(13番) 筑波(ツクバ)嶺(ネ)の 峯(ミネ)より落つる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院 『後撰和歌集』恋・777
<訳> 筑波山の峰から流れ落ちる男女川(ミナノガワ)は、始めはわずかな水量に過ぎないが、それが溜まってやがて深い淵になるように、私の恋心もほのかな想いが積もり積もって深い想いになってしまったよ。(板野博行)
oooooooooooooooo
「始めは淡い恋心であったが、想いが募って恋焦がれるようになりました」と、筑波・男女川の流れに例えつゝ、恋人への想いを吐露しています。架空の言葉遊びではなく、恋人に直接訴えた、真実の歌です。思いは通じて、結ばれたようです。
歌の作者は陽成院(57代陽成天皇、在位876~884)、歌を送られた相手は綏子(スイシ)内親王(のちに后)である。歌才があり、退位後に歌合を幾度か催したようですが、自身の歌として伝わるのは、『後撰和歌集』に入撰したこの歌一首のみである と。
この歌は、何ら技巧を凝らすことなく、率直に想いを詠った歌と言えます。但し、古代に歌垣が行われたという男女川を例に採り、想いを述べたことは、技巧以上の巧みさを感じます。歌の漢詩化も歌同様に素直にできました。
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<漢字原文および読み下し文> [下平声一先韻]
因爱情而焦思 爱情に因(ヨ)り思(ムネ)を焦(コ)がす
従筑波落男女川, 筑波(ツクバ)従(ヨ)り落つる男女川(ミナノガワ),
行行流水潭幾千。 行(ユ)き行きて流水 潭(タン)幾千尺となる。
向她恋慕略微湧, 她(カノジョ)への恋慕(レンボ) 略微(ホノカ)に湧き,
日日積積做広淵。 日に日に積(ツモ)り積(ツモ)りて 広(ヒロ)い淵と做(ナ)る。
註]
筑波:茨城県にある筑波山。山頂が西の男体山(871m)と東の女体山(877m)
からなる。古代には、作物の豊穣を祈願して、春と秋に男女が集まって
神を祀り、求愛の歌を歌いながら自由な性行為を楽しむ「歌垣」が
行われていた。
男女川:男体山と女体山の峰から流れ出る川なので、こう呼ばれている。
「水無乃川」とも書く。 潭:水を深く湛えたところ、淵。
⁑陽成院の恋は実って、見初めた女性(光孝天皇の皇女・綏子(スイシ)内親王)
を后として迎えている。
<現代語訳>
胸を焦がす愛
筑波山の峰から流れ落ちた水は男女川となり、
流れていった先で何千尺もの深い淵となる。
彼女への私の想いは、始めはほのかな想いが湧いただけであったが、
日に日に募って、男女川に似て、私の胸の内で広く深い淵となった。
<簡体字およびピンイン>
因爱情而焦思 Yīn àiqíng ér jiāo sī
从筑波落男女川, Cóng Zhùbō luò nánnǚ chuān,
行行流水潭几千。 xíng xíng liúshuǐ tán jǐ qiān.
向她恋慕略微涌, Xiàng tā liànmù lüèwēi yǒng,
日日积积做广渊。 rì rì jī jī zuò guǎng yuān.
xxxxxxxxxxxxxx
上掲の陽成院(869~949)の歌では、曇りのない率直な恋の想いが詠われています。しかし院の事績を追ってみると、時代に翻弄された、不幸な天皇であったのではないか と思われてなりません。その生涯を概観しておきます。
陽成院、幼名・貞明(サダアキラ)は、56代清和天皇(850~880)と藤原高子との間の第一皇子である。高子についてはこれまで何度か話題にしたことがあります。在原業平と恋に落ち駆け落ちしたが、実兄・藤原基経に連れ戻された過去のある方です。
貞昭親王は、生後3ケ月に立太子、9歳で即位して陽成天皇となります。先代・藤原良房の例を踏襲して、叔父・基経が摂政となります。当初は高子・陽成および基経は協力し政務は円滑に進んだが、清和帝の没後、政局は混乱していった。
諸々の政治的駆け引き・確執が嵩じて、高子・陽成と基経の間で亀裂が深まっていきます。その争いの本質は、基経・高子兄妹間の不和にあるとされている。昔、恋路を閉ざし・閉ざされた経験が基に?但しこれは筆者の邪推であるが。遂には基経が出仕しなくなった、職場放棄である。
883年、陽成天皇の乳兄弟・源益(マサル)が宮中で帝に近侍中、突然何者かに殴殺される事件が起こった。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録も残っていない と。しかし帝が事件に関与していたのではないか と風聞が立ったようである。
陽成天皇は、奇行、異常行動が多かったと伝えられており、好意的な評価は見当たらない。宮中での殺人という異常事に疑いが掛けられたに違いない。基経に迫られて翌年、陽成帝は退位します(満15歳)。公的には病気による自発的譲位とされている。
不評な評判や異常な事件、退位を余儀なくされた等々、それらの影に基経の策略を疑う意見もあるようである。退位後、続く光孝、宇多、醍醐、朱雀および村上天皇と数代に渡って上皇位を保ち、上皇歴65年と歴代一位の記録をもつ長命であった。
上掲の歌からも伺えるように、陽成院は優れた歌才を有し、また退位後幾度か歌合を催しているようである。しかし今日、陽成院の作として伝えられているのはこの一首だけであるという。寂しい限りである。
筑波山は関東を代表する山で、和歌に歌枕として多く詠まれている。筑波山での“歌垣”について万葉集に、常陸の国の官吏として赴任していた高橋虫麿(ムシマロ)の次のような長歌がある。参考までに、訳文を引用しておきます。
鷲のすむ 筑波の山の 裳羽服津(モハキツ)の渡し場の上に 連れ立って女と男が集まり 歌を掛け合う歌垣で 人妻にわたしも交わろう わたしの妻に人も言い寄れ この山を治める神が 昔から禁じていない行事なのだ 今日ばかりは目串(=非難の眼差し)で見るな 咎める言葉も言うな (万葉集 巻第九 1759)。(小倉山荘氏による)
恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院 『後撰和歌集』恋・777
<訳> 筑波山の峰から流れ落ちる男女川(ミナノガワ)は、始めはわずかな水量に過ぎないが、それが溜まってやがて深い淵になるように、私の恋心もほのかな想いが積もり積もって深い想いになってしまったよ。(板野博行)
oooooooooooooooo
「始めは淡い恋心であったが、想いが募って恋焦がれるようになりました」と、筑波・男女川の流れに例えつゝ、恋人への想いを吐露しています。架空の言葉遊びではなく、恋人に直接訴えた、真実の歌です。思いは通じて、結ばれたようです。
歌の作者は陽成院(57代陽成天皇、在位876~884)、歌を送られた相手は綏子(スイシ)内親王(のちに后)である。歌才があり、退位後に歌合を幾度か催したようですが、自身の歌として伝わるのは、『後撰和歌集』に入撰したこの歌一首のみである と。
この歌は、何ら技巧を凝らすことなく、率直に想いを詠った歌と言えます。但し、古代に歌垣が行われたという男女川を例に採り、想いを述べたことは、技巧以上の巧みさを感じます。歌の漢詩化も歌同様に素直にできました。
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<漢字原文および読み下し文> [下平声一先韻]
因爱情而焦思 爱情に因(ヨ)り思(ムネ)を焦(コ)がす
従筑波落男女川, 筑波(ツクバ)従(ヨ)り落つる男女川(ミナノガワ),
行行流水潭幾千。 行(ユ)き行きて流水 潭(タン)幾千尺となる。
向她恋慕略微湧, 她(カノジョ)への恋慕(レンボ) 略微(ホノカ)に湧き,
日日積積做広淵。 日に日に積(ツモ)り積(ツモ)りて 広(ヒロ)い淵と做(ナ)る。
註]
筑波:茨城県にある筑波山。山頂が西の男体山(871m)と東の女体山(877m)
からなる。古代には、作物の豊穣を祈願して、春と秋に男女が集まって
神を祀り、求愛の歌を歌いながら自由な性行為を楽しむ「歌垣」が
行われていた。
男女川:男体山と女体山の峰から流れ出る川なので、こう呼ばれている。
「水無乃川」とも書く。 潭:水を深く湛えたところ、淵。
⁑陽成院の恋は実って、見初めた女性(光孝天皇の皇女・綏子(スイシ)内親王)
を后として迎えている。
<現代語訳>
胸を焦がす愛
筑波山の峰から流れ落ちた水は男女川となり、
流れていった先で何千尺もの深い淵となる。
彼女への私の想いは、始めはほのかな想いが湧いただけであったが、
日に日に募って、男女川に似て、私の胸の内で広く深い淵となった。
<簡体字およびピンイン>
因爱情而焦思 Yīn àiqíng ér jiāo sī
从筑波落男女川, Cóng Zhùbō luò nánnǚ chuān,
行行流水潭几千。 xíng xíng liúshuǐ tán jǐ qiān.
向她恋慕略微涌, Xiàng tā liànmù lüèwēi yǒng,
日日积积做广渊。 rì rì jī jī zuò guǎng yuān.
xxxxxxxxxxxxxx
上掲の陽成院(869~949)の歌では、曇りのない率直な恋の想いが詠われています。しかし院の事績を追ってみると、時代に翻弄された、不幸な天皇であったのではないか と思われてなりません。その生涯を概観しておきます。
陽成院、幼名・貞明(サダアキラ)は、56代清和天皇(850~880)と藤原高子との間の第一皇子である。高子についてはこれまで何度か話題にしたことがあります。在原業平と恋に落ち駆け落ちしたが、実兄・藤原基経に連れ戻された過去のある方です。
貞昭親王は、生後3ケ月に立太子、9歳で即位して陽成天皇となります。先代・藤原良房の例を踏襲して、叔父・基経が摂政となります。当初は高子・陽成および基経は協力し政務は円滑に進んだが、清和帝の没後、政局は混乱していった。
諸々の政治的駆け引き・確執が嵩じて、高子・陽成と基経の間で亀裂が深まっていきます。その争いの本質は、基経・高子兄妹間の不和にあるとされている。昔、恋路を閉ざし・閉ざされた経験が基に?但しこれは筆者の邪推であるが。遂には基経が出仕しなくなった、職場放棄である。
883年、陽成天皇の乳兄弟・源益(マサル)が宮中で帝に近侍中、突然何者かに殴殺される事件が起こった。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録も残っていない と。しかし帝が事件に関与していたのではないか と風聞が立ったようである。
陽成天皇は、奇行、異常行動が多かったと伝えられており、好意的な評価は見当たらない。宮中での殺人という異常事に疑いが掛けられたに違いない。基経に迫られて翌年、陽成帝は退位します(満15歳)。公的には病気による自発的譲位とされている。
不評な評判や異常な事件、退位を余儀なくされた等々、それらの影に基経の策略を疑う意見もあるようである。退位後、続く光孝、宇多、醍醐、朱雀および村上天皇と数代に渡って上皇位を保ち、上皇歴65年と歴代一位の記録をもつ長命であった。
上掲の歌からも伺えるように、陽成院は優れた歌才を有し、また退位後幾度か歌合を催しているようである。しかし今日、陽成院の作として伝えられているのはこの一首だけであるという。寂しい限りである。
筑波山は関東を代表する山で、和歌に歌枕として多く詠まれている。筑波山での“歌垣”について万葉集に、常陸の国の官吏として赴任していた高橋虫麿(ムシマロ)の次のような長歌がある。参考までに、訳文を引用しておきます。
鷲のすむ 筑波の山の 裳羽服津(モハキツ)の渡し場の上に 連れ立って女と男が集まり 歌を掛け合う歌垣で 人妻にわたしも交わろう わたしの妻に人も言い寄れ この山を治める神が 昔から禁じていない行事なのだ 今日ばかりは目串(=非難の眼差し)で見るな 咎める言葉も言うな (万葉集 巻第九 1759)。(小倉山荘氏による)