愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 205 飛蓬-112 小倉百人一首:(三条院)こころにも

2021-04-19 10:24:06 | 漢詩を読む
68番 心にも あらで憂き世に ながらへば 
      恋しかるべき 夜半の月かな 
          三条院 (後拾遺和歌集 雑1・860)                  
<訳> 心ならずも、このつらい世の中に生きながらえることがあれば、きっと恋しく思い出すに違いない今夜の月であることよ。(板野博行) 

ooooooooooooo
運命に翻弄されるように、心ならずも退位を決意する三条天皇の心象風景を示す歌と言えよう。この先、さらに長寿を望むわけではないが、もしや命が永らえたなら、きっと今夜のこの月を懐かしく思い出すことであろう と。

作者・三条天皇(67代、生没年976~1017;在位1011~1016)の治世は、その前後を含めて皇位継承の問題を孕みつつ、天皇自身眼病等の病を患い、不安定な時代と言えた。対照的に藤原道長(966~1027)を核として、藤原氏の全盛を極めた時に当たる。

歌に添えられた「病気故に退位の決意をした」旨の詞書を活かして詩題とし、七言絶句の漢詩としました。

xxxxxxxxxxxxxxx  
<漢詩原文および読み下し文> [入声六月韻] 
  退位時詠懐    退位時 懐(オモイ)を詠む 
宿痾令我久煩悩、 宿痾(シュクア) 我をして久しく煩悩(ボンノウ)せしめる、 
時不与人為隠没。 時 与(クミ)せざれば 人は為(タメ)に隠没(インボツ)せん。 
本非所希長寿命、 本(モト)より希(ネガ)う所に非ずも もしや寿命 長ければ、 
必定懐念夜闌月。 必定(カナラ)ずや懐念(カイネン)せん 夜闌(ヤラン)の月。 
 註] 
  宿痾:長い間治らない病気。 煩悩:心身を悩まし苦しめる。 
  与:味方する。 隠没:隠れて見えなくなる。 
  必定:きっと、判断・推論の確実性を表す。 
  懐念:しのぶ、懐かしがる。 夜闌:夜半、夜更け。 

<現代語訳> 
 退位に際し懐を詠む    
長患いで久しく苦しい思いをしてきたが、 
人は時運に見放されては 姿を消すことになろう。 
本より生き永らえることは私の願いではないが、もしや寿命があるなら、 
必ずやこの夜半の月を懐かしく思い出すことであろう。 

<簡体字およびピンイン>  
 退位时咏怀 Tuìwèi shí yǒng huái  
宿痾令我久烦恼, Sù'ē lìng wǒ jiǔ fánnǎo, 
时不与人为隐没。 shí bù yǔ rén wéi yǐn. 
本非所希长寿命, Běn fēi suǒ xī cháng shòumìng, 
必定怀念夜阑月。 bìdìng huáiniàn yèlán yuè. 
xxxxxxxxxxxxxx 
三条天皇は、歌人と言えるほどに歌を残してはいない。勅撰和歌集に収められた歌は8首に過ぎず、其のうち半分は“月”を詠んだものである と。強い孤独感故に、“月”に対して親近感を抱いていたのでしょうか。 

三条帝の苦悶の元は、皇位継承の問題も絡みつつ、親政を執り行いたいという自らの思いに対して、権力を強めていく藤原氏、特に道長との確執にあったように思える。歌の理解に役立つ範囲で、これらの状況を整理しておきたい。 

三条帝前後の時期は、藤原氏がその権力構造が確定し、栄華を極めた時である。その陰で、仮名文字の普及も手伝って、歌の世界では和泉式部、紫式部、清少納言等々、綺羅星の如く宮廷女流歌人たちが活躍した頃に当たる。 

先ず藤原氏。藤原師輔(909~960)の娘・安子が62代村上天皇(在位946~967)の中宮となり、その第2および第5皇子が、それぞれ、後に63代冷泉(同967~969)及び64代円融天皇(同969~984)となる。すなわち師輔は両帝の外戚として確かな基盤を築くことに成功した。 

師輔の子息・兼家は娘たちを入内させることによりさらにその絆を強める。冷泉帝と娘・懐子の間に65代花山天皇(同984~986)、円融帝と娘・栓子の間に66代一条天皇(同986~1011)、次いで冷泉帝と娘・超子の間に67代三条天皇の誕生である。 

続いては兼家の5男・道長の時代となる。1011年、一条帝は薨御の直前に譲位、36歳の三条帝が誕生する。三条帝には東宮時代の妻・藤原済時の娘・娍子がおり、敦明親王を設けていた。同親王の孫・行尊については先に紹介した(閑話休題204)。 

1012年、道長は次女・姸子を三条帝の中宮として入内させるが、三条帝は娍子を皇后として譲らず、“2后並立”の状態となった。翌年、姸子には禎子内親王が誕生するが、皇子の誕生に恵まれなかった。これらの事情から、三条帝と道長は決定的に不和の関係となる。

外孫の早期即位を望む道長は、長女・彰子と一条帝の間に誕生している敦成親王(後の68代後一条天皇、在位1016~1036)への譲位を画策する。1014年、三条帝は失明寸前の眼病を患う。不老不死の妙薬(?)・仙丹の服用によるとされる。

道長による譲位圧力は、眼病を理由によりさらに強まる。三条帝は譲位(1016)し、太上天皇となる。翌年出家し、程なく42歳で崩御する。6年ほどの短い在位であった。なお1014,15年には、相次いで内裏が焼失するという災害があり、また眼病以外に精神疾患も患っていたとの記載もある。

8歳で譲位を受けた後一条天皇が11歳になった時(1018)、道長は三女・威子を女御として入内させ、後に中宮とした。道長の長、次および三女が中宮となったのである。藤原実資は日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言を記している と。

威子の立后の日に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれた。その折、道長は即興で次の歌を披露した と:

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 
  かけたることも なしと思へば 
 [この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 
 何も足りないものはない] (Wikipedia) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする