91番 きりぎりす 鳴くや霜夜(シモヨ)の さむしろに
衣(コロモ)かたしき ひとりかも寝む
後京極摂政前太政大臣(九条良経(ヨシツネ)『新古今集』秋・518)
<訳>こおろぎが鳴く、霜の降りる寒々とした筵に、衣の片袖を敷いて、私はただ独りぼっちで寝るのであろうか。 (板野博行)
ooooooooooooo
霜が降り寒さも増してきたが、互いに衣の袖を枕にしあい、重ねて掛ける相手もなく、一人で寝なくてはならい と侘しい思いを詠っています。妻が亡くなった直後に詠まれたと伝えられています。
作者は、平安末~鎌倉初期の公卿・歌人・書家、藤原(/九条)良経(1169~1206)。摂関家直系、九条家2代の当主で、トントンと出世し、従一位・太政大臣まで昇り詰めたが、38歳に突然没している。勅撰和歌集『新古今和歌集』の仮名序を執筆、巻頭歌を飾っている。
詩題を「亡き妻を憶う」として、五言絶句の漢詩にしました、歌の趣旨を限定する恨みはありますが。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
憶已故的妻子 已故的妻子(ナキツマ)を憶(オモ)う
唧唧蟋蟀鳴, 唧唧(チチ)として蟋蟀(シッシュツ)鳴き,
霜夜早寒生。 霜夜 早(ツト)に寒(カン)生(ショウ)ず。
鋪衣一只袖, 衣の一只(カタホウ)の袖を鋪(シ)き,
筵床該臥煢。 筵床(エンショウ)に煢(ヒトリ)で臥(フ)す該(ベキ)ならんや。
註]
已故:今は亡き、故。 唧唧:ジイジイ(虫の鳴き声、擬声語)。
蟋蟀:きりぎりす、こおろぎ。 鋪:敷く、広げる。
一只:対としてある物の“片方”。 煢:孤独、独りぼっち。
<現代語訳>
亡き妻を憶う
コオロギがジイジイと鳴き、
霜の降る夜、早くも寒気が増してきた。
自分の衣の袖を自分で敷き枕にして、
むしろの床で独り寝ることになるのだなあ。
<簡体字およびピンイン>
忆已故的妻子 Yì yǐgù de qīzi
唧唧蟋蟀鸣,Jījī xīshuài míng,
霜夜早寒生。Shuāng yè zǎo hán shēng.
铺衣一只袖,Pū yī yī zhī xiù,
筵床该卧茕。yán chuáng gāi wò qióng.
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藤原(/九条)良経は、藤原忠通(1097~1164、百人一首76番、閑話休題158)の孫、慈円(1155~1225、同95番、閑話休題153)の甥に当たる。関白・九条兼実(1149~1207)の次男であるが、同母兄・良通が早世したため、嫡男、九条家二代目当主となった。
26歳で内大臣、36歳で従一位・太政大臣とトントン拍子に昇進した。摂関家とは言え、その官位、和歌、漢詩、書道、……と、万能の才の持ち主、完璧な人物と評されていた。しかし1206年突然亡くなった。享年38歳。
但し一時期、挫折を味わっている。1196(建久7)年、政敵・源通親(ミチチカ)らに陥れられて父・兼実は関白を罷免され、叔父・慈円は天台座主を辞任するなど、縁者は朝廷から追放された。
良経は、九条家で一人だけ廟堂に止まったが、蟄居の身となった(「建久7年の政変」)。しかし1199年、後鳥羽院の意向で、蟄居のままで左大臣となり、翌年出仕を許され朝廷に復帰する。
後鳥羽院(在位1183~1198)は、良経の歌才を愛おしく思っていたに違いない。後鳥羽院は、「……あまりに佳い歌が多く、平凡な歌がないことが良経の欠点だ」と漏らしたことがあると、伝えられている。
当時、歌壇では藤原俊成・定家で代表される御子佐家の新風の和歌と、伝統を重んじ保守的な歌風の六条藤家の顕昭、経家らの2大門閥の激しい争いが展開された時期である。その状況は、俊成の歌を紹介した閑話休題155を御参照ください。
良経は、和歌について俊成の師事を受けた。1190年頃から叔父・慈円を後援・協力者として歌壇活動を活発に行い、歌合などを主催している。活動は御子佐家との結びつきが強く、同派歌人の後援・庇護者でもあったが、六条藤家歌人との交流もあった。
和歌の議論を「独鈷(ドッコ)と鎌首(カマクビ)の争い」と呼ぶようであるが、その用句を生むことになる新旧両派の歌論の場となったのは、1193・94にかけて良経が企画し、自邸で催した「六百番歌合」である。
良経が選んだ、彼自身を含めた新進歌人12人 -権門から4人、六条藤家から4人、御子佐家4人- がそれぞれあらかじめ用意された題で詠った100首、計1200首について、判者俊成の下、左右の組に分かれて争う600番の歌合であった。
この歌合では、歌の理念を巡る新旧両派の議論は非常に活発であった。またその他多くの歌合を主催しており、この良経歌壇は、『新古今和歌集』の形で結実する新風和歌の育成を促す土壌となった。
その後は後鳥羽院歌壇へと移行するが、やはり良経を含む御子佐家一派は活動の中核的な位置を占める。後鳥羽院の院宣による『新古今和歌集』(1205成立)が撰集されるが、良経はその仮名序を書き、また彼の歌がその巻頭歌を飾っている。
良経の歌は、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に多数入集し、自選の家集『秋篠月清集』は六家集のひとつとなっている。漢詩集『詩十体』があったが散逸して現存しない と。他に漢文日記『殿記』がある。
世は保元・平治の乱、源平の争いと騒々しく推移する中で、良経は短い生涯をあっけなく閉ざした。才能豊かであった良経は、華麗な王朝文化の終わりを予兆するかのように、一瞬キラッと輝いた一つの流星であったように思えてならない。
衣(コロモ)かたしき ひとりかも寝む
後京極摂政前太政大臣(九条良経(ヨシツネ)『新古今集』秋・518)
<訳>こおろぎが鳴く、霜の降りる寒々とした筵に、衣の片袖を敷いて、私はただ独りぼっちで寝るのであろうか。 (板野博行)
ooooooooooooo
霜が降り寒さも増してきたが、互いに衣の袖を枕にしあい、重ねて掛ける相手もなく、一人で寝なくてはならい と侘しい思いを詠っています。妻が亡くなった直後に詠まれたと伝えられています。
作者は、平安末~鎌倉初期の公卿・歌人・書家、藤原(/九条)良経(1169~1206)。摂関家直系、九条家2代の当主で、トントンと出世し、従一位・太政大臣まで昇り詰めたが、38歳に突然没している。勅撰和歌集『新古今和歌集』の仮名序を執筆、巻頭歌を飾っている。
詩題を「亡き妻を憶う」として、五言絶句の漢詩にしました、歌の趣旨を限定する恨みはありますが。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
憶已故的妻子 已故的妻子(ナキツマ)を憶(オモ)う
唧唧蟋蟀鳴, 唧唧(チチ)として蟋蟀(シッシュツ)鳴き,
霜夜早寒生。 霜夜 早(ツト)に寒(カン)生(ショウ)ず。
鋪衣一只袖, 衣の一只(カタホウ)の袖を鋪(シ)き,
筵床該臥煢。 筵床(エンショウ)に煢(ヒトリ)で臥(フ)す該(ベキ)ならんや。
註]
已故:今は亡き、故。 唧唧:ジイジイ(虫の鳴き声、擬声語)。
蟋蟀:きりぎりす、こおろぎ。 鋪:敷く、広げる。
一只:対としてある物の“片方”。 煢:孤独、独りぼっち。
<現代語訳>
亡き妻を憶う
コオロギがジイジイと鳴き、
霜の降る夜、早くも寒気が増してきた。
自分の衣の袖を自分で敷き枕にして、
むしろの床で独り寝ることになるのだなあ。
<簡体字およびピンイン>
忆已故的妻子 Yì yǐgù de qīzi
唧唧蟋蟀鸣,Jījī xīshuài míng,
霜夜早寒生。Shuāng yè zǎo hán shēng.
铺衣一只袖,Pū yī yī zhī xiù,
筵床该卧茕。yán chuáng gāi wò qióng.
xxxxxxxxxxxxxxx
藤原(/九条)良経は、藤原忠通(1097~1164、百人一首76番、閑話休題158)の孫、慈円(1155~1225、同95番、閑話休題153)の甥に当たる。関白・九条兼実(1149~1207)の次男であるが、同母兄・良通が早世したため、嫡男、九条家二代目当主となった。
26歳で内大臣、36歳で従一位・太政大臣とトントン拍子に昇進した。摂関家とは言え、その官位、和歌、漢詩、書道、……と、万能の才の持ち主、完璧な人物と評されていた。しかし1206年突然亡くなった。享年38歳。
但し一時期、挫折を味わっている。1196(建久7)年、政敵・源通親(ミチチカ)らに陥れられて父・兼実は関白を罷免され、叔父・慈円は天台座主を辞任するなど、縁者は朝廷から追放された。
良経は、九条家で一人だけ廟堂に止まったが、蟄居の身となった(「建久7年の政変」)。しかし1199年、後鳥羽院の意向で、蟄居のままで左大臣となり、翌年出仕を許され朝廷に復帰する。
後鳥羽院(在位1183~1198)は、良経の歌才を愛おしく思っていたに違いない。後鳥羽院は、「……あまりに佳い歌が多く、平凡な歌がないことが良経の欠点だ」と漏らしたことがあると、伝えられている。
当時、歌壇では藤原俊成・定家で代表される御子佐家の新風の和歌と、伝統を重んじ保守的な歌風の六条藤家の顕昭、経家らの2大門閥の激しい争いが展開された時期である。その状況は、俊成の歌を紹介した閑話休題155を御参照ください。
良経は、和歌について俊成の師事を受けた。1190年頃から叔父・慈円を後援・協力者として歌壇活動を活発に行い、歌合などを主催している。活動は御子佐家との結びつきが強く、同派歌人の後援・庇護者でもあったが、六条藤家歌人との交流もあった。
和歌の議論を「独鈷(ドッコ)と鎌首(カマクビ)の争い」と呼ぶようであるが、その用句を生むことになる新旧両派の歌論の場となったのは、1193・94にかけて良経が企画し、自邸で催した「六百番歌合」である。
良経が選んだ、彼自身を含めた新進歌人12人 -権門から4人、六条藤家から4人、御子佐家4人- がそれぞれあらかじめ用意された題で詠った100首、計1200首について、判者俊成の下、左右の組に分かれて争う600番の歌合であった。
この歌合では、歌の理念を巡る新旧両派の議論は非常に活発であった。またその他多くの歌合を主催しており、この良経歌壇は、『新古今和歌集』の形で結実する新風和歌の育成を促す土壌となった。
その後は後鳥羽院歌壇へと移行するが、やはり良経を含む御子佐家一派は活動の中核的な位置を占める。後鳥羽院の院宣による『新古今和歌集』(1205成立)が撰集されるが、良経はその仮名序を書き、また彼の歌がその巻頭歌を飾っている。
良経の歌は、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に多数入集し、自選の家集『秋篠月清集』は六家集のひとつとなっている。漢詩集『詩十体』があったが散逸して現存しない と。他に漢文日記『殿記』がある。
世は保元・平治の乱、源平の争いと騒々しく推移する中で、良経は短い生涯をあっけなく閉ざした。才能豊かであった良経は、華麗な王朝文化の終わりを予兆するかのように、一瞬キラッと輝いた一つの流星であったように思えてならない。