久方振りに故郷を訪ねて、足の向くに任せて辿り着いたのは雑草の生い茂った庭、人気が感じられない寂れたお家でした。草に置いた露はかつての恋人の涙でしょうか。歌の裏に、止むに止まれぬ事情のあったことを想像させます。
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[詞書] 故郷の恋
草深み さしも荒れたる 宿なるを
露を形見に 尋ね来しかな (金槐集 恋 465)
(大意) 雑草が生い茂り、荒れた宿ではあるが、草の上に降りた露を想い出の
縁として 尋ねてきたよ。
註] ○草深み:草が深く茂っていて; 〇宿なるを:宿であるが; 〇露を
形見に:露を想いでのしるしにして、“露”に涙の意を含ませる。
※ 昔の恋人の家へ久しぶりに訪ねてきた趣きである。
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<漢詩>
故園情 故園の情 [上平声十三元]
蕭條蔓草園, 蕭條(ショウジョウ)たり 蔓草(マンソウ)の園,
寂寂有幽軒。 寂寂(セキセキ)として 幽軒(ヨウケン)有り。
草露為憑借, 草露(ソウロ)を憑借(ヒョウシャク)と為(ナ)し,
又尋情自存。 又 尋(タズ)ぬ 情(オモイ)自(オノ)ずから存す。
註] 〇蕭條:ひっそりとして寂しいさま; 〇蔓草:つる草、荒れている様
子; 〇寂寂:ひっそり静まったさま、もの寂しいさま; 〇幽軒:ほの
暗い部屋; 〇草露:草に降りた露、涙を暗示する; 〇憑借:よすが、
頼り; 〇情自存:胸中去来する想いのあること。
<現代語訳>
故郷への想い
雑草の生い茂った荒れた庭、
もの寂しく、人気のない部屋。
草に降りた露を思い出の“よすが”として、
想いを胸に、又心の故郷に尋ねてきたよ。
<簡体字およびピンイン>
故园情 Gùyuán qíng
萧条蔓草园, Xiāotiáo màncǎo yuán,
寂寂有幽轩。 jì jì yǒu yōu xuān.
草露为凭借, Cǎo lù wéi píngjiè,
又寻情自存。 yòu xún qíng zì cún.
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歌人・実朝の誕生 (24)
賀茂真淵に次いで、実朝の歌を絶賛したのは、明治時代の正岡子規(1867~1902)である。“正岡子規”と言えば、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を思い出す、俳句の改革者とのイメージが強い。
しかし短い生涯であったが、俳句に限らず、“短歌*”を含めた近現代文学における短詩型文学を方向づけた改革者とされている。漢詩も作られていて、その評価もかなり高かったようである。
ちょっと横道に入ります:“和歌”と“短歌*”の用語について。“和歌”とは、“漢詩”に対して使っていた用語で、元々“倭歌(ヤマトウタ)”と言っていて、長歌も含まれていた。その始まりは、文字の輸入以前には、独特のリズム(57のリズム?)で声を出して“歌って”いたのでしょう。
一方、“短歌”とは、明治時代以降の57577調の詩形で、長歌は含まれない句形を言う と。19世紀のヨーロッパの自然主義の影響を受けて、子規が俳句で“写生”を主眼に詠んだように、短歌でも同様の傾向のようであった。
したがって“和歌”では、“もののあはれ”の“こころ”を基に、恋の歌が多く詠われていたが、“短歌”では、情景や実情を忠実に詠むようになっていく。実朝の歌は、やはり“和歌”の表記が相応しいように思える。
本論に戻って。短歌においては、子規の果たした役割は実作よりは、歌論において大きいと言われている。その著作『歌よみに与ふる書』がある。同書では、『万葉集』、ひいては実朝の称揚、『古今集』の否定に重点が置かれている。
同書は、「仰(オオ)せの如く近来和歌は一向に振るい不申(モウサズ)候(ソウロウ)。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最後を遂げられ誠に残念致し候。」と書き始める。
「実朝は、……とにかくに第一流の歌人と存(ゾンジ)候。強(アナガ)ち人丸(ヒトマロ)・赤人(アカヒト)の余唾(ヨダ)を舐(ネブ)るでもなく、固(モト)より貫之(ツラユキ)・定家(テイカ)の糟粕(ソウハク)をしゃぶるでもなく、自己の本領屹然(キツゼン)として山岳(サンガク)と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏(オソ)るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之(コレアリ)候。」と続き、実朝を高く評価しています。
「……何故と申すに実朝の歌はただ器用と言ふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚(コ)びざる処、……人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。」
子規の実朝礼賛は、並みではないことが窺えるが、さらに、実朝に対する批判論に対しては、舌鋒鋭く反論しています。江戸時代後期の歌人・香川景樹(1768~1843)は、真淵の著書『新学(ニイマナビ)』に対して、真淵の『万葉集』尊重と古代精神復活の主張を批判する『新学異見(イケン)』を出版している。
同書中、「鎌倉の右府の歌は志気ある人決して見るべきものにあらず……、右府の歌の如くことごとく古調を踏襲し古言を割裂たらんには……」に対して、子規は、次のように激しく反論している。
「……余りといえば余りなる言ひ草の傍若無人なるに、腹据えかねて鉄の筆もて少しぶちのめしてくれんずと思ふ。……『金槐集』中には二、三十首の秀歌古今に卓絶し、……これらは皆実朝の創意造語に出で殆ど破天荒とも言ふべきものを……」
「……自己の歌がことごとく『古今集』以下を踏襲剽窃(ヒョウセツ)したる事は棚へあげて、……高潔清浄なる実朝の如きを捕らえて泥棒に落とさんとす。盗人猛々しとは景樹のことなり」 と。
古今調、新古今調が世を支配していた近世の当時にあって、奇しくも万葉調の歌をも詠んでいた実朝の存在には強い衝撃を受け、万葉調の歌風を重んじ、和歌改革への情熱を漲らせていた子規の意気が感じられる一書である。