(84番) ながらえば またこの頃や しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
藤原清輔朝臣(『新古今和歌集』雑1843)
<訳> これから先 生き長らえたのならば、今のつらさが懐かしく思い出されるのだろうか。この世をつらいと思った昔が 今は恋しく感じられるのだから。(板野博行)
oooooooooooooooo
今はこんなにも辛い状況にあるが、時が経てば、懐かしく思い返す時がきっとくるよ、だって曽てあれほど憂きに堪えない世の中だと思っていたのに、今日では、恋しく思い返されているのだから と。コロナで辛い思いをしている今日、力を落とさないで! と鼓舞しているように読める。
藤原清輔は、歌壇を二分する一方の雄・“六条藤家”の三代目の歌人、歌学者で、王朝歌学の大成者とされている。『万葉集』を基調とする、保守的な歌風を身上とする。当時革新的な歌風を興した他方の雄・“御子左家”の藤原俊成と競い、歌壇を活性化させた。
七言絶句とした。
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<漢字原文および読み下し文> ·[去声二十三漾韻]
懐旧念 懐旧の念
更加継続活無恙, 更加(サラ)に継続(ケイゾク)し、恙(ツツガ)なく活きていくならば,
人後緬懐難現状。 人 後(ノチ)には難(ムズカ)しかりし現状を緬懐(メンカイ)するならん。
曾経覚得憂塵世, 曾経(カツ)て憂(ウ)き塵世(ジンセイ)と覚得(オボエ)しに,
今日恋念昔彼況。 今日 昔の彼(カ)の況(キョウ)を恋念(レンネン)しあり。
註]
無恙:無事に、心配事なく。 緬懐:過ぎた事柄を追懐する。
覚得:感じる、…と思う。 塵世:この世、俗世。
恋念:恋しく思う、懐かしく思う。 彼:かつて憂に耐えないと思ったこと。
況:状況。
<現代語訳>
懐旧の想い
この先、なお無事に生きながらえて行けたならば、
後程には苦難の現状を懐かしく思い起こすことでしょう。
かつて憂きに堪えない世の中であると思っていたのが、
昔の彼の状況が、今日恋しく思い出されているのだから。
<簡体字およびピンイン>
怀旧念 Huáijiù niàn
更加继续活无恙, Gèngjiā jìxù huó wú yàng,
人后缅怀难现状。 rén hòu miǎnhuái nán xiànzhuàng.
曾经觉得忧尘世, Céngjīng juédé yōu chén shì,
今日恋念昔彼况。 jīnrì liàn niàn xī bǐ kuàng。
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藤原清輔(1104~1177)は、藤原北家末茂流、六条藤家の始祖・顕季(アキスエ)の孫、左京大夫・顕輔(アキスケ、百人一首79番)の次男、最終官位は、正四位下、太皇太后大進。40代半ばまで無位無官のままであった。不和のため父の後援が得られなかったためであろうとされている。
1144年、父・顕輔が崇徳院(百77番、閑休159)から勅撰和歌集・『詞花和歌集』(1151頃完)の編纂を命じられ、清輔もその補助に当たったが、父と対立し、清輔の意見はほとんど採用されなかったという。昇進が停滞したためであろう、詠歌の機会も恵まれなかったようである。当歌は、この不遇の時期の想いを念頭に詠ったのであろうか。
しかし優れた歌才は、知られ亘っていたのでしょう。崇徳院の命で選ばれた14名の歌人たちによる百首の会が催され「久安百首」(1150)として編集された。清輔もその一人として出詠しており、これが公的な和歌行事への最初の参加であったようだ。
1151年、父から「人麻呂影供」を伝授され、歌学の六条藤家を継ぐ。養弟・顕昭とともに実証的な六条家の学風を大成し、藤原俊成の御子左家に相対した。その頃、歌学書・『奥義抄』を崇徳院に献上、また和歌の百科全書ともいうべき『袋草子』を完成、二条帝に献上した。天皇の信任は篤く、太皇太后宮大進の地位を得た。
やがて摂関・太政大臣・九条兼実の師範となり、歌道家としての権勢は、対立する俊成の御子左家を凌いだ。その前後から自宅で歌合を主催したり、歌合の判者に招かれるなど、歌壇の中心的存在となっていく。
博学の人として知られ、『奥義抄』や『袋草子』の他、『和歌一字抄』、『和歌初学抄』などの歌学書を次々に著した。一方、二条帝に重用され『続詞花和歌集』を編纂していたが、奏覧前に帝が崩御し(1165)、勅撰和歌集とはならなかった、しかし私選集として完成させた。
1172年晩春、京都白河の寺院で、清輔主催の「暮春白河尚歯会和歌」が催された。“尚歯会”とは、“歯(ヨワイ)を尚(タットブ)会”、つまり敬老会である。主人を含めて最高齢の7人(7叟)が集まり、詩や和歌を作り、音楽を奏でたりして楽しむ会であると。
尚歯会は、唐詩人・白居易が創始者とされ、平安時代初期に日本に伝わったようです。もっとも、漢詩の世界では日本でも早くから実施されていたようであるが、和歌の世界では、清輔主催の此の会が最初であるという。
百人一首歌人で同会に参加したのは、清輔のほか、道因法師こと藤原敦頼(百82番、閑休222)である。作者名:「散位敦頼八十三歳」の記名から、道因法師の年齢が明らかになったことについては以前に触れた。
平安末期を代表する 優秀歌人 20人の歌人評である『歌仙落書』(1172)によれば、清輔は多種多様な作風の歌を詠じていると。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首入集、家集に『清輔朝臣集』がある。
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
藤原清輔朝臣(『新古今和歌集』雑1843)
<訳> これから先 生き長らえたのならば、今のつらさが懐かしく思い出されるのだろうか。この世をつらいと思った昔が 今は恋しく感じられるのだから。(板野博行)
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今はこんなにも辛い状況にあるが、時が経てば、懐かしく思い返す時がきっとくるよ、だって曽てあれほど憂きに堪えない世の中だと思っていたのに、今日では、恋しく思い返されているのだから と。コロナで辛い思いをしている今日、力を落とさないで! と鼓舞しているように読める。
藤原清輔は、歌壇を二分する一方の雄・“六条藤家”の三代目の歌人、歌学者で、王朝歌学の大成者とされている。『万葉集』を基調とする、保守的な歌風を身上とする。当時革新的な歌風を興した他方の雄・“御子左家”の藤原俊成と競い、歌壇を活性化させた。
七言絶句とした。
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<漢字原文および読み下し文> ·[去声二十三漾韻]
懐旧念 懐旧の念
更加継続活無恙, 更加(サラ)に継続(ケイゾク)し、恙(ツツガ)なく活きていくならば,
人後緬懐難現状。 人 後(ノチ)には難(ムズカ)しかりし現状を緬懐(メンカイ)するならん。
曾経覚得憂塵世, 曾経(カツ)て憂(ウ)き塵世(ジンセイ)と覚得(オボエ)しに,
今日恋念昔彼況。 今日 昔の彼(カ)の況(キョウ)を恋念(レンネン)しあり。
註]
無恙:無事に、心配事なく。 緬懐:過ぎた事柄を追懐する。
覚得:感じる、…と思う。 塵世:この世、俗世。
恋念:恋しく思う、懐かしく思う。 彼:かつて憂に耐えないと思ったこと。
況:状況。
<現代語訳>
懐旧の想い
この先、なお無事に生きながらえて行けたならば、
後程には苦難の現状を懐かしく思い起こすことでしょう。
かつて憂きに堪えない世の中であると思っていたのが、
昔の彼の状況が、今日恋しく思い出されているのだから。
<簡体字およびピンイン>
怀旧念 Huáijiù niàn
更加继续活无恙, Gèngjiā jìxù huó wú yàng,
人后缅怀难现状。 rén hòu miǎnhuái nán xiànzhuàng.
曾经觉得忧尘世, Céngjīng juédé yōu chén shì,
今日恋念昔彼况。 jīnrì liàn niàn xī bǐ kuàng。
xxxxxxxxxxxxxx
藤原清輔(1104~1177)は、藤原北家末茂流、六条藤家の始祖・顕季(アキスエ)の孫、左京大夫・顕輔(アキスケ、百人一首79番)の次男、最終官位は、正四位下、太皇太后大進。40代半ばまで無位無官のままであった。不和のため父の後援が得られなかったためであろうとされている。
1144年、父・顕輔が崇徳院(百77番、閑休159)から勅撰和歌集・『詞花和歌集』(1151頃完)の編纂を命じられ、清輔もその補助に当たったが、父と対立し、清輔の意見はほとんど採用されなかったという。昇進が停滞したためであろう、詠歌の機会も恵まれなかったようである。当歌は、この不遇の時期の想いを念頭に詠ったのであろうか。
しかし優れた歌才は、知られ亘っていたのでしょう。崇徳院の命で選ばれた14名の歌人たちによる百首の会が催され「久安百首」(1150)として編集された。清輔もその一人として出詠しており、これが公的な和歌行事への最初の参加であったようだ。
1151年、父から「人麻呂影供」を伝授され、歌学の六条藤家を継ぐ。養弟・顕昭とともに実証的な六条家の学風を大成し、藤原俊成の御子左家に相対した。その頃、歌学書・『奥義抄』を崇徳院に献上、また和歌の百科全書ともいうべき『袋草子』を完成、二条帝に献上した。天皇の信任は篤く、太皇太后宮大進の地位を得た。
やがて摂関・太政大臣・九条兼実の師範となり、歌道家としての権勢は、対立する俊成の御子左家を凌いだ。その前後から自宅で歌合を主催したり、歌合の判者に招かれるなど、歌壇の中心的存在となっていく。
博学の人として知られ、『奥義抄』や『袋草子』の他、『和歌一字抄』、『和歌初学抄』などの歌学書を次々に著した。一方、二条帝に重用され『続詞花和歌集』を編纂していたが、奏覧前に帝が崩御し(1165)、勅撰和歌集とはならなかった、しかし私選集として完成させた。
1172年晩春、京都白河の寺院で、清輔主催の「暮春白河尚歯会和歌」が催された。“尚歯会”とは、“歯(ヨワイ)を尚(タットブ)会”、つまり敬老会である。主人を含めて最高齢の7人(7叟)が集まり、詩や和歌を作り、音楽を奏でたりして楽しむ会であると。
尚歯会は、唐詩人・白居易が創始者とされ、平安時代初期に日本に伝わったようです。もっとも、漢詩の世界では日本でも早くから実施されていたようであるが、和歌の世界では、清輔主催の此の会が最初であるという。
百人一首歌人で同会に参加したのは、清輔のほか、道因法師こと藤原敦頼(百82番、閑休222)である。作者名:「散位敦頼八十三歳」の記名から、道因法師の年齢が明らかになったことについては以前に触れた。
平安末期を代表する 優秀歌人 20人の歌人評である『歌仙落書』(1172)によれば、清輔は多種多様な作風の歌を詠じていると。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首入集、家集に『清輔朝臣集』がある。