愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 204 飛蓬-111 小倉百人一首:(前大僧正行尊)もろともに

2021-04-12 09:16:43 | 漢詩を読む
66番 もろともに あはれと思へ、山ざくら 
     花よりほかに 知る人もなし 
        前大僧正行尊(ギョウソン) (『金葉和歌集』雑521) 
<訳> 私がお前を見てしみじみといとしく思うように、お前も私をいとしく思ってくれ、山桜よ。私にはお前より他に理解してくれる人もいないのだから。[板野博行] 

ooooooooooooo  
山籠して厳しい修験道の修行中、思いもかけず満開の山桜に出遭い、「ともに愛おしみあいましょう」と感動を詠っています。「花よ、私には心を通わし合えるのは、お前の他には誰もいないのだよ」と。

作者・行尊は、平安後期の天台宗・僧侶、歌人。12歳で出家して近江・園城寺(オンジョウジ)に入り密教を学び、のちに大峰山など霊山を巡って修験の修行を重ねた。67代三条天皇の曾孫に当たり、上流貴族出身の高僧として霊験を顕し、“験力無双”と謳われた。

「修行中に思いもかけず満開の山桜に出遭い詠った」との詞書を起・承句に取り込んで、七言絶句の漢詩としました。

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<漢詩原文および読み下し文>   [下平声十二侵韻]  
 入山辛勤的修炼   入山(ニュウザン)し辛勤(シンキン)なる修練 
晨陟険陘夕默念、 晨(アシタ)に険陘(ケンケイ)を陟(ノボ)り 夕べに默念(モクネン)す、
山桜灼灼幽礀潯。 山桜 灼灼(シャクシャク)たり幽礀(ユウカン)の潯(ホトリ)。
寄言新友相憐愛、 言(ゲン)を寄す 新しき友よ 相(アイ)憐愛(リンアイ)せん、
除汝花外無賞心。 汝(ナンジ)花の除(ホカ)に賞心(ショウシン)無し。  
 註] 
  辛勤:勤勉である、懸命である。    険陘:険しい坂道。 
  灼灼:花が燃えるように明るく輝くさま。幽礀:ひっそりとした渓谷。 
  潯:(谷川の)ほとり。        憐愛:いとおしむ。 
  賞心:「心を一つにして景物を賞玩する友」の意。謝霊運の詩に借りた。 

<現代語訳> 
 山籠し修行に勤める  
夜が明けるとともに険しい山道を歩き、暮れると黙座して念(オモイ)を練る、
ひっそりした谷間の辺で、一際 色鮮やかに咲いた山桜に出逢った。 
共に孤独な身、新しい友に一言申し上げたい、お互い慈しみ合いましょう と、 
私には 汝・花の他に自然を愛で、心を通わせ合う友はいないのだ。

<簡体字およびピンイン> 
 入山辛勤的修炼   Rù shān xīnqín de xiūliàn   
晨陟险陉夕默念, Chén zhì xiǎn xíng xī mòniàn, 
山樱灼灼幽涧浔。  shān yīng zhuó zhuó yōu jiàn xún.   
寄言新友相怜爱, Jì yán xīn yǒu xiāng lián'ài, 
除汝花外无赏心。 chú rǔ huā wài wú shǎngxīn. 
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行尊(1055~1135)は、67代三条天皇(在位1011~1016)の曾孫に当たり、参議・源基平(モトヒラ)の子息である。10歳で父を亡くし、12歳で明尊の下で出家して近江・園城寺(三井寺)に入り、頼豪(ライゴウ)から密教を学ぶ。

のちに大峰山、葛城山、熊野などで修業を積み、25歳で頼豪から阿闍梨潅頂を受けた。[阿闍梨(アジャリ):教授、軌範など高僧の敬称;潅頂(カンチョウ):密教で香水を頭に注ぐ儀式]。30歳のころ、修行を終えて山を下る。

以後、加持祈祷の効験を謳われ、鳥羽天皇(74代、在位1107~1123)の即位に伴いその護持僧となり、しばしば霊験を顕し、公卿の崇敬も篤かった と。天台座主(1123)、大僧正(1125)に任ぜられる。大僧正として、宇治平等院を本寺としたので、平等院僧正とも呼ばれる。

山を下りた頃はすでに歌人としての名声は立っていた。大峰修行中の作などは西行の先例として後代から高く評価されている と。太皇太后宮寛子扇歌合(1089)や他の歌合に出詠、また広田南宮歌合(1127)では判者も務めている。

上掲の「もろともに」は、その「詞書」から、若く修業を積んでいた頃の歌と解る。やさしい“友愛の情”で山桜に話しかけていると言うよりは、自分は苦行中の孤独な身、心の内を話し合えるのは君しかいないのだ と“哀憐と共感の情”を吐露している。

歌壇活動は必ずしも多いとは言えないが、『金葉和歌集』(白河法皇の命、1127年成立)に初めて収録、それ以後の勅撰和歌集に49首入集されている。家集として、主に修業時代の歌を集めた『行尊大僧正集』がある。

行尊が“衣冠を着て歌を詠んでいる柿本人麻呂像”を夢に見て、それを写したという画が伝わっていて、人麻呂像の最初のものとされている。画もよくしたようである。また能筆であったとの話も伝わっている。

園城寺は、1081と1121年に2度、かねて対立していた延暦寺の襲撃を受けて焼失する。1134年8月、再建なった金堂の落慶供養が営まれ、行尊は年来の宿願を果たした。翌年2月、病により入滅。81歳。
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