愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 189 飛蓬-96 小倉百人一首:(中納言行平)たち別れ

2021-01-11 09:44:18 | 漢詩を読む
16番  たち別れ いなばの山の 峰に生ふる  
      まつとし聞かば 今帰り来む 
         中納言行平『古今集』離別・365 
<訳> お別れして、因幡の国へ行く私ですが、因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待つと聞いたなら、すぐに戻ってまいりましょう。(小倉山荘氏) 

ooooooooooooo 
因幡の国への赴任に際し、後ろ髪を引かれる思いを因幡山の松の木に事寄せて詠っています。京から遠く離れた任地に赴くに当たって、名残惜しい想いに駆られて、事と次第によっては、……と言わんばかりの気負いが感じられる歌である。

作者・中納言行平(818~893)は、51代平城(ヘイゼイ)天皇(在位806~809)の第一皇子・阿保(アボ)親王の次(?三)男、異母弟に在原業平(825~880)がいる。業平とは異なり、有能な官吏で順調に昇進して、正三位・中納言に至っている。

上の歌は、五言絶句の漢詩にしてみました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十五刪韻] 
 当赴因幡国 因幡(イナバ)の国に赴くに当って 
别赴因幡地, 别れて因幡の地に赴く, 
有松稻羽山。 稻羽(イナバ)の山には松有り。 
聞君等余返, 余が返(カエ)りを君等(マ)つと聞かば, 
我就要回還。 我は就(ジキ)に回還(カイカン)を要せん。 
 註] 
  因幡:現鳥取県。       稻羽山:因幡の国庁近くにある山。 
  回還:もとの場所に戻る。
 ※ 赴(赴任して行く=往(イ)なば)と因幡、松と等(まつ)は、
   それぞれ、和歌中の掛詞に対応。 

<現代語訳>  
 因幡の国に赴任するに当たって  
私は君と別れて因幡の土地に赴任します、 
稲羽山の峰には松の木が生えている。 
その松に似て、私の帰りを君が待っている と聞いたなら、 
私は直ちに帰ってくることにしますよ。 

<簡体字およびピンイン> 
 当赴因幡国 Dāng fù Yīnfān guó 
别赴因幡地,Bié fù Yīnfān dì, 
有松稻羽山。yǒu sōng Dàoyǔ shān. 
闻君等余返,Wén jūn děng yú fǎn,  
我就要回还。wǒ jiù yào huíhuán. 
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行平は、異母弟・業平ともに、父・阿保親王の奏請により、在原朝臣(アソン)姓を賜与され、臣籍降下した(826)。順調に昇進し、特に民政に才を発揮したようである。855年(38歳)、従四位下に叙せられると同時に因幡守に任じられた。上の歌は任国に赴く際に作られたものである。

地方赴任2年余で兵部大輔として京官に復し帰京する(857)。理由は定かでないが、55代文徳天皇(在位850~858)の時、須磨に蟄居を余儀なくされており、それが「源氏物語」の“須磨”の巻のモデルであるとされている。

また当時の国家的教育機関・大学寮の付属機関・別曹(学生寮)として、奨学院を創設し(881)、大学寮を目指す在原氏および他の王士の子弟の修学の便を計った。当時は藤原氏の勧学院と並んで著名であった由。

歌人としての行平は、『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に11首入集されている。また880年代中頃に民部卿行平歌合(在民部卿家歌合)を主催しており、これは現存する最古の歌合とされている。

行平の活躍した平安時代の初期は、皇位継承の混乱に乗じ、政治的陰謀による藤原氏の他氏排斥が進み、藤原氏北家の繁栄の基礎が築かれた時期と言える。華麗な王朝文化が花開くその陰で、権謀術数が横行していた。その辺の事情を垣間見てみます。

時は50代桓武天皇(在位781~806)の平城京から平安京への遷都(794)後間もない頃である。第一皇子・平城帝が病弱で、第二皇子・嵯峨天皇(52代、在位809~823)に譲位された。平城帝の尚侍(ショウジ)・藤原薬子(クスコ)とその兄・参議・仲成(藤原式家系)はそれに不服で、平城上皇の復位を策する。

810年1月、上皇は平城京に移り、平安/平城の“二所朝廷”の不安定な状況となる。9月6日、上皇は平城京遷都の詔勅を発する。10日、嵯峨帝は拒否を決断、臨戦態勢を敷き、11日、仲成を逮捕、死刑に処し、薬子の官位を略奪。12日、上皇は剃髪して出家。この通称“薬子の変”は、3日で終結した。

この変を機に、藤原氏式家系は脱落、かねて嵯峨帝の信任厚かった藤原冬嗣(北家、775~826)の台頭が著しく、北家繁栄の端緒が開かれたことになる。時経て、冬嗣の第2子・良房(804~872)が嵯峨上皇および檀林皇太后の信任を得て台頭していた。

皇位は嵯峨から、弟の淳和(53代、在位823~833)に、次いで皇子・仁明帝(54代、在位833~850)へと継がれていき、仁明帝時の皇太子に恒貞親王(825~884)が立てられた。恒貞親王は淳和帝の第2皇子で、母は嵯峨上皇の内親王正子である。 

一方、仁明帝には道康親王(827~858)がおり、母は良房の妹・順子で、同親王は良房にとっては甥に当たる。良房は道康親王の皇位継承を望んでいた。その意を汲んで、淳和帝および恒貞親王は嵯峨上皇に皇太子辞退を奏請するが、上皇に慰留されていた。

840年淳和上皇が崩御、842年(承和9年)7月、嵯峨上皇が病に伏す。皇太子・恒貞親王に仕える春宮坊帯刀(タテワキ)舎人・伴健岑(コワミネ)とその盟友・但馬権守・橘逸勢(ハヤナリ)は危機感を覚え、皇太子を東国へ移すよう画策する。

7月15日、嵯峨上皇が崩御。2日後の17日、仁明帝は、伴健岑、橘逸勢一味を逮捕するに至る。伴健岑らの画策は、相談を受けた阿保親王が密告したことから発覚したようである。恒貞親王は廃太子、伴健岑は隠岐(後に出雲)へ、橘逸勢は伊豆に流罪(途中遠江国板築で没)とされた。

結果、道康親王は皇太子に、後の文徳天皇(55代、在位850~858)である。良房は大納言に、さらに人臣最初の摂政・太政大臣へと昇進した。後に “承和の変”と称されるこの事変を通して、大伴や橘氏ら他有力氏族が排斥されるとともに、北家藤原氏繁栄の基礎が築かれたのである。

蛇足ながら、須磨に蟄居中に宮廷内にいる人に贈ったとされる、行平の歌を読んで本項の締めとします。

わくらばに 問う人あらば 須磨の浦に 
   藻塩垂れつつ わぶとこたえよ (古今和歌集 雑 在原行平朝臣) 
  [偶然にでもわたしの消息を尋ねる人があったなら 須磨の浦で藻塩に 
  海水をかけ(涙を流して)思い悩んでいると答えてくれ](小倉山荘氏) 
コメント
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