(94番)み吉野(ヨシノ)の 山の秋風 小夜(サヨ)ふけて
ふるさと寒く 衣(コロモ)打つなり
参議雅経『新古今和歌集』秋・483
<訳> 美しい吉野の山に秋風が吹き、夜も更けて、かつて離宮のあった吉野の里は寒々として、衣を打つ砧の音だけが響き渡っているよ。(板野博行)
ooooooooooooo
今日桜の名所として知られる吉野の里、万葉の頃には離宮が設けられ栄えていた。歌は、山から寒気を帯びた風が吹き降りてくる晩秋の頃でしょうか。夜更けの頃にはひっそりとして、ただ遠くから冬支度の衣を打つ砧の音が聞こえて来るだけであると。
古の華麗であったろう街の佇まいを想像しつゝ、古びた、侘しい今の情景に時の移ろいを強く感じる、平安末期の今である。作者の藤原雅経は、父の罪に連座して鎌倉に護送されるが、結果的に、鎌倉と京都を結ぶ“文化大使?”の役割を果たしました。
晩秋の吉野の情景を描く五言絶句としました。
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<漢字原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
訪名所吉野 名所吉野を訪ねる
吉野故園情,吉野 故園(コエン)の情,
秋風山氣清。秋風 山氣(サンキ)清し。
夜闌為蕭索,夜闌 為(タメ)に蕭索(ショウサク)たり,
惟聞擣衣声。惟(タ)だ聞く 衣(コロモ)を擣(ウ)つの声。
註]
吉野:現奈良県吉野郡吉野町。桜の名所で、曽て万葉の時代に離宮が置かれた。
歌枕である。
故園:ふるさと、故郷。 夜闌:夜更け。
蕭索:索漠としている、寒々としている。
擣衣:布を柔らかくする、または艶を出すために砧でたたくこと。
<現代語訳>
曽て離宮のあった名所 吉野を訪ねる
吉野の里は、曽て離宮が置かれていた、懐かしい想いのあるところで、
山から吹き下ろす秋風は、清々しい気に満ちている。
夜更けてくると、ひっそりとして寒々とした感に襲われ、
聞こえてくるのは、ただ砧(キヌタ)で衣を打つ音だけである。
<簡体字およびピンイン>
访名胜吉野 Fǎng míngshèng Jíyě
吉野故园情, Jíyě gùyuán qíng,
秋风山气清。 qiūfēng shān qì qīng.
夜阑为萧索, Yèlán wéi xiāosuǒ,
惟闻捣衣声。 wéi wén dǎo yī shēng.
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参議雅経(1170~1221)は、藤原北家師実流に属し、刑部卿・頼経の次男で、従三位参議まで昇進した。源頼朝・義経の対立の際、父・頼経は、義経に近かったことから、咎められて配流された。その折、雅経も連座して鎌倉に護送された。
雅経は、和歌と蹴鞠(ケマリ)の才能が頼朝に評価され、頼朝の猶子に迎えられた。そこで頼朝の子息、頼家および実朝(百人一首93番、閑話休題154)とも親交を結び、後に和歌の面で、実朝と定家(百97番、閑休156)の仲を取り持つことになる。
罪を許されて帰京(1197)後、後鳥羽院(百100番)の近臣として重んじられた。俊成(百83番、閑休155)に和歌を学び、後鳥羽院歌壇で少壮歌人として頭角を現し、常連として活躍する。和歌所寄人となり、『新古今和歌集』(1205年成立)の撰者の一人となった。
一方、当時、貴人の間では、鞠を蹴って遊ぶ遊戯が盛んであった。雅経は、祖父・頼輔の特訓を受けて蹴鞠の名手であった。1208年、大炊御門頼実が後鳥羽院を招いて催した鞠会で優れた才能を発揮、院から「蹴鞠長者」の称号を与えられている。
雅経は、飛鳥井(アスカイ)と号していて、飛鳥井流蹴鞠の一派を開き、後に同流派の祖とされており、『蹴鞠略記』を著している。度々鎌倉に招かれて、指導していた。飛鳥井家の和歌・蹴鞠についての権威は、後々400年後までも続いていたようである。
雅経の詠作は、情調的・絵画的・物語的で、余情を貴ぶ風で、特に、“本歌取り”の技巧に優れていると。当歌は、坂上是則(百31番、閑休190)の次の歌を元歌にした“本歌取り”の歌とされている:
み吉野の 山の白雪 つもるらし
ふるさと寒く なりまさるなり (古今和歌集 巻6・325)
[吉野の山では白雪が降り積もってくるのでしょう、此処古都の奈良では寒さが
一段と募ってきているから]
雅経は、『新古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に132首入集されている。家集に『明日香井集』があり、日記『雅経卿記』がある。
ふるさと寒く 衣(コロモ)打つなり
参議雅経『新古今和歌集』秋・483
<訳> 美しい吉野の山に秋風が吹き、夜も更けて、かつて離宮のあった吉野の里は寒々として、衣を打つ砧の音だけが響き渡っているよ。(板野博行)
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今日桜の名所として知られる吉野の里、万葉の頃には離宮が設けられ栄えていた。歌は、山から寒気を帯びた風が吹き降りてくる晩秋の頃でしょうか。夜更けの頃にはひっそりとして、ただ遠くから冬支度の衣を打つ砧の音が聞こえて来るだけであると。
古の華麗であったろう街の佇まいを想像しつゝ、古びた、侘しい今の情景に時の移ろいを強く感じる、平安末期の今である。作者の藤原雅経は、父の罪に連座して鎌倉に護送されるが、結果的に、鎌倉と京都を結ぶ“文化大使?”の役割を果たしました。
晩秋の吉野の情景を描く五言絶句としました。
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<漢字原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
訪名所吉野 名所吉野を訪ねる
吉野故園情,吉野 故園(コエン)の情,
秋風山氣清。秋風 山氣(サンキ)清し。
夜闌為蕭索,夜闌 為(タメ)に蕭索(ショウサク)たり,
惟聞擣衣声。惟(タ)だ聞く 衣(コロモ)を擣(ウ)つの声。
註]
吉野:現奈良県吉野郡吉野町。桜の名所で、曽て万葉の時代に離宮が置かれた。
歌枕である。
故園:ふるさと、故郷。 夜闌:夜更け。
蕭索:索漠としている、寒々としている。
擣衣:布を柔らかくする、または艶を出すために砧でたたくこと。
<現代語訳>
曽て離宮のあった名所 吉野を訪ねる
吉野の里は、曽て離宮が置かれていた、懐かしい想いのあるところで、
山から吹き下ろす秋風は、清々しい気に満ちている。
夜更けてくると、ひっそりとして寒々とした感に襲われ、
聞こえてくるのは、ただ砧(キヌタ)で衣を打つ音だけである。
<簡体字およびピンイン>
访名胜吉野 Fǎng míngshèng Jíyě
吉野故园情, Jíyě gùyuán qíng,
秋风山气清。 qiūfēng shān qì qīng.
夜阑为萧索, Yèlán wéi xiāosuǒ,
惟闻捣衣声。 wéi wén dǎo yī shēng.
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参議雅経(1170~1221)は、藤原北家師実流に属し、刑部卿・頼経の次男で、従三位参議まで昇進した。源頼朝・義経の対立の際、父・頼経は、義経に近かったことから、咎められて配流された。その折、雅経も連座して鎌倉に護送された。
雅経は、和歌と蹴鞠(ケマリ)の才能が頼朝に評価され、頼朝の猶子に迎えられた。そこで頼朝の子息、頼家および実朝(百人一首93番、閑話休題154)とも親交を結び、後に和歌の面で、実朝と定家(百97番、閑休156)の仲を取り持つことになる。
罪を許されて帰京(1197)後、後鳥羽院(百100番)の近臣として重んじられた。俊成(百83番、閑休155)に和歌を学び、後鳥羽院歌壇で少壮歌人として頭角を現し、常連として活躍する。和歌所寄人となり、『新古今和歌集』(1205年成立)の撰者の一人となった。
一方、当時、貴人の間では、鞠を蹴って遊ぶ遊戯が盛んであった。雅経は、祖父・頼輔の特訓を受けて蹴鞠の名手であった。1208年、大炊御門頼実が後鳥羽院を招いて催した鞠会で優れた才能を発揮、院から「蹴鞠長者」の称号を与えられている。
雅経は、飛鳥井(アスカイ)と号していて、飛鳥井流蹴鞠の一派を開き、後に同流派の祖とされており、『蹴鞠略記』を著している。度々鎌倉に招かれて、指導していた。飛鳥井家の和歌・蹴鞠についての権威は、後々400年後までも続いていたようである。
雅経の詠作は、情調的・絵画的・物語的で、余情を貴ぶ風で、特に、“本歌取り”の技巧に優れていると。当歌は、坂上是則(百31番、閑休190)の次の歌を元歌にした“本歌取り”の歌とされている:
み吉野の 山の白雪 つもるらし
ふるさと寒く なりまさるなり (古今和歌集 巻6・325)
[吉野の山では白雪が降り積もってくるのでしょう、此処古都の奈良では寒さが
一段と募ってきているから]
雅経は、『新古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に132首入集されている。家集に『明日香井集』があり、日記『雅経卿記』がある。