和歌と漢詩 

ooooooooo      

<和歌>

伏見すぎぬ 岡の屋になほ 止まらじ 

  日野までゆきて 駒こころみん [山家集1438]

    [註]〇伏見:山城国伏見、現 京都市伏見区; 〇岡の屋:地名、宇治黄檗の西、宇治川の右岸辺り; 〇日野:岡屋を経て醍醐へ行く途中の地名; 〇駒こころみん:馬の耐久力を試してみよう。

 (大意)伏見は過ぎた、岡屋でも留まらず、日野まで走り続けて、愛馬の持久力を試すことにしよう。 

<漢詩>

 驗馬耐勞       馬の持久力を驗(タメ)す  [下平声十一尤韻]

伏見已経過、  伏見(フシミ) 已経(スデ)に過(ス)ぐ、

岡屋仍不留。  岡屋(オカヤ) 仍(イマナオ) 留不(トドマラ)ず。

猶策到日野,  猶(ナオ)策(ムチウ)ちて日野に到(イタ)らん,

驗馬耐勞優。  馬の耐勞(ガンバリ)優(スグレ)るを驗(タメ)さん。

 [註]〇策:むち打つ; 〇耐勞:労苦に耐えられる。

<現代語訳>

  馬の持久力を驗(タメ)す 

伏見は疾うに過ぎた、

岡の屋でもやはり留まることはない。

猶も 馬に鞭打ち日野まで走り続けん、

馬が耐えうる力の勝れるを試そう。

<簡体字およびピンイン>

     验马耐勞     Yàn mǎ nàiláo 

伏见已経过、 Fújiàn yǐjīng guò,

冈屋仍不留。 gāngwū réng bù liú. 

犹策到日野,Yóu cè dào rìyě,  

验马耐劳优。yàn mǎ nàiláo yōu.  

ooooooooo     

  漢訳に当たって、歌の内容のスピード感は損なわぬよう心掛けた。また「駒こころみん」については、“馬の持久力、あるいは耐久能(耐勞)を試そう”と解釈して漢訳した。しかし時代背景、義清の性格等々を考慮するなら、その解釈だけでは物足りなく思える。義清の心の内に分け入ってみよう。

 この歌における馬の“遠乗り”は、遊興・観光のための“遠乗り”ではなかろう。まず、青年なればこその心に染まぬ諸々の悩みや苦慮すべき事柄に直面し、あれやこれやと堂々巡りに自問自答を繰り返す状況に置かれていた。そんな折、気分転換に“馬の遠乗り(駒こころみん)を”、と心の内の整理のために駒に跨り、駆け抜けた(1案)。

 義清は、代々“武”を以て家業とし、特に上皇院を警護する北面の武士である。日常、日夜“技”を磨き、事ある際へ備える必要のある立場にある。自らの乗馬術を磨く訓練の一環として、“駒よ、さあ行くぞ(駒こころみん)”と、駒に跨り、駆け抜けた(2案)。以上、“駒こころみん”の意図・内容は、単純でなく、多くのことを想像させてくれます。読者のみなさんは如何様に読みますか?

 先ず第2案について考えます。伏見・岡の屋・日野…と、一気に息も切らせず、地名が挙がる調子には、遠距離を一気に走り抜けようとする気概が感じられます。とともに、このような“遠乗り”は、訓練の一環として頻繁に行われていたように想像される。

 なお、当時、武技や芸事など、“一つの道に専心、心を入れて修行すれば、常人の及ばない域にまで達することができる”という、いわゆる“道(ドウ)”の概念が生まれつつあったようである。青年・義清には、武技を極めようと励む一武人の姿が想像されます。

 この歌には、 義清の“一途に物事を考え、決行し、貫き通すという人間性が現れているように感じられ、後々、出家、求道・歌の道と貫き通した生涯が重なってみえる。義清・西行を語り尽くす一首と言えるのではなかろうか。

 第一案については、話がもっと進んだ段階で、世の中の状況や義清の置かれている環境など明らかになった所で、振り返って考えてみたいと思っております。

 

井中蛙の雑録

〇出家された、いわゆる遁世歌人・西行の歌を読んでいて、“抹香臭さ”を感じさせない、むしろ“人間臭”・“人間味”を強く感じます。思い当たる節が多く、読んでいて飽きない点でしょうか。

 

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