愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 162 飛蓬-69 小倉百人一首:(貞信公)小倉山

2020-08-28 10:18:06 | 漢詩を読む
(26番)小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびのみゆき待たなむ
貞信公『拾遺集』雑集・1128

<訳>
小倉山の峰の紅葉よ。お前に人間の情がわかる心があるなら、もう一度天皇がおいでになる(行幸される)まで、散らずに待っていてくれないか。(小倉山荘氏)

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京都市の北西部に位置して、大堰川を挟んで南に嵐山、北に対座するのが小倉山。華やかな彩に染められた紅葉の頃の小倉山周辺は、現代もなお、格別素晴らしい。大堰川に遊んだ宇多上皇が、息子(醍醐天皇)にも見せたいものだ と漏らした と。

作者・藤原忠平は、宇多上皇が感動して漏らした意を汲んで、“醍醐帝はお出ましになるであろうから、それまで散ることなく、その装いを保っていてくれよ”と 紅葉に向かって訴えています(『拾遺和歌集』の詞書に拠る)。暗に醍醐天皇に行幸をうながしています。


やや日が西に傾いて、小倉山の南面が一杯に秋の陽光を受けている。秋風に微かに揺れている川面に小倉山の影が映っている。このような情景を想像して、漢詩にしてみました。下記ご参照。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声五微韻]
 賞紅葉      紅葉を賞(メ)でる
小倉山峰披錦衣, 小倉山の峰は錦衣(キンイ)を披(ハオ)り,
在川面晃映夕暉。 川面に晃(ユ)れて 夕暉(ユウキ)に映(ハ)える。
喂楓葉要有情義, 喂(オイ) 楓葉よ 要(モシ) 情義(ジョウギ)が有らば,
至再行幸保秋緋。 再(イマイチド)の行幸(ギョウコウ)まで秋緋(シュウヒ)を保ってくれ。
 註]
  小倉山:京都市の北西嵯峨にある紅葉の名所、大堰川を挟んで嵐山と向かい 
   合う山。             錦衣:美しい着物、ここでは紅葉。
  喂:[感嘆詞]:もしもし、おい。   情義:人情と義理。
  秋緋:深紅色の秋の情景、ここでは紅葉の風景。
  行幸:天皇のお出まし。
                
<現代語訳>
 紅葉狩り  
小倉山の峰は錦衣を羽織っているように艶やかで、
大堰川の川面に影を揺らして、夕日に映えている。
おい、紅葉よ、もし人の情があるなら、
今一度の行幸があるまで、葉を落とすことなく美しい秋の彩を保っていてくれ。

<簡体字およびピンイン>
赏红叶 Shǎng hóngyè
小仓山峰披锦衣, Xiǎocāng shān fēng pī jǐn,
在川面晃映夕晖。 zài chuān miàn huàng yìng xīhuī.
喂枫叶要有情义, Wèi fēngyè yào yǒu qíngyì,
至再行幸保秋绯。 zhì zài xíngxìng bǎo qiū fēi.
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歌の作者・貞信公は藤原忠平(880~949)の没後の諡(オクリナ)である。関白太政大臣・藤原基経の四男で、藤原氏が栄える礎を築いた大人物とされている。60代醍醐天皇(在位899~930)の元で出世を重ね、早世した嫡男・時平(871~909)の後を承けて「延喜の治」と呼ばれる政治改革を行っている。

忠平は、61代朱雀天皇(在位930~946)の摂政となり、従一位に叙せられ、太政大臣に昇る。朱雀天皇の元服とともに関白に任じられる。かかる政治家でありながら、百人一首に撰ばれる歌を遺していることは、特筆に値するのではなかろうか。勅撰和歌集入集十三首。

忠平について語られる逸話の一つに次のようなのがある。醍醐天皇の頃、宮中に人相占い師を呼んだことがある。寛明太子(後の朱雀天皇)を見て、「容貌美に過ぎたり」と判じた。時平には「知恵が過ぎたり」、菅原道真には「才能が高すぎる」と。

忠平に関しては「神職才貌、すべて良し。長く朝廷に仕えて、栄貴を保つのはこの人」と絶賛した と。後の世の展開を見ると興味ある評価と言えそうである。親政を進めようと図る天皇、権力を強めようと図る外戚側との葛藤が繰り広げられた時代であった。

時の左大臣・時平が、天皇側に近い右大臣・菅原道真を陥れて大宰府に追いやった(901)。二年後に道真が没した後、都では時平縁者や醍醐天皇の病死、宮殿への落雷等々、異変が起こる。スワ!道真の怨霊の祟りか と。道真を雷神として祀り、復権させている。

藤原一族の内、道真の左遷に関わった人々の跡目は途絶えているとされている。一方、忠平の筋は栄え、3代後には道長が出て、藤原全盛期を迎えている。なお、忠平は、道真の左遷に反対であったと言われている。

和歌の世界でも才人が綺羅星の如く輩出している。本稿ですでに取りあげた歌人を挙げると、伊尹(閑話休題-161)・義孝(同-160)、公任(同-148)・定頼(同-147)、時代がグッと下って俊成(同-155)・定家(同-156)・寂蓮法師(同-152)、忠通(同-158)・慈円(同-153)と続く。

和歌の舞台、小倉山を含む一帯は平安時代には貴族の遊覧の場所として人気があったようです。この歌ができて以降、大堰川への行幸が毎年行われるようになったとか。また定家が百人一首を撰した「小倉山荘」はこの山の東の麓にあったとされている。

小倉山は歌枕として度々出てきます。やはり秋の紅葉の華やかで明るい風景が多く詠われているようです。和歌ではよく掛詞の技法が用いられて、表現できる世界を広げていますが、小倉山についても、例外ではありません。

ただ小倉山の“小倉”の読みを“お暗”に掛けて、“薄暗い”情景を詠う歌も多々あります。ここで“薄暗い”情景と“明るい”情景の「仲を取り持った(?)」歌を紹介しましょう。梨壷の五人の一人・大中臣能宣の歌です。

紅葉(モミジ)せば あかくなりなむ 小倉山
   秋待つほどの 名にこそありけり (『後拾遺和歌集』)
  [紅葉した時にはきっと赤(アカル)くなることだろう小倉山 「小暗(オグラ)」と
  いう名は秋の来るのを待っている間の名前であったのだ]
  
コメント
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