(50番)君がため 惜しからざりし 命さへ
ながくもがなと 思ひけるかな
藤原義孝 『後拾遺集』恋二・669
<訳> あなたに逢うためなら、どうなっても惜しくはない命だと思っていましたが、その願いが叶った今となっては、少しでも長くあなたとともに生きたいと思うようになったよ。(板野博行)
oooooooooooooo
“命を賭しても……”とまでは言わなくとも、何らかの場面で、この歌に詠われたような経験は、誰しもあるのではないでしょうか。青年歌人の思い詰めた恋が実った折の喜びが素直に詠われているように思われる。
公卿としての血筋もよく、また歌人としての血も存分に承けていたようです。年少の頃に大人を凌ぐ歌才を発揮しています。しかし惜しいことに、21歳の若さで亡くなっています。当時流行した疫病に倒れた ということである。
作者の生涯(?)を追うと、少々涼しく感じます。猛暑の今、考えを巡らせるに相応しいかな と思われる。上の歌は、七言絶句としました。漢詩としても青年の気持ちを“率直に詠えたように”思います。下記ご参照を。
xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [上平声十一真十二文韻]
纯潔的愛情 纯潔な愛情
何以伝懐入夢頻、 何を以ってか懐いを伝えん 夢に入ること頻(シキ)りなる、
不曾惜命為逢君。 曾ては君に逢う為に 命を惜しまず と。
一逢以後念增進、 一(ヒト)たび逢いし以後 念い增進(ゾウシン)す、
却願長生気氛氳。 却って長生を願う気 氛氳(フンウン)たり。
註]
氛氳:気の盛んなさま。
<現代語訳>
純愛
頻りと夢にまで見る君へのこの想いをどのように伝えたらよいか、
曽て君に逢うためには命が惜しいなどと思うことはなかった。
この度やっと逢えてから 想いはますます募ってくる、
今や却って長生きしたいと願う気持ちでいっぱいなのです。
<簡体字およびピンイン>
纯洁的爱情 Chúnjié de àiqíng
何以传怀入梦频, Hé yǐ chuán huái rù mèng pín,
不曾惜命为逢君。 bù céng xī mìng wèi féng jūn.
一逢以后念增进, Yī féng yǐhòu niàn zēngjìn,
却愿长生气氛氳。 què yuàn chángshēng qì fēnyūn.
xxxxxxxxxxxxxxxxx
摂政太政大臣・藤原伊尹(コレタダ、924~972)の執政下で、トントンと出世します。父・伊尹は謙徳公(百人一首45番)として、また曽祖父・忠平(880~949)は貞信公(同26番)として、百人一首に撰出されている。
次の世代の書家で三蹟の一人として名を遺す藤原行成(972~1028)は義孝の子息である。政務ばかりでなく、文の世界でも優れた血をひく一族と言えます。義孝は、さらに容姿端麗、品行方正で詩歌管弦の才能も豊かであった と。
義孝の歌の天才ぶりを示す出来事として、後々面白い逸話が語られている。あるとき、父・伊尹が自宅で連歌の会を催した。その折、次の“上の句(五七五)”を出し、“下の句(七七)”を付けるよう参加者に注文した。
秋はなほ 夕まぐれこそ ただならぬ
[秋というのはやはり夕暮れ時がとびきりだろうね]
参加者で誰も“下の句”を付け得たものはいなかった由。そこで進み出たのが、歳わずか13歳であった義孝、すらすらと次の“下の句”を詠みあげた と。
荻のうわ風 萩の下露
[荻(オギ)の葉の上を吹きすぎる風の音 萩(ハギ)の下葉に結ぶ露の趣き]
参加していた一同感嘆の声を挙げた と。父・伊尹の喜びようはこの上なく、その天才ぶりを御堂・藤原道長に、さらにその娘・上東門院彰子にも使いを送り、報告させた と。上東門院彰子のもとには、紫式部等、名だたる女房がいたはずである。
なおこの歌は、早くから義孝の代表作とみなされていて、藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(1013成立)に、「秋・義孝少将」を付して収められている。義孝は、中古三十六歌仙の一人で、勅撰集に12首撰されており、家集に『義孝集』がある。
一方、義孝は、幼少時から道心深く、父がなくなった際には出家を考えたが、同年に生まれたばかりの行成を見捨てることができず、思いとどまった と。以後も仏教への信仰心が篤く、信仰に関わる逸話が多く伝わっている。
義孝は、香りの強い野菜や食肉は一切断っていた。また仲間の殿上人から酒宴に誘われる機会がある際、食肉類の膳を目にすると、涙を流して、立ち去ることがあった。一方、公務の間も法華経を読誦していた と。
974年秋、都では天然痘が猛威を振るい、挙賢(タカカタ、953~974)・義孝兄弟共に感染して倒れます。寝殿の東西に臥す兄弟の間を、母親は右往左往していた。9月16日の朝、兄が先に亡くなります。
母親が義孝の元に行くと、義孝は床で法華経を誦していた。義孝は母親に「一旦息を引き取っても法華経を読み終えるまで、しばらく生き長えるので、通常通りの葬儀はしないように」と依頼した と。
亡くなった後も、母親や友人たちの夢に出て来て歌を詠んだようである。母親は、「通常の葬儀はしないように」との要望を忘れてしまったようです。義孝は、身体が失われて経の続きが読めなくなり、歎いて次の歌を詠んだ と。
しかばかり 契りしものを 渡り川
かへるほどには 忘るべしやは(後拾遺集 哀傷 藤原義孝)
[そのように約束しましたのに三途の川から帰ってくる間に忘れてしまわれた
のでしょうか]
しばらくして、友人だった藤原高遠の夢で、今は極楽の風に遊んでいる と告げ、また賀縁法師の夢では楽しげに笙(ショウ)を吹いていて、悲しむには及びませんよ との歌を残した。周りの人々は、義孝が極楽に往生したものと確信した と。
<追記>
話が此処まで来ると、筆者の守備範囲を越してしまいます。お後は諸歴史説話書をご参照下さい。真夏日が続く毎日、微少なりとも“涼”を感じられたならば幸い。
ながくもがなと 思ひけるかな
藤原義孝 『後拾遺集』恋二・669
<訳> あなたに逢うためなら、どうなっても惜しくはない命だと思っていましたが、その願いが叶った今となっては、少しでも長くあなたとともに生きたいと思うようになったよ。(板野博行)
oooooooooooooo
“命を賭しても……”とまでは言わなくとも、何らかの場面で、この歌に詠われたような経験は、誰しもあるのではないでしょうか。青年歌人の思い詰めた恋が実った折の喜びが素直に詠われているように思われる。
公卿としての血筋もよく、また歌人としての血も存分に承けていたようです。年少の頃に大人を凌ぐ歌才を発揮しています。しかし惜しいことに、21歳の若さで亡くなっています。当時流行した疫病に倒れた ということである。
作者の生涯(?)を追うと、少々涼しく感じます。猛暑の今、考えを巡らせるに相応しいかな と思われる。上の歌は、七言絶句としました。漢詩としても青年の気持ちを“率直に詠えたように”思います。下記ご参照を。
xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [上平声十一真十二文韻]
纯潔的愛情 纯潔な愛情
何以伝懐入夢頻、 何を以ってか懐いを伝えん 夢に入ること頻(シキ)りなる、
不曾惜命為逢君。 曾ては君に逢う為に 命を惜しまず と。
一逢以後念增進、 一(ヒト)たび逢いし以後 念い增進(ゾウシン)す、
却願長生気氛氳。 却って長生を願う気 氛氳(フンウン)たり。
註]
氛氳:気の盛んなさま。
<現代語訳>
純愛
頻りと夢にまで見る君へのこの想いをどのように伝えたらよいか、
曽て君に逢うためには命が惜しいなどと思うことはなかった。
この度やっと逢えてから 想いはますます募ってくる、
今や却って長生きしたいと願う気持ちでいっぱいなのです。
<簡体字およびピンイン>
纯洁的爱情 Chúnjié de àiqíng
何以传怀入梦频, Hé yǐ chuán huái rù mèng pín,
不曾惜命为逢君。 bù céng xī mìng wèi féng jūn.
一逢以后念增进, Yī féng yǐhòu niàn zēngjìn,
却愿长生气氛氳。 què yuàn chángshēng qì fēnyūn.
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摂政太政大臣・藤原伊尹(コレタダ、924~972)の執政下で、トントンと出世します。父・伊尹は謙徳公(百人一首45番)として、また曽祖父・忠平(880~949)は貞信公(同26番)として、百人一首に撰出されている。
次の世代の書家で三蹟の一人として名を遺す藤原行成(972~1028)は義孝の子息である。政務ばかりでなく、文の世界でも優れた血をひく一族と言えます。義孝は、さらに容姿端麗、品行方正で詩歌管弦の才能も豊かであった と。
義孝の歌の天才ぶりを示す出来事として、後々面白い逸話が語られている。あるとき、父・伊尹が自宅で連歌の会を催した。その折、次の“上の句(五七五)”を出し、“下の句(七七)”を付けるよう参加者に注文した。
秋はなほ 夕まぐれこそ ただならぬ
[秋というのはやはり夕暮れ時がとびきりだろうね]
参加者で誰も“下の句”を付け得たものはいなかった由。そこで進み出たのが、歳わずか13歳であった義孝、すらすらと次の“下の句”を詠みあげた と。
荻のうわ風 萩の下露
[荻(オギ)の葉の上を吹きすぎる風の音 萩(ハギ)の下葉に結ぶ露の趣き]
参加していた一同感嘆の声を挙げた と。父・伊尹の喜びようはこの上なく、その天才ぶりを御堂・藤原道長に、さらにその娘・上東門院彰子にも使いを送り、報告させた と。上東門院彰子のもとには、紫式部等、名だたる女房がいたはずである。
なおこの歌は、早くから義孝の代表作とみなされていて、藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(1013成立)に、「秋・義孝少将」を付して収められている。義孝は、中古三十六歌仙の一人で、勅撰集に12首撰されており、家集に『義孝集』がある。
一方、義孝は、幼少時から道心深く、父がなくなった際には出家を考えたが、同年に生まれたばかりの行成を見捨てることができず、思いとどまった と。以後も仏教への信仰心が篤く、信仰に関わる逸話が多く伝わっている。
義孝は、香りの強い野菜や食肉は一切断っていた。また仲間の殿上人から酒宴に誘われる機会がある際、食肉類の膳を目にすると、涙を流して、立ち去ることがあった。一方、公務の間も法華経を読誦していた と。
974年秋、都では天然痘が猛威を振るい、挙賢(タカカタ、953~974)・義孝兄弟共に感染して倒れます。寝殿の東西に臥す兄弟の間を、母親は右往左往していた。9月16日の朝、兄が先に亡くなります。
母親が義孝の元に行くと、義孝は床で法華経を誦していた。義孝は母親に「一旦息を引き取っても法華経を読み終えるまで、しばらく生き長えるので、通常通りの葬儀はしないように」と依頼した と。
亡くなった後も、母親や友人たちの夢に出て来て歌を詠んだようである。母親は、「通常の葬儀はしないように」との要望を忘れてしまったようです。義孝は、身体が失われて経の続きが読めなくなり、歎いて次の歌を詠んだ と。
しかばかり 契りしものを 渡り川
かへるほどには 忘るべしやは(後拾遺集 哀傷 藤原義孝)
[そのように約束しましたのに三途の川から帰ってくる間に忘れてしまわれた
のでしょうか]
しばらくして、友人だった藤原高遠の夢で、今は極楽の風に遊んでいる と告げ、また賀縁法師の夢では楽しげに笙(ショウ)を吹いていて、悲しむには及びませんよ との歌を残した。周りの人々は、義孝が極楽に往生したものと確信した と。
<追記>
話が此処まで来ると、筆者の守備範囲を越してしまいます。お後は諸歴史説話書をご参照下さい。真夏日が続く毎日、微少なりとも“涼”を感じられたならば幸い。