96番 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは 我が身なりけり
入道前太政大臣『新勅撰和歌集』雑・1054
[藤原公経(キンツネ)/西園寺公経]
<訳> 桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで雪のように降っているが、実は老いさらばえて古(ふ)りゆくのは、私自身なのだなあ。(小倉山荘氏)
oooooooooooooo
春の嵐がヒューツと吹き抜けてゆくと、誘われるように、庭の桜の枝も揺れ、花びらがフンワリと舞い散り、日差しを受けて輝いて見える。恰もボタン雪が降り出したかと思ううちに、実は、老(フ)りゆくのはわが身なのだと気附かされるのである。
平安から鎌倉時代へと世が変わる頃、流れに上手く乗り、太政大臣まで出世、莫大な富を築く。京都北山に菩提寺・西園寺を建立した西園寺公経(キンツネ)こと藤原公経の晩年の歌である。同寺は、今日、鹿苑院(金閣寺)としてその威容を遺している。
「歓楽極まりて 哀情多し」(漢・武帝)という漢詩の句がありますが、相通じる歌と言えようか、華やかな春を称揚しつゝ、老いを自覚する。七言絶句にしました。
xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [上平声十三元・十一真韻]
感受到年老 年老を感受す
勧誘苑花風暴奔, 苑の花を勧誘して風暴(フウボウ)奔(ハシ)る,
翩翩英瓣輝耀春。 翩翩(ヘンペン)として英瓣(エイベン)輝耀(キヨウ)する春。
恰如降来鵝毛雪, 恰(アタカ)も鵝毛雪(ガモウユキ)の降り来たるが如くあるも,
老下去実知我身。 老(フ)り下去(ユク)は実(マコト)に我が身なるを知る。
註]
風暴:春のあらし。 翩翩:軽やかに飛ぶさま。
英瓣:花びら。 輝耀:きらきら輝くさま。
鵝毛雪:ぼた雪。
<現代語訳>
老いを実感する
庭の桜の花を誘いながら春の嵐が駆け抜けていき、
ひらひらと舞い散る花びらが春の陽に輝いて見える。
あたかもぼた雪が降っているのではないかと思ってみていたが、
真に老(フ)りゆくのはわが身であることを気づかされるのである。
<簡体字およびピンイン>
感受到年老 Gǎnshòu dào nián lǎo
劝诱苑花风暴奔, Quànyòu yuàn huā fēngbào bēn,
翩翩英瓣辉耀春。 piānpiān yīng bàn huīyào chūn.
恰如降来鹅毛雪, Qiàrú jiàng lái émáo xuě,
老下去实知我身。 lǎo xiàqù shí zhī wǒ shēn.
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西園寺公経(1171~1244)は、平安末から鎌倉時代初期に活躍した公家、歌人である。内大臣・実宗(サネムネ)の子息、1196年、蔵人頭に昇進、従三位参議となり、公卿に列している。後鳥羽上皇(99番)の御厩別当も務めた。
公経は、源頼朝の姪・全子を妻としていたこと、また彼自身頼朝が厚遇した平頼盛の曽孫であることから、鎌倉幕府と親しい関係にあった。実朝(93番)が暗殺された(1219)後、外孫の藤原頼経を後継者として下向させる際、中心となって働いた。
後鳥羽上皇は、不満はありながら、幕府との関係を保っていたが、実朝が暗殺された後、幕府と友好関係を保つ意欲を失い、公武融和の方針を棄て、討幕を決意した。順徳天皇も皇位を皇子(仲恭天皇)に譲り、父・後鳥羽上皇の討幕計画に協力した。
幕府と親しい公経は幽閉され、後鳥羽上皇は、執権・北条義時追討の宣旨を出した(1221、承久3年)、“承久の変”の勃発である。しかし公経は、上皇の討幕計画を察知して、幕府に通報していたようだ。一か月ほどで戦は幕府側の勝利で終わった。
乱に対する幕府の措置は峻厳を窮め、上皇の近臣は斬罪、後鳥羽、順徳、土御門上皇は、それぞれ、隠岐、佐渡、土佐へ流罪とされた。京都朝廷は公経を中心に再編成され、公経は、内大臣を経て、1222年、政権トップの座、太政大臣へと昇進した。
変後、公経は、孫女を入内させて皇室の外戚となり、摂関家を凌ぐ権勢を恣にした。また荘園を保有し、さらに宋貿易による莫大な収入により富を築き、豪華奢侈を極めるに至った。
極め付きは、京都北山に豪華な園池を作り別荘とし、併せて菩提寺として西園寺を建立したことである。後に足利義満の手に渡り、鹿苑院(金閣寺)として、今日にその威容を伝えている。なお、“西園寺”の家名はこの同寺に由来している。
1244年薨御、享年74。幕府に追従して保身と我欲を満たすのに汲々とした奸物、世の奸臣と評され、必ずしも芳しい評価はないようである。動乱期にあって卓越した処世術を発揮した人物と言うべきか。
公経は、多芸・多才の人で、琵琶や書にも優れていた。歌人としては、主に“承久の変”以前、歌合や各種の歌会に出詠している。『新古今和歌集』に初出で、10首入集されている。『新勅撰和歌集』に30首で、入集数第4位と。新三十六歌仙の一人である。
ふりゆくものは 我が身なりけり
入道前太政大臣『新勅撰和歌集』雑・1054
[藤原公経(キンツネ)/西園寺公経]
<訳> 桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで雪のように降っているが、実は老いさらばえて古(ふ)りゆくのは、私自身なのだなあ。(小倉山荘氏)
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春の嵐がヒューツと吹き抜けてゆくと、誘われるように、庭の桜の枝も揺れ、花びらがフンワリと舞い散り、日差しを受けて輝いて見える。恰もボタン雪が降り出したかと思ううちに、実は、老(フ)りゆくのはわが身なのだと気附かされるのである。
平安から鎌倉時代へと世が変わる頃、流れに上手く乗り、太政大臣まで出世、莫大な富を築く。京都北山に菩提寺・西園寺を建立した西園寺公経(キンツネ)こと藤原公経の晩年の歌である。同寺は、今日、鹿苑院(金閣寺)としてその威容を遺している。
「歓楽極まりて 哀情多し」(漢・武帝)という漢詩の句がありますが、相通じる歌と言えようか、華やかな春を称揚しつゝ、老いを自覚する。七言絶句にしました。
xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [上平声十三元・十一真韻]
感受到年老 年老を感受す
勧誘苑花風暴奔, 苑の花を勧誘して風暴(フウボウ)奔(ハシ)る,
翩翩英瓣輝耀春。 翩翩(ヘンペン)として英瓣(エイベン)輝耀(キヨウ)する春。
恰如降来鵝毛雪, 恰(アタカ)も鵝毛雪(ガモウユキ)の降り来たるが如くあるも,
老下去実知我身。 老(フ)り下去(ユク)は実(マコト)に我が身なるを知る。
註]
風暴:春のあらし。 翩翩:軽やかに飛ぶさま。
英瓣:花びら。 輝耀:きらきら輝くさま。
鵝毛雪:ぼた雪。
<現代語訳>
老いを実感する
庭の桜の花を誘いながら春の嵐が駆け抜けていき、
ひらひらと舞い散る花びらが春の陽に輝いて見える。
あたかもぼた雪が降っているのではないかと思ってみていたが、
真に老(フ)りゆくのはわが身であることを気づかされるのである。
<簡体字およびピンイン>
感受到年老 Gǎnshòu dào nián lǎo
劝诱苑花风暴奔, Quànyòu yuàn huā fēngbào bēn,
翩翩英瓣辉耀春。 piānpiān yīng bàn huīyào chūn.
恰如降来鹅毛雪, Qiàrú jiàng lái émáo xuě,
老下去实知我身。 lǎo xiàqù shí zhī wǒ shēn.
xxxxxxxxxxxxxxx
西園寺公経(1171~1244)は、平安末から鎌倉時代初期に活躍した公家、歌人である。内大臣・実宗(サネムネ)の子息、1196年、蔵人頭に昇進、従三位参議となり、公卿に列している。後鳥羽上皇(99番)の御厩別当も務めた。
公経は、源頼朝の姪・全子を妻としていたこと、また彼自身頼朝が厚遇した平頼盛の曽孫であることから、鎌倉幕府と親しい関係にあった。実朝(93番)が暗殺された(1219)後、外孫の藤原頼経を後継者として下向させる際、中心となって働いた。
後鳥羽上皇は、不満はありながら、幕府との関係を保っていたが、実朝が暗殺された後、幕府と友好関係を保つ意欲を失い、公武融和の方針を棄て、討幕を決意した。順徳天皇も皇位を皇子(仲恭天皇)に譲り、父・後鳥羽上皇の討幕計画に協力した。
幕府と親しい公経は幽閉され、後鳥羽上皇は、執権・北条義時追討の宣旨を出した(1221、承久3年)、“承久の変”の勃発である。しかし公経は、上皇の討幕計画を察知して、幕府に通報していたようだ。一か月ほどで戦は幕府側の勝利で終わった。
乱に対する幕府の措置は峻厳を窮め、上皇の近臣は斬罪、後鳥羽、順徳、土御門上皇は、それぞれ、隠岐、佐渡、土佐へ流罪とされた。京都朝廷は公経を中心に再編成され、公経は、内大臣を経て、1222年、政権トップの座、太政大臣へと昇進した。
変後、公経は、孫女を入内させて皇室の外戚となり、摂関家を凌ぐ権勢を恣にした。また荘園を保有し、さらに宋貿易による莫大な収入により富を築き、豪華奢侈を極めるに至った。
極め付きは、京都北山に豪華な園池を作り別荘とし、併せて菩提寺として西園寺を建立したことである。後に足利義満の手に渡り、鹿苑院(金閣寺)として、今日にその威容を伝えている。なお、“西園寺”の家名はこの同寺に由来している。
1244年薨御、享年74。幕府に追従して保身と我欲を満たすのに汲々とした奸物、世の奸臣と評され、必ずしも芳しい評価はないようである。動乱期にあって卓越した処世術を発揮した人物と言うべきか。
公経は、多芸・多才の人で、琵琶や書にも優れていた。歌人としては、主に“承久の変”以前、歌合や各種の歌会に出詠している。『新古今和歌集』に初出で、10首入集されている。『新勅撰和歌集』に30首で、入集数第4位と。新三十六歌仙の一人である。