(20番)わびぬれば 今はた同じ 難波(ナニハ)なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
元良親王『後選集』恋・961
<訳> これほど思い悩んでしまったのだから、今はどうなっても同じことだ。難波の海に差してある澪漂ではないが、この身を滅ぼしてもあなたに逢いたいと思う。(小倉山荘氏)
oooooooooooooo
想いに想い、これ以上ないほどに悩み、打ちひしがれている、もうこの身などどうでもよい、逢いたいのだ とヤケノヤンパチ の状態である。どうやら真実の恋の話のようであり、本気の恋は危険な恋 と言えそうです が。
作者は、元良(モトヨシ)親王(890~943)。57代陽成天皇(在位876~943)の第一皇子であるが、帝が退位させられた後に誕生し、皇位継承が叶わなかった。世に入れられない恋に落ち、それが露見し、逢瀬の手立てがなく悩んでいた折の歌である。
“堅い”印象のある漢字を用いて、“柔らかい恋”の話を綴るのは難儀なことではある。七言絶句としてみました。下記ご参照ください。
<漢詩原文および読み下し文> [下平声二蕭韻]
熱烈恋情 熱烈恋情
煩悩高峰無所谓, 煩悩(ボンノウ)高き峰にあり 谓(イ)う所(トコロ)無し,
思難波海有澪標。 難波(ナニワ)の海に有る澪標(レイヒョウ)を思う。
全然不厭滅亡己, 全然(マッタク) 己(オノレ)を滅亡させるを厭(イト)わず,
願怎么也塔鵲橋。 願(ネガワク)は 怎么也(イカデ)か鵲橋(カササギバシ)を塔(ワタ)さん。
註]
高峰:最高点、ピーク。 無所谓:どうでもよい。
難波海:難波江、現大阪の海。
澪標:澪標(ミオツクシ)、澪(ミオ、水脈・航道)に杭を並べて立て、船が往来する
時の目印にする。大阪市の市標の形。和歌では「身を尽くし=
身を亡ぼす」に掛ける。
全然:まったく。 己:おのれ(の身)。
鵲橋:カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋。七夕の夜、
牽牛・織女の2星が逢うのを助けたという。
<現代語訳>
烈々な恋心
思い悩むことがこんなにも高まり、もうどうでもよくなった、
難波の海に立てられた澪標が思われ、身は尽きてもよい。
今やわが身を亡ぼすことなど全く厭わない、
願うらくは、何としても鵲橋を渡してあなたに逢いたいのだ。
<簡体字およびピンイン>
热烈恋情 Rèliè liànqíng
烦恼高峰无所谓, Fánnǎo gāofēng wúsuǒwèi,
思难波海有澪标。 Sī Nánbō hǎi yǒu líng biāo.
全然不厌灭亡己, Quánrán bùyàn mièwáng jǐ,
顾怎么也塔鹊桥。 gù zěnme yě tǎ quèqiáo.
xxxxxxxxxxxxxxx
陽成天皇が退位された経緯については先に触れた(閑話休題-169)。元良親王は、陽成帝の第一皇子であり、皇位継承の第一候補であったはずである。しかし陽成帝が退かれた後に誕生したため、皇位継承は叶わず、不運な皇子と言えた。
それも一因であったろうか、『大和物語』や『今昔物語』などに語られる逸話は必ずしも芳しいものではない と。“一夜めぐりの君”と呼ばれるほどに好色・多情な風流人とされている。
他人が撰んだ親王の歌集『元良親王御集』には、「世の中の美女と評判が立った女性には、逢う逢わないの区別なく手紙を書き、歌を送った」と記されている と。同集の歌を読み解くと、貴族、遊女、行きずりの女等々、相手した女性は幅広く、30余人に上るという。
それら女性の中で、上掲の歌に詠まれた相手は別格で、本気に恋したようである。密かに通じてしまったその女性は、京極御息所(キョウゴクミヤスドコロ)、時の宇多法皇の寵后で藤原褒子(ホウシ)でした。唯の不倫ではない、許される恋ではありません。
ましてや、褒子は左大臣藤原時平の娘でした。時平と言えば、父・陽成帝を廃位に追い込んだ政敵基経の子息である。また菅原道真を大宰府に追いやった、時の権力者、飛ぶ鳥も落とす勢いの人です(閑話休題-162参照)。
親王、褒子ともに、この恋の危険さを気づいてはいたが、相思相愛の仲、踏ん切りがつかなかったようである。遂には不倫が露顕することとなり、逢うことが叶わなくなった。その折、親王が褒子に宛てて送った歌が、上掲の歌である と。
この事件は、宮廷を揺るがす大醜聞です。元良親王は謹慎させられましたが、事件は実際は闇に葬られ、沙汰止みになったようである。なお褒子は天下に知られた美女。志賀寺上人という、生涯女性と付き合わなかった90歳の名僧さえ恋狂いさせてしまったほどの美人であった と。
元良親王の歌才は、父・陽成帝の血を引いているようだ。『後撰和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に20首が入集されている と。また『元良親王御集』が後世になって作られている。
一方、褒子は京極御息所歌合(921)を開催したり、伊勢など才覚ある女房を周囲に集めるなど、歌人としての活動もしていた。親王-褒子の不倫が露見する前、親王は危険を感じて、贈った手紙を取り戻そうとした。それに対して褒子は、ためらいの気持ちを次のように詠っています:
やればよし やらねば人に 見えぬべし
泣く泣くもなほ 返すまされり(『元良親王御集』)
[お返しするのは惜しいけれど 返さなければ人に見られてしまうでしょう
泣く泣くではありますが お返ししたほうがよいのですね]。(小倉山荘氏)
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
元良親王『後選集』恋・961
<訳> これほど思い悩んでしまったのだから、今はどうなっても同じことだ。難波の海に差してある澪漂ではないが、この身を滅ぼしてもあなたに逢いたいと思う。(小倉山荘氏)
oooooooooooooo
想いに想い、これ以上ないほどに悩み、打ちひしがれている、もうこの身などどうでもよい、逢いたいのだ とヤケノヤンパチ の状態である。どうやら真実の恋の話のようであり、本気の恋は危険な恋 と言えそうです が。
作者は、元良(モトヨシ)親王(890~943)。57代陽成天皇(在位876~943)の第一皇子であるが、帝が退位させられた後に誕生し、皇位継承が叶わなかった。世に入れられない恋に落ち、それが露見し、逢瀬の手立てがなく悩んでいた折の歌である。
“堅い”印象のある漢字を用いて、“柔らかい恋”の話を綴るのは難儀なことではある。七言絶句としてみました。下記ご参照ください。
<漢詩原文および読み下し文> [下平声二蕭韻]
熱烈恋情 熱烈恋情
煩悩高峰無所谓, 煩悩(ボンノウ)高き峰にあり 谓(イ)う所(トコロ)無し,
思難波海有澪標。 難波(ナニワ)の海に有る澪標(レイヒョウ)を思う。
全然不厭滅亡己, 全然(マッタク) 己(オノレ)を滅亡させるを厭(イト)わず,
願怎么也塔鵲橋。 願(ネガワク)は 怎么也(イカデ)か鵲橋(カササギバシ)を塔(ワタ)さん。
註]
高峰:最高点、ピーク。 無所谓:どうでもよい。
難波海:難波江、現大阪の海。
澪標:澪標(ミオツクシ)、澪(ミオ、水脈・航道)に杭を並べて立て、船が往来する
時の目印にする。大阪市の市標の形。和歌では「身を尽くし=
身を亡ぼす」に掛ける。
全然:まったく。 己:おのれ(の身)。
鵲橋:カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋。七夕の夜、
牽牛・織女の2星が逢うのを助けたという。
<現代語訳>
烈々な恋心
思い悩むことがこんなにも高まり、もうどうでもよくなった、
難波の海に立てられた澪標が思われ、身は尽きてもよい。
今やわが身を亡ぼすことなど全く厭わない、
願うらくは、何としても鵲橋を渡してあなたに逢いたいのだ。
<簡体字およびピンイン>
热烈恋情 Rèliè liànqíng
烦恼高峰无所谓, Fánnǎo gāofēng wúsuǒwèi,
思难波海有澪标。 Sī Nánbō hǎi yǒu líng biāo.
全然不厌灭亡己, Quánrán bùyàn mièwáng jǐ,
顾怎么也塔鹊桥。 gù zěnme yě tǎ quèqiáo.
xxxxxxxxxxxxxxx
陽成天皇が退位された経緯については先に触れた(閑話休題-169)。元良親王は、陽成帝の第一皇子であり、皇位継承の第一候補であったはずである。しかし陽成帝が退かれた後に誕生したため、皇位継承は叶わず、不運な皇子と言えた。
それも一因であったろうか、『大和物語』や『今昔物語』などに語られる逸話は必ずしも芳しいものではない と。“一夜めぐりの君”と呼ばれるほどに好色・多情な風流人とされている。
他人が撰んだ親王の歌集『元良親王御集』には、「世の中の美女と評判が立った女性には、逢う逢わないの区別なく手紙を書き、歌を送った」と記されている と。同集の歌を読み解くと、貴族、遊女、行きずりの女等々、相手した女性は幅広く、30余人に上るという。
それら女性の中で、上掲の歌に詠まれた相手は別格で、本気に恋したようである。密かに通じてしまったその女性は、京極御息所(キョウゴクミヤスドコロ)、時の宇多法皇の寵后で藤原褒子(ホウシ)でした。唯の不倫ではない、許される恋ではありません。
ましてや、褒子は左大臣藤原時平の娘でした。時平と言えば、父・陽成帝を廃位に追い込んだ政敵基経の子息である。また菅原道真を大宰府に追いやった、時の権力者、飛ぶ鳥も落とす勢いの人です(閑話休題-162参照)。
親王、褒子ともに、この恋の危険さを気づいてはいたが、相思相愛の仲、踏ん切りがつかなかったようである。遂には不倫が露顕することとなり、逢うことが叶わなくなった。その折、親王が褒子に宛てて送った歌が、上掲の歌である と。
この事件は、宮廷を揺るがす大醜聞です。元良親王は謹慎させられましたが、事件は実際は闇に葬られ、沙汰止みになったようである。なお褒子は天下に知られた美女。志賀寺上人という、生涯女性と付き合わなかった90歳の名僧さえ恋狂いさせてしまったほどの美人であった と。
元良親王の歌才は、父・陽成帝の血を引いているようだ。『後撰和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に20首が入集されている と。また『元良親王御集』が後世になって作られている。
一方、褒子は京極御息所歌合(921)を開催したり、伊勢など才覚ある女房を周囲に集めるなど、歌人としての活動もしていた。親王-褒子の不倫が露見する前、親王は危険を感じて、贈った手紙を取り戻そうとした。それに対して褒子は、ためらいの気持ちを次のように詠っています:
やればよし やらねば人に 見えぬべし
泣く泣くもなほ 返すまされり(『元良親王御集』)
[お返しするのは惜しいけれど 返さなければ人に見られてしまうでしょう
泣く泣くではありますが お返ししたほうがよいのですね]。(小倉山荘氏)