愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 173 飛蓬-80 小倉百人一首:(伊勢)難波潟

2020-10-21 09:28:20 | 漢詩を読む
(19番) 難波潟(ナニワガタ) 短き葦の ふしのまも
       あはでこの世を すぐしてよとや
               伊勢 新古今和歌集 恋一 1049
<訳> 難波潟に生えている葦の 節と節との間が短いように、ほんの短い間さえあなたに逢うこともなく、このまま一生を過ごして行けと言うのですか。(板野博行)

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訪れは絶え、お顔をお見せすることさえない……と、ぼやき、訴えています。伊勢は、非常に情熱的で、容貌や心情の美しい女性であったと伝えられている。心変わりした恋人に直接訴えた、遣る瀬無い思いを禁じ得ない真実の恋の歌なのである。

伊勢(872?~938?)は、平安初期の女性歌人で、59代宇多天皇(在位887~987)の中宮・温子(オンシ)に女官として仕えていた。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられている。『古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に176首が入集されている と。

七言絶句の漢詩にしてみました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文> [上平声十五刪韻]
 悲恋
難波渚葦萋萋茂, 難波(ナニワ)の渚(ナギサ)の葦(アシ) 萋萋(セイセイ)として茂る,
真是天然短節間。 真(マコト)に是れ天然(モト)より短き節の間。
君谓如此暫期限, 君は謂う 此(カク)の如くに暫(シバシ)の期限でも,
無相逢過今世寰。 相逢(アイアウ)ことも無く 今世(コノヨ)の寰(セカイ)を過ごせよとか。
 註] 
  難波渚::難波潟、難波は固有名詞で地名、現在の大阪湾。
  萋萋:草木の茂っているさま。  此:前句を受け、節と節の間が短いこと。
  寰:世界、広い地域。
  
<現代語訳>
 悲恋
難波潟では葦が青々と茂っている、
葦の節と節との間はもとより短いことだ。
君は、これと同じような短いわずかな時間でさえも、
逢ってくれることもなく、今生の世界を過ごせよと仰るのですか。

<簡体字およびピンイン>
 悲恋      Bēi liàn
难波汀葦萋萋茂,Nánbō tīng wěi qī qī mào,
真是天然短节间。zhēnshi tiānrán duǎn jié jiān.
君谓如此暂期限,Jūn wèi rúcǐ zàn qīxiàn,
无相逢过今世寰。wú xiāngféng guò jīnshì huán  
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歌の作者・伊勢は、伊勢守藤原継蔭(ツグカゲ)の娘であることから伊勢と呼ばれたようである。その生没年の詳細は不明である。59代宇多天皇(867~931、在位887~987)の中宮・温子に女房として仕えた。

藤原仲平と相思相愛の仲であった。しかし仲平は出世に伴い、「多忙につき逢えない」という趣旨の心変わりの手紙を送ってきたという。その手紙に対して詠ったのが上掲の歌である と。伊勢の率直な胸の内が伝わってくる歌と言える。

傷心の伊勢は、女官をやめて実家に帰ったようです。ところで、仲平とは、時の権力者・基経の子息、また時平の弟である。さらには貞信公(忠平、閑話休題162参照)及び中宮・温子の兄なのである。

やがて伊勢は、宮中に呼び戻され、宇多天皇の寵愛を受け伊勢御息所(イセミヤスンドコロ)と呼ばれました。中宮・温子にしてみれば、自分に仕えていた女房が、夫の寵愛を受けていることに心穏やかでない心持ちであったことは想像に難くない。

天皇との間には親王を設けたが、残念ながら親王は夭逝し、天皇とも別れることになります。しかしその後は、宇多天皇の第四皇子・敦慶(アツヨシ)親王と結婚して、娘・中務(ナカツカサ)を設けています。

さても奔放に、波乱万丈な生涯を送ったように思える。本人の性質でもあろうが、情熱的で、彩色兼備の女性であったということであり、周囲の男性が放っておかなかったのではないでしょうか。

伊勢は、小野小町に次ぐ女流歌人として、また紀貫之と並び称される歌人であった。『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に176首が入集されており、『古今和歌集』(22首)、『後撰和歌集』(65首)および『拾遺和歌集『(25首)と女流歌人として最も多く採録されている と。

三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人として数えられている。なお娘の中務も三十六歌仙の一人に数えられており、母の歌才をしっかりと受け継いでいるようです。伊勢には家集『伊勢集』がある。

伊勢作の胸に残る名歌をもう一首。想像は広がり、華の都を去って故郷に帰っていく人を思わせる歌とも読めます。故郷に隠棲した陶淵明先生は「山の霞は夕暮れに映えて美しく、その中を鳥が連れ立ってねぐらへ帰ってゆく。この何気ない情景、そこにこそ人生の真の意味があるのだ」と、詠っていますが(閑話休題126)。 

春霞(ハルカスミ) たつを見捨てて ゆく雁は
   花なきさとに 住みやならえる (『古今和歌集』 春 伊勢)
[春霞が立って もうすぐ(桜の)季節になるというのに その楽しみを
  見捨てて帰っていく雁は 花のない故郷に住み慣れているのだろうか]
   
コメント
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