焼失後再建なった、荘厳な佇まいの鶴岡八幡宮を言祝ぎ、都・鎌倉が万代に栄えんとの願いを込めて詠っています。歌の作年は不明であるが、将軍着任中の作で、為政者としての想いが込められた歌と言えよう。
実朝は、“歌や蹴鞠を好み、武芸は廃れたようだ”、“凡庸な人だ”と評されていたようであるが、最近は見直されつゝある。歌には、為政者としての“思い”が込められているように読めた。この“思い”を汲んで、漢詩では、「余が統(ス)べる……」と踏み込んだ内容とした。
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[詞書] 慶賀の歌の中に
宮柱 ふとしき立てて 万代に
今ぞさかえむ 鎌倉のさと
(金槐集・貞享本 雑・676; 続古今集 賀・1902)
(大意) 鶴岡の宮に厳めしく立派な宮柱を立てて神をお守りし 今から長い年
月にわたってこの鎌倉の里は栄え続けてゆくことだろう。
註] ○ふとしき:厳めしく堂々としているさま、“宮柱 ふとしき立てて”:
宮柱を厳然と立てて宮殿を営むこと。
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<漢詩>
賀神殿 神殿を賀す [去声十七霰韻]
峨峨搭立柱, 峨峨(ガガ)たり 立柱の搭(クミタテ),
肅肅聳神殿。 肅肅(シュクシュク)と聳(ソビエ)る神殿。
万代必昌盛, 万代 必(カナラ)ずや昌盛(ショウセイ)せん,
鎌倉餘統甸。 鎌倉 餘(ヨ)の統(ス)べる甸(テン)。
註] 〇峨峨:高く聳えたつさま; 〇搭:組み立てる; 〇肅肅:厳粛なさ
ま; 〇昌盛:大いに栄える; 〇甸:天子の都城から五百里までの区域。
<現代語訳>
神殿を慶賀する
高々と組み立てられた宮柱、
厳粛な佇まいで聳える神殿。
これから百世に亘って栄えることでしょう、
私の統べるこの鎌倉の都。
<簡体字およびピンイン>
贺神殿 Hè shéndiàn
峨峨搭立柱, É é dā lìzhù,
肃肃耸神殿。 sù sù sǒng shéndiàn.
万代必昌盛, Wàndài bì chāngshèng,
镰仓余统甸。 liáncāng yú tǒng diàn.
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鶴岡八満宮は、前九年の役(1051~1062)での戦勝祈願のため、源義家(1039?~1106)により鎌倉・由比ガ浜辺に建設されたが、1180年、平家打倒の兵を挙げた源頼朝が現在地に移築したものである。以後源氏の氏神として崇拝されて来た。
歌は、神殿の築造中の状況を詠っているように読める。八幡宮は、火災に遭い、再建されているが、それは1191年、実朝誕生の前年の出来事であり、築造の状況を目撃したわけではない。
1208年、神宮寺が創建されており、実朝は、社寺建築の実際を目にしているはずである。その経験から、力強く、厳粛な神殿の再建のさまが想像されて、この歌に繋がったものと思われる。
先に、最近の研究から、「“実朝像”が見直されつつある」と述べたが、此処で具体的に論ずるには未熟な状況であるように思える。ただ言えることは、過去の論拠は、そのほとんどが、歴史書・『吾妻鑑』に拠っているということである。
容易に想像できることであるが、いつの時代、何れの国家・機関であっても、自らの“歴史書”が必ずしも真実を伝えるものではない という現実がある。時の権力に阿った記述であることが多いからである。
“実朝像”についても、諸資料を参照しつゝ、『吾妻鑑』の“読み直し”が進められていて、興味ある知見が蓄積されつゝあり、今日、成果を楽しみに見守っている情況であると言える。
さて、掲歌は、次の歌を参考にしたものとされています。
ふだらくの 南の岸に 堂立てて
今ぞ栄えむ 北の藤波 (新古今集 巻十九・神祇歌 1854)
(大意) 観音がすむという補陀落(フダラク)山の南に堂を建てて 今こそ栄える
であろう北の藤波(フヂナミ)。
註] 〇ふだらく:補陀落山、インド南端の海岸にあり、観音が住むと言う八
角形の山。山頂には池があるという; 〇北の藤波:藤原氏北家の象徴。
※ 詞書に「興福寺の南円堂造り始め侍りける時、春日の榎本の明神、よみ給
へりける」とある。藤原氏の氏寺である興福寺を “補陀落山”に見立て、
また南門前にある“猿沢池”を“補陀落山頂の池”に見立てて、藤原氏の繁栄
を願い詠ったもののようである。なお南円堂は八角形の造りであるいう。
“榎本の明神”とは、春日の地主神。歌の具体的な“作者”名は、不明である。