[十帖 賢木―1 要旨] (光源氏 23歳秋~25歳夏)
六条御息所は、源氏への思いを断ち、伊勢の斎宮に決まっている娘とともに伊勢にいく決心する。源氏は、晩秋の野宮(ノノミヤ)に御息所を訪ねる。
御息所は、迷ったが、どこまでも冷淡にはできない感情に負けて、源氏の来訪を許したのである。源氏は、榊の枝を少し折って手に持っていたのを、御簾の下から差し入れて、「私の心の常盤な色に自信を持って、恐れのある場所へもお訪ねしてきたのですが、あなたは冷たくお扱いになる」と言った。それに対して、御息所が贈った歌:
神垣は しるしの杉も なきものを
いかにまがえて 折れる榊ぞ (御息所)
御息所の情熱の度が源氏より高かった時代、源氏は慢心していて、この人の真価を認めようとしなかった。自分はこの人が好きであったのだと認識し、別れた後の寂しさも考えられて、源氏は泣き出してしまった。
御息所も積もり積もった恨めしさも消えていくようで、動揺することになってはならない危険な会見を避けていたのであるが、予感していた通りに心はかき乱されるのであった。
本帖の歌と漢詩
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神垣は しるしの杉も なきものを
いかにまがえて 折れる榊ぞ
(大意) ここ野宮の神垣には三輪の杉のような目当てのしるしの杉とてないのに、どうして間違えて榊など折ってきたのでしょう。
※ “しるしの杉”とは、大神神社(オオミワジンジャ)がある奈良・三輪山に自生する神聖な杉。万葉時代から“門にある杉”を目印にして訪ねてくるようにと歌に詠まれている。
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<漢詩>
依恋之情 依恋之情 [上平声一東韻]
野宮神聖地, 野宮(ノノミヤ)は 神聖な地,
無杉在垣中。 垣中に杉は無し。
其如来錯処, 其れ来るべき処を錯(アヤマ)るが如し,
遠道帶楊桐。 遠道(ハルバル) 楊桐(サカキ)を帶びて。
[註] ○依恋:未練が残る、慕わしくおもう; 〇野宮:京都嵯峨野にある
神社; 〇楊桐:榊、賢木。
<現代語訳>
名残の逢瀬
野宮は神聖なるところ、
目印となるべき杉の木は境内にない。
来るところを間違えたのではないですか、
はるばると榊の枝を持って。
<簡体字およびピンイン>
依恋之情 Yīliàn zhī qíng
野宫神圣地, Yěgōng shénshèng dì,
无杉在垣中。 wú shān zài yuán zhōng.
其如来错处, Qí rú lái cuò chù,
远道带杨桐。 yuǎndào dài yángtóng.
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御息所の歌に答えて、源氏は:
少女子(オトメゴ)があたりと思へば榊葉の
香をなつかしみとめてこそ折れ (光源氏)
(大意) ここが神様にお仕えする乙女のおられる辺りと思い 榊葉の香りに惹かれて一枝折って来たのですよ。
zzzzzzzzzzzzzzzz 賢木-2
[十帖 賢木―2 要旨]
桐壺院が崩御した。右大臣の権力が強くなり、弘徽殿女御が宮中で君臨し、思いのままに振る舞うようになる。藤壺は、院亡き後、春宮の後ろ盾として源氏を頼りにする一方、源氏の藤壺への思いは増々強まっていく。思い悩んだ藤壺は、院の一周忌法要後、出家する。
年改まって、右大臣家の姫君(六の宮・朧月夜)が朱雀帝の内侍として仕え、源氏は夢のように朧月夜に近づいた。朧月夜も朝夕に見ても見飽かぬ源氏を見ることができるようになり、喜び一入である。
ある夜、もうすぐ夜が明けようとする頃、近衛の下士が、あちこちで「寅一つ(午前四時)」と報じて歩いた。朧月夜は、いかにもはかなそうに:
心から かたがた袖を 濡らすかな
明くと教(ヲシ)ふる 声につけても (朧月夜)
源氏は、落ち着いておられなくなり、返歌を残して別れて出ていった。源氏は朧月夜との人目を忍ぶ逢瀬を重ねていたが、ある雷雨の晩、右大臣に密会の現場を押さえられる。弘徽殿の大后はじめ、右大臣家の怒りは凄まじく、これを機に、政界から源氏を追い出そうと画策する。
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心から かたがた袖を 濡らすかな
明くと教(ヲシ)ふる 声につけても (尚侍 十帖 賢木-2)
(大意) 自分の心の所為で、あれやこれや何かにつけて、涙が袖を 濡らしてしまうのです。夜が明けると告げる声をきくと、あなたが私に飽きると聞こえて。
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<漢詩>
多担心事 担心事(シンパイゴト) 多し [上平声六魚韻]
為自心迷惑, 自(オノズ)から 心の迷惑(マヨイ)に為(ヨ)り,
諸事潤衣裾。 諸事(ショジ) 衣の裾(ソデ)を潤(ウルオ)す。
声所告払暁, 払暁(ヨアケ)を告げる所の声,
聴聞厭倦余。 余(ワタシ)を厭倦(アキ)たと聴聞(キコ)えて。
[註] 〇迷惑:戸惑う; 〇厭倦:飽き飽きする、嫌になる。
<現代語訳>
心配事 多し
自分自身の心の迷いから、何かにつけて 涙で衣の袖を濡らすのだ。夜明けと告げる声も、私に飽きた と聞こえて。
<簡体字およびピンイン>
多担心事 Duō dānxīn shì
为自心迷惑, Wèi zì xīn míhuò,
诸事润衣裾。 zhūshì rùn yī jū.
声所告拂晓, Shēng suǒ gào fúxiǎo,
听闻厌倦余。 tīngwén yànjuàn yú.
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追っ立てられるように朧月夜と別れていく源氏が残した歌:
歎きつつわがよはかくて過ごせとや胸のあくべき時ぞともなく
(大意) 一生こうして嘆きながら過ごせというのだろうか 夜は明けても胸の思いの晴れることはなくて。
【井中蛙の雑録】
・賢木と榊:いずれも“さかき”、ツバキ科の常緑樹、神木として神に供せられる。当て字か。