愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 161 飛蓬-68 小倉百人一首:(謙徳公)あはれとも

2020-08-21 09:12:39 | 漢詩を読む
  (45番) あはれとも いふべき人は 思ほえで
        身のいたずらに なりぬべきかな  
          謙徳公 (藤原伊尹) 『拾遺集』恋五・950
<訳> 私のことを哀れだと言ってくれそうな人は、他には誰も思い浮かばないまま、きっと私はむなしく死んでいくのに違いないのだなあ。(小倉山荘氏)

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あなた以外は考えられないのだよ、なぜにこうも冷たいの?と、純な恋心を詠っているように思える。作者は、のちに摂政・太政大臣にまで上り詰める方で、権謀術数も並みならぬ心得ある方と想像されますのに。女心を捉えることの難しさということでしょうか。

作者・藤原伊尹(コレタダ、924~972)は、前回取り上げた義孝の父親で、謙徳公は漢風の諡(オクリナ)である。歌人として特筆すべき業績は、和歌所・「梨壷」の別当(長官)として、『万葉集』の訓釈(読解)および『後撰和歌集』(第二代)の編纂に当たったことでしょう。

漢詩では、歌を作った背景・意図を明らかにするため、この歌に添えられていた『拾遺和歌集』の詞書の要約を“序”として添えました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>   [去声十八嘯韻]
 冷酷的行為    冷酷な行為(シウチ)
序:我求愛了一个可愛的女性。她対我簡慢得很,越来越冷淡,連最后拒絶了
    会見。可向她恋心越発激烈化起来。于是写了一首絶句。
哀哉君拒我求愛, 哀しいかな 君は我の求愛を拒んだ,
誰憫恤余不能料。 誰が余(ワタシ)を憫恤(アワレ)に思うかは 料(ハカリ) 能(アタ)わず。
従来熱恋燃不已, 従来 熱い恋 燃ゆること已(ヤ)まず,
不久白白真死掉。 不久(ホドナ)く白白(ハクハク)として真(マコト)に死掉(シトウ)するか。 
 註] 
簡慢得:つれなく、粗末に。   余:わたし。
憫恤:不憫に思う、同情する。  料:予測する、推測する。
熱恋:熱烈な恋、恋焦がれる。  不已:…してやまない。
不久:やがて、ほどなく。    白白:むなしく、いたずらに。
死掉:死んでしまう。
<現代語訳>
 冷たい仕打ち
  序:私は、好きな女性に求愛したが、つれなく、冷たくされ、遂には逢っても
  もらえなくなった。しかし彼女への思いは増々激しくなってきた。そこでこの
  詩を詠んだ。   
哀しいかな、君は私の求愛を断った、
他に誰か私に同情してくれる人は予想だにできない。
わたしの恋い焦がれる思いは、これまでに止むということはなく、
やがてむなしく死んでしまうのであろうよ。
<簡体字およびピンイン>
 冷酷的行为    Lěngkù de xíngwéi
  序:我求爱了一个可爱的女性。她对我简慢得很,越来越冷淡,连最后拒绝了
    会见。可向她恋心越发剧烈化起来。于是写了一首绝句。
哀哉君拒我求爱, Āi zāi jūn jù wǒ qiú'ài,
谁悯恤余不能料。 Shéi mǐnxù yú bù néng liào.
从来热恋燃不已, Cónglái rèliàn rán bù yǐ,
不久白白真死掉。 bùjiǔ báibái zhēn sǐ diào.
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藤原伊尹は、性格は豪奢を好み、才色兼備の相当な貴公子であったようです。父・師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、それを守るような性質ではなかった。そのような伊尹が、上掲のような歌を詠む情景など想像できませんが。

伊尹は、和歌に優れ、『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に38首を入首、また家集『一条摂政御集』(『豊蔭集』)がある。

伊尹の妹・安子が、62代村上天皇の中宮となり、設けた第二子および第四子が、それぞれ、冷泉(63代)および円融天皇(64代)と続く。さらに娘の懐子が冷泉天皇の女御として入内し、師貞親王(後の65代花山天皇)が誕生する。

父・師輔の代から着々と権力の座を築き上げ、外戚の力を発揮して、遂に伊尹は摂政・太政大臣の座まで昇り詰め(971)、氏の長者として名実ともに政権を掌握します。しかし翌年病に倒れ、上表して摂政を辞し、間もなく没する(享年49歳)。糖尿病であったと言われている。

村上天皇の御代は、和歌文化が花開いた時であったようです。後の世まで<“平兼盛”(忍ぶれど色に出でにけり…)対“壬生忠見”(恋すてふわが名は…)>の取り番が語り継がれている「天徳内裏歌合」を催した(960)のが村上天皇であった(閑話休題-132 & 133参照)。

村上天皇は『万葉集』の訓釈および『後撰和歌集』の編纂を行うよう勅命を出し、そのため御所内に和歌所を設けた(951)。勅命を進めるため、五人の撰者(寄人ヨリウド)が指名され、その長官(別当)に藤原伊尹が任命された。

選ばれた五人の歌人は、坂上望城(モチキ)、紀時文(トキブミ)、大中臣能宣(ヨシノブ)、清原元輔(モトスケ)および源順(シタゴウ)である。なおこの和歌所の中庭には梨の木が植えられていたので、そこを“梨壷”、また五人の歌人は「梨壷の五人」と称されている。

『万葉集』4500首余のうち約4000首の漢字に訓読をつけた「梨壷の五人」の功績や“大なり”と言える。今日我々が『万葉集』に親しめるのも彼らの努力の結果と言えよう。また全20巻、1400首余の『後撰和歌集』も完成している(958)。

村上天皇には、鶯宿梅(オウシュクバイ)の有名な逸話がある。その概要はこうである。

ある時、清涼殿の前の梅の木が枯れてしまい、帝は代わりを探すよう命じた。使いの者はあちこちと探して、都の外れにある家でやっと見つけた。「主命である」と告げて、掘り返し、内裏に移植した。

その梅は、前にあったものに勝るとも劣らぬ立派な紅梅で、天皇は大変喜んだ。ふと見ると、枝に短冊が結ばれている。不審に思い開けて見ると、下のような歌が女字で認められていた。

作者は只者ではないと調べさせると、紀貫之の娘・紀内侍(キノナイシ)ということであった。彼女は、父が亡くなった後、父が手入れしていたその紅梅を父の形見として慈しんでいたとのこと。そうと知った天皇は「さても残念なことをしてしまったものだ」と言われた由。

勅なれば いともかしこし 鶯の
   宿はと問はば いかが答へむ(『拾遺和歌集』雑下・よみ人しらず)
  [勅命とあらばたいへんおそれ多いことなのでお断りはできませんが、
もしこの紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて
我が家はどうなってしまったかと尋ねられたら、
さて私はどのように答えたらよいのでしょう]
コメント
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